52. 魔物の病気が悪化しました(本編)
ぶ厚い白と灰色の織りを見ている。
どこからか光が入るのか、雪曇りの空には真っ白な雲の層も幾つか入って、遠くの空のうねりがここからもよく見えた。
もやもやとした雲に筋状の雲、時折米粒のような大きさで何かが飛んでいるのが見えるが、竜だろうか。
今日は雪竜の総会があり、古参の竜達が彼等の城に参集しているそうだ。
「よくわかりませんが、なぜ突然に“問題ない”ということになったのでしょう?」
「……私を巻き込まないでくれ」
ネアの疑問に付き合わされているのは、元婚約者であるエーダリアだ。
ディノが、ネアの誕生日プレゼントを受け取りに行っているこの間だけ、ご主人様は堅牢なエーダリアの執務室に託児されている。
「話を聞いてくれたヒルドさんにも、もの凄くいい笑顔で大丈夫だと言い切られました。これはもしや、一人で恋も出来ないだろうと考えられているから、こんな祝福でも残しておいてやろうと考えられてしまったのでしょうか?」
「………ヒルドもか」
ネアが相談しているのは、昼前に雪食い鳥のラファエルに与えられてしまった厄介な祝福についてだ。
一時はあれだけ荒ぶったディノは、なぜか唐突にこの問題をもう精査する必要はないと言い出したのである。
一瞬、ラファエルを殺してきてしまったのかと焦ったが、そう言うことではなく、手元の条件から調整出来るので不安要因ではなくなったという説明だった。
これがもし、憐れみによる放棄的措置であれば、ネアの女性としてのプライドはズタボロだ。
だが、ディノが出かけた隙に相談したヒルドも、なぜか問題ないの一点張りなのだ。
「……私にはわからないが、彼等には独自の魔術形態がある。双方から守護も庇護も受けているのだから、問題ないのではないか?」
そして、うっかり本日の仕事は終わったと知られてしまったエーダリアが、こうして相談役の生贄になっている。
「その上、うちの魔物はその後からなぜか、ご褒美を過度に要求するようになったのです。余所見しないように、今まで以上に構って貰う所存であるとか。困りました」
「それは自らが対象となるべくの強化を…………いや、お前が危なっかしいと判断したのだろう」
「誕生日にする懊悩ではないと思いました。……エーダリア様、このピンは本当に針穴なくして綺麗につくのですね!磁石でもないし、とても不思議です」
「魔術式で結び合うからな」
エーダリアから誕生日に貰ったのは、小さなダイヤに似た綺麗な石のピンブローチだった。
一粒石の小さなものだが、なんとそれ自体が通信端末になっている。
留め台となっている金細工の部分と石とは、魔術で引き合うそうなので、ピンブローチとは言え実際には針はない。
磁石合わせのように双方の部品が引き合い、服地の裏と表で合わせると、ぴたりと固定されるのだ。
(しかも、まさかの発信機にもなる!)
引き合う魔術式で結ばれているので、有事の際には片方を落としてゆけば、位置捕捉の道具にもなる。
これは、留め台に使われた素材が、かつてのグリムドールの鎖であるからだった。
ディノが毟り取った一本の鎖を、エーダリアが誕生日の贈り物として、再練成して装飾品にしてくれたのだ。
これはかなり重宝しそうなので、ネアはとても喜んだ。
「やはりエーダリア様は凄い方なのですね」
「そ、そうか。そうだな……」
褒められ慣れていないエーダリアは、ネアのそんな一言に分かりやすく狼狽えている。
何だか不憫になってしまったので、きちんと褒めるべきところでは褒めてゆこう。
「ヒルドは確か、雨具だったな」
「はい。雨用のコートを貰いました。まだ季節的には早いですが、雨の日にはあの白いケープを防具にしたくないですし、とても使い勝手が良さそうです!」
ヒルドがくれたのは、淡い水色のレインコートだ。
例の儀礼用ケープの適応外になる季節や天候を見込んで、外出時の防具としてかなり強固な守護のものを作ってくれた。
それに合わせて、ゼノーシュとグラストが同色のレインブーツを贈ってくれたので、ネアの雨の日対策は万全である。
ゼノーシュが織り上げた魔術と、グラストが捕まえてくれた水竜の羽のお陰で、レインブーツという範疇を超えて、海の上も歩ける程の撥水性を誇る。
もはや不思議道具に近い。
今から梅雨の時期がとても楽しみである。
「ほら、お前の魔物が帰ってきたようだぞ」
「もうわかるのですか?」
「リーエンベルクの守護結界は、私が統括しているからな」
「やはりエーダリア様は凄いのですね!後はもう、素敵な恋を出来れば一人前です」
「……いいか、お前は未来永劫、私のその問題に関わるなよ?」
「まぁ、そんなことを言うと、情勢が悪い恋に落ちても、手助けしてあげませんよ!」
「お前の手助けだけは辞退させて貰おう」
ぐったりしたエーダリアに憤慨しつつ、ネアは帰ってきた魔物に再捕獲される。
どうやらディノは、某商会に商品の受け取りに行っていたらしい。
託児施設にされた領主の執務室から連れ出されると、廊下を歩きながら既にもう、おさげがネアの方に投げ込まれる。
「ディノ、ご褒美の常用はしませんし、この状態で私が失踪することはありません」
「今日は誕生日だから、これもお祝いの内だよ」
「そうだった!」
自身がご褒美だと思うことをしてあげるのが、ヴェルクレアの誕生日だ。
困った祝福でダウンしてそのことを忘れかけていたので、あらためてお知らせされてしまうと破壊力がある。
少しだけ知恵を絞って悪巧みに入ると、ネアはご褒美用の艶やかな微笑を浮かべた。
「でもディノ、誕生日だからこそであるのなら、私は手を繋いでくれる方が嬉しいです」
「…………ネア」
「なぜ逃げるのだ」
ゼノーシュに聞いてみたが、魔物のお作法において手を繋ぐのことには特に意味付けもないそうだ。
であれば何故、ディノに限りこんなに照れてしまうのだろう。
やはり個体差というか、特殊個体なのではないのかという気がしてきた。
恥らったお蔭で少し離れてくれた魔物に連れられて来たのは、それまで入ったことのない部屋だった。
本宮の棟の中にある階段を上ったところまでは見知った場所だったが、途中で一度風景がセピア色になったような錯覚を覚え、目を瞠った時にはもう見知らぬ廊下を歩いていた。
「ディノ、私が今立っているのは影絵の中でしょうか?」
「そうだよ。最盛期のリーエンベルクだから、二百年程前のところかな」
「まぁ、そんな昔の王宮が影絵には残っているんですね」
「うん。逆に統一戦争終了直後のものだと、首無し死体が転がってたりして凄惨なんだ」
「そこには絶対に連れて行かないで下さい」
ウィームらしい瑠璃紺の廊下を歩くと、途中から廊下が結晶石のモザイク床に変わった。
妖精が織り上げた高価な絨毯も素晴らしいが、モザイクが狂気的なくらいに繊細なので、この床もとんでもない美しさだ。
透明度の高い床石のモザイク層の下にもう一層あるので、モザイクで描かれた絵画は不可思議な奥行きをもって爪先が沈み込みそうな錯覚に陥る。
(靴底の下に海がある………)
モザイクで描かれているのは空想の海だ。
案外この世界の場合は実在のものなのかもしれないが、波間には妖精や人魚が戯れ、海の底には見事な宝石の城があって、海底の森には海竜が住んでいる。
聖人のような黄金の光輪を持つのが、海竜の王だろうか。
人魚の女王はなまめかしく美しく、魚たちには奇妙な造形のものも過分に混ざっている。
そんな幻想的な海を踏み歩きながら廊下を進むと、淡いミントグリーンの扉に行き当たった。
彫刻の粋が素晴らしく、葡萄の蔓をからませた緑の門のような形に彫り上げており、ドアノブの部分には小さな真鍮の小鳥がとまっていた。
葡萄の蔓のアーチを表現する為には随分と厚みをもたせねばならないが、ディノの開け方を見ているとそこまで重たくもなさそうだ。
「…………ここは、お部屋の中ですか?」
ぱっと溢れたのは柔らかな早朝の光だった。
雨上がりの朝の庭には、うっすらと靄がかかっていて、白い夜明けの光に小さな虹が揺らめく。
青みの強い芽生えたばかりの草木に、見事なくらいの瑠璃と紫の紫陽花が映え、真っ白な薔薇やカーテンのような藤の花、百日紅にミモザ、アイリスに鈴蘭。
季節を問わず咲くような花園はリーエンベルクの特徴だが、ここは小さな秘密の花園のように閉鎖的な部屋の中を草花が覆っているからこその美しさがある。
部屋の中央には見事な長椅子があり、その優美な足先までのラインだけでひと財産築けそうな程。
「そう部屋の中だよ。かつてのリーエンベルクには、四季を象徴する部屋があったんだ。ここは春の部屋だね」
「春のものではない草花も咲いていますが、それはリーエンベルクだから?」
「そうかもしれない。元々この王宮では、季節を問わずに草木が育つし。秋は紅葉と葡萄畑で、夏の部屋だと海なんだ。冬はイブメリアだね」
「……何て素敵な部屋なんでしょう。こんなお部屋を作った方がいたんですね」
かつてということは、今はもう失われてしまっているのだろうか。
(この部屋を作ったひとは、繊細な人だったような気がする)
王宮なのだから、大規模なものを作ることも出来た筈だ。
けれどこの部屋は、ネアの寝室くらいの小さな部屋で、あくまでも部屋の主が一息ついて心を豊かにする為だけに作られた美しい箱庭という感じがした。
ディノにエスコートされて、淡い白緑の石とふわふわの藤色の布打ちで作られた長椅子に座れば、庭園の真ん中から春の空を見上げているような構図になる。
天井を覆った花盛りの木々の隙間から見える青空には、雪の季節には得られない幸福感が滲む。
「ディノは、素敵なものを沢山知っているのですね」
「ネアはこういうものが好きだろうと思ったんだよ」
「ええ。とても好きです。連れてきてくれて有難うございます」
隣りに座ったディノが開いたのは、濃紺のベルベットの箱だ。
一粒石のネックレス用の細長いデザインではなく、装飾部分が広く取られた首飾りを収める為の幅広のケースになっており、重厚な金の留め金がついている。
右下には、アクス商会のロゴである狼と一角獣が、金の箔押しで刻印されていた。
「ネアの誕生日に」
優しい声は低くて甘い。
その声音の豊かさに酩酊し、ふと気付けば全てを失っていそうなそんな危うい声。
真珠色に虹を浮かべた綺麗な髪に、内側から光を透かせるような夜明け色の瞳。
そんな極上のものの全てに、どこか老獪な魔物らしい鋭さがある。
婚約指輪のお披露目のようにぱかりと箱を開けてくれるまでは良かったが、あまり物に執着しない魔物は、その素晴らしい箱を床に捨てたので、ネアは慌てて拾い上げてしっかりと抱き締めた。
「なぜ箱を捨てるのですか!しまっておくときに大事なものですよ?」
「でも、その辺に置いておいても壊れないよ?」
「もっと大事にさせて下さい!」
魔物にとって、この箱は包装紙に過ぎないのだとわかり、ネアは愕然とした。
それでいて塩袋のリボンを大事に持っていたりするのだから、何てアンバランスなのだろう。
「つけてあげようか」
「つけてみる前に、一度じっくり見てみたいです」
ディノが手にしていたのは、見事な首飾りだった。
あまり華美なものを好まないとわかっているようで、華奢な淡い金色のチェーンの先に、夜露をしたたらせるように細やかな結晶石がついている。
チェーンそのものから生まれ滴るような宝石の滴は、中央のところでドロップ型の美しい中央石に繋がっていた。
「不思議です。雪のようにも、夜露のようにも見える………」
淡い乳白色の宝石達は透明度が高く、しかし品のいい輝きにとどまっている。
石ごとに、淡い菫色の色味や、水色から瑠璃色の色味、淡い桜色にミントグリーン、灰色に微かな金色の煌めきと表情を変え、中央石は透明度の高さの割に渋い色合いの美しさが秀逸な灰菫色の宝石だった。
滴の一番下側にアクセントとなる豊かな紺色の翳りがあり、全体的には白紺で統一された夜露がしたたるような美しさとなる。
ディノの手のひらでそれを見せて貰い、ネアはあらためて息が止まりそうになった。
「………わ!この角度だと、一律の色味に見えます!」
光の角度によっては、全てが乳白色と灰色の宝石に見え、雪の結晶のよう。
よく見れば、淡い金色のチェーンの部分も、金属ではなく結晶石を鎖の形に紡いだもののようだ。
目を凝らして覗いてみて、その全てのパーツに繊細な模様が刻み込まれていることに気付き、ネアは無言で震え上がった。
(ディノが、贈り物を首飾りにしたのは最近だったような……)
これだけのものを、こんな数日でオーダーしてしまったのだろうか。
制作に関わった誰かが今も生きているのか、とても不安になる。
「ディノ、………こんな綺麗な贈り物を頼んでくれたんですね」
「端の淡い菫色の宝石は、金庫師に作らせたから金庫になっているよ。ここに鍵をしまっておけばいいんじゃないかな」
生まれて初めて耳にする装飾品の効能に、ネアは絶句した。
意味がわからずに無言で固まったご主人様に微笑みかけ、魔物は説明を続ける。
「他は守護の石が多いけれど、中央の石はある程度の魔術を溜め込めるから、この世界における君の碇のようなものになる」
「碇ですか?」
「そう。あまり不用意な場所へ連れ去られないようにね。鎖の部分も同じで、私の魔術や魂に紐付けて、手繰り寄せられるような繋ぎの魔術を織り込んであるから」
「手繰り寄せる………」
先程から、不穏な単語ばかり飛び交っているのは気のせいではない筈だ。
そう言えば、首飾りを贈ると決めたとき、ディノが所有を示すような言葉を口にしてはいなかったか。
(………こんなに綺麗なのに、がっつり首輪という感じがしてきた!)
契約の魔物は執着に狂うという。
大きな特異点にのみ注視していたが、これでもまだ甘く見ていたのかも知れない。
よく聞く忠告では、殺されてしまったとか、意志を奪われてしまったという不穏な顛末を聞くことも多かった。
やはり、彼等はどんなに無邪気であっても契約の魔物なのだ。
(そうか、これは美しいけれど装飾品の形をした“道具”なんだわ。だから、入れ物は必要ないと思ったんだ。……………と言うことは寧ろ、)
あまりの美しさに魅入られそうになりながらも、どこか冷静にそう分析すると、寧ろこういうものが必要なのはディノの方ではないのかという気がしてくる。
通常の思考で導き出せば、首輪が必要なのはご主人様の方ではない筈なのだ。
この魔物にも三つ編みという立派なリード代わりのものはあるが、いざという時に連れ戻せる仕組みは便利だなとも思う。
荒ぶったときに強制的に回収出来れば、中々に良い管理手段と言わざるを得ない。
考えている内に、何だか羨ましくなってきてしまった。
首飾りを凝視したままネアが考え込んだので、ディノが不思議そうに首を傾げる。
「……………ネア?」
「私も、こういうものをディノに作ってあげられたらいいのにと思いました」
「ご主人様!」
「え、………なぜに荒ぶる展開になったのでしょう?!」
そんな一言でなぜか魔物は喜んでしまい、大いにはしゃいだ。
大喜びの魔物にもみくちゃにされた結果、若干死んだ目で晩餐の席に着いたネアを見て、久し振りにエーダリアとグラストがさっと目を逸らす。
不甲斐ない同族の男性陣に代わり、配膳に現れた妖精は、見事な采配でネアの食卓を盛り上げてくれた。
大好きな料理ばかりがバランス良く並べられ、普段よりも多めの花で飾られた食卓は絵のように美しい。
蝋燭の光と、グラスに注がれる金色の葡萄酒の音。
普遍的な幸福の図とされる誕生日の光景の中で、ネアは首元の繊細な宝石にそっと触れる。
(でももし、どこにも行けないということが、どこにも行かないということであれば)
拘束具を用意されると恐ろしさしかないが、隣りで誰かの誕生日ケーキを初めて見たと言う魔物が、またこんな風にほろりと無防備に微笑むのなら。
大切なものの為にいつまでも健やかでいよう、そう強く思った。
「ところでディノ、勝手に爪先を踏ませないで下さいね」
「ご主人様……」
しょんぼりした魔物の靴先を丁寧にどけると、ネアは立ち上がってケーキの蝋燭の火を吹き消した。
この誕生日が無事に終わったのかどうかを知るのは、随分と先の事になりそうだ。