血と誓約
“ちょっとそこで待ってろ”
そう言われて放り出されたのは、深い森の中にある湖のほとりだった。
先程まで食事をしていた古城の湖とはまた違う、人気のない森に囲まれた閉鎖的な湖だ。
「……久し振りの嫌がらせですね」
さも危機感が薄いように言われているが、ネアはこれでも現実的な人間だ。
好意や幸運に疑いなく浮かれるには、少し澱み過ぎている。
ネアが楽しむ無防備さは、いつだって希望や安堵とセットになるからこそ、キラキラと美しいのだ。
であるので、割と冷静に状況整理に入った。
(森の中だというだけだけど、何だろう………この甘い香り)
死には独特の甘い香りがある。
うっとりと目を細め、その隙に背後から襲いかかるような、そんな香り。
この森はそんな香りに満ちていた。
(少し歩いてみようか)
じっとしているという選択肢は取らなかった。
日常の微笑みに一雫の悪意が透けて見えたので、特に衝撃も受けずにそんなものかと受け止めたまでだ。
何しろ、彼等は魔物なのだ。
どんなに善良なものであれ、単に人外者とせずに魔物と銘打っただけの素養がある筈である。
湖の外周をゆっくり歩いてゆくと、歪な形に枝を伸ばした大きな木があった。
もしゴシックホラーの名作があれば、その象徴にでもなりそうな立派なお伽話の魔女の木が見える。
その木の根元に、無造作に人骨が転がっていた。
(これまた鉄板過ぎて、驚くより納得しちゃうけれど……)
人骨があるのならば、それが存在するだけの理由があるのだろう。
人間を食べたり殺したりするものが居るのかもしれない。
顎に手を当てて、名探偵気取りでそう考えていると、がさりと木の枝葉が大きく揺れた。
大きな質量を持つ者が、この木の上に降り立ったようだ。
ぴたん、と足元の岩に黒々とした血が落ちる。
(これは誰の血だろう?)
獲物の血か、その者自身の血なのか。
けれども悩む時間は僅かだった。
不意に枝葉の鳴りが止まり、こちらを窺うような強い視線を感じる。
刺すような眼差しは、決して友好的なものではなかった。
(………問答無用は嫌だなぁ)
さすがに事情は説明したいので、ネアは自ら声をかけてみることにする。
「どなたかいらっしゃいますか?」
がさりとまた枝葉が揺れる。
驚きではなく、こちらを観察する為に姿勢を低くしたような気がした。
「嫌がらせで置き去りにされたのですが、ここはどこでしょう?」
またがさがさと木が揺れる。
今度の揺れは大きく、何者かが枝葉を掻き分けて下に降りて来ているようだ。
微かな緊張に体を硬くして、ネアは木の主が姿を現わすのを待つ。
「……まぁ」
姿を現わしたのは、見覚えのある大きな翼を持つ美しい青年だ。
だが前回の邂逅とは随分と様子が違い、口元にはべったりと真紅の血をつけている。
そして何よりも、片方の翼が、痛ましく捩れていた。
はらはらと細やかな羽毛が散り、美しい翼が損なわれているという感じが際立ち、ネアは目を瞠って眉を顰める。
「怪我をしたのですか?」
青年は答えない。
無機質な視線は冷たく、拭いもしない口元がぎらりと月光に光った。
「傷薬がありますが、使いますか?」
そこでようやく、返事が返された。
「………それが傷薬だと、どう証明するの?」
「ふむ。難しいですね。一本しかありませんし、証明するとなくなってしまいます」
「君は、あの魔物の連れだったね」
声には何の感情も滲まなかった。
その平坦さが異様で、目の前の生き物が美しくも異形のものだと強く感じさせる。
「どの魔物かわかりませんが、以前お会いした時に居た、髪が長い方の魔物は私の契約の魔物です」
「もう一人は?」
「知り合いではあります。友人に区分するには、こうして時々、命を脅かしかねない嫌がらせがあるので、何とも言えませんが」
「かもしれないね。こうして僕を不愉快にした上に、僕の巣に君を置き去りにしたのなら」
「ここは、あなたの巣なのですか?」
「巣なら幾つもあるけれど、ここもそうだよ」
だからこの人骨の山なのか。
さすがに鳥というだけあって、家屋には住まわないようだ。
青年は、するすると木から降りて来た。
飛べばいいのにと思いかけて、血を滲ませた翼に目が留まる。
「……もしや、飛べないのでしょうか?」
「飛べないなら、逃げられるから?」
「いいえ。あなたは鳥なので、飛べないとなれば深刻です。本当はやはり、傷薬を使って欲しいのですが…」
「君はもしかして、また今夜も僕が好意的だと思っているの?今夜は君を食べちゃうかもしれないのに」
ばしゃんと音がして、湖の奥の方で魚が跳ねた。
枝の隙間から差し込む月光が筋になり、青年の斑らの髪を青白く染める。
「かもしれませんが、今のところ私には、あなたを忌避する理由がありません。なので、その怪我は見ていて辛いのです」
「ははっ」
酷薄な笑い声が、静かな湖畔に響いた。
好意的な解け方ではなく、鋭い牙のようにざらついている。
呼吸に合わせて緩やかに閉じたり開いたりをしている大きな翼に、生き物としての獰猛さが滲んだ。
またひたりと、大きな血の雫が垂れる。
「馬鹿な人間だね。僕が気に入った?」
「ええ。あなたは、私が育ったところの信仰に紐付く容姿をしています。だから慕わしいのでしょう。それに前回は親切にして貰いましたしね」
「……ふうん、信仰か」
「それと何か、私の親しいひとに似ているので、勝手な親近感があるのでしょう。でもそれは、私側の事情です」
「そうだね、それに君は美味しそうだし」
「それは困りましたね」
ネアがポケットに手を入れると、青年の唇に凄惨な微笑みが滲んだ。
その暗さに向き合いながら、ネアは指先と記憶だけを頼りに、持ち物を探る。
野生の生き物らしく体を屈めてじりっと距離を詰められて、ぞくりと背筋が寒くなる。
(痛くはないのだろうか)
損傷した方の翼は、傷を負ったという表現よりも、捻じ折られたような有様だ。
それが自分の体である限り、痛くない筈もないと思うが、彼は気にした様子もない。
そこでまた、今度は随分と多くの血が木の上から滴った。
ぼたぼたと落ちてきた血の塊に、ネアは思わず注意を向けてしまう。
「……っ」
その瞬間、翼を損なった鳥らしからぬ俊敏さで素早く飛びかかられて、ネアは地面に倒される。
もっと手酷く地面に倒されるかと思っていたが、思いがけない軽さで、上に何も乗っていないかのようだ。
ばさりと大きく広げられた翼を見上げながら、ネアはよしよしと微笑みを深める。
「……どうして嬉しそうなの?」
「やはり翼は、左右対称が綺麗ですからね」
「………え」
慌てて振り返った青年は、捻じ折れていた方の翼が元通りになっていることに瞠目する。
飛びかかられながら、ネアが傷薬を投げ付けたのだ。
「液体の薬でしたが、沁みませんでしたか?」
「………いいや」
途方に暮れたように、彼は首を振る。
こうして感情が露わになれば、やはり無垢さが際立つ眼差しをしている。
夜露に濡れたような紫の瞳が、真っ直ぐにネアを見返す。
「良かったです。健やかな状態ではないと心が痛みますから」
「………え?」
次の瞬間、がすっと鈍い音がした。
顎下に渾身の頭突きを受けて仰け反った青年は、容赦のない蹴り上げで後方によろめく。
体勢を整え直す余裕がないまま、脆弱な筈の少女の手であえなくひっくり返された。
「よいしょ」
特に緊張感のない台詞と共に、馬乗りになったネアは青年の首元に手をかける。
うつ伏せの方が良かったが、仰向けでも取り敢えず首を確保することにした。
とは言えこれは、ある種の最終形態なのであまりやりたくない。
(踏んで折らないようにしなきゃだ)
広がった翼を踏むのには勇気が要ったが、羽先部分ではなく、分厚いところを狙い我慢した。
「………君は、魔術師なの?」
「いいえ。過保護な魔物と妖精さんによって、お出かけの際には装いをとことん強化されているだけです」
ネアは本日、ディノの指輪だけでなくヒルドの耳飾りもつけている。
その上、アルテアも同席すると知ったヒルドによって、お洒落なブーツも強化されていた。
靴紐の代わりに忙ぎ仕事で紡がれた妖精の糸を通したブーツは、脆弱な魔物など一蹴りで昏倒させられるそうだ。
残念ながらネアは体技にそこまで秀でていないので、あれだけ近付いてくれると有り難い。
「でも、動き方を知っているよね?」
下敷きにされたまま不思議そうに首を傾げた青年に、ネアはようやく気付いた。
(ああ、……この人は、ディノに似ているんだ)
老獪で美しく、不可解で無防備。
この生き物が最も似ているのは、ネアの大事な魔物だ。
だからこそこんなに拘ってしまったのか。
(仕草がゼノに似てるから見逃してしまった)
過去の信仰以外に理由のない好意だったが、謎が解ければ簡単なものだ。
この雪食い鳥は、ネアが好むだけの理由を、片っ端から集めたような存在なのだ。
「昔、少し物騒なところへ潜入しなければなりませんでしたので、護身術を学びました。それに最近も、また迷子にならないようにと護身術を叩き込まれましたので」
「……君、危なっかしいもんね」
「そうでしょうか?割と頑丈な運に恵まれてますよ」
ふっと唇を綻ばせて、雪食い鳥は笑った。
「で、僕をどうするの?僕達はかなり頑丈だけど、首を捩じ切れば殺せるよ」
「私を何だと思っているのでしょう。勿論、危害を加えないと宣誓していただいてから、解放しますよ」
「宣誓しない場合は?」
「……そうですね、頭頂部だけ髪の毛を毟って未来永劫髪の毛が生えないよう呪いをかけるか、私の魔物に頼んで、その翼を特別に醜悪な模様に変えてやります」
極悪非道な脅し文句に、青年は目を丸くする。
「…………宣誓する」
もっと陰惨な脅し文句もあったが、案外あっさりと青年は降参した。
「では、あなたのお名前できちんと誓って下さい。これでも私は、魔術の理に詳しいですよ?」
ネアの下で、青年は小さく唸る。
やはり抜け道から逃げ出すつもりだったようだ。
「……何に誓うの?」
「ではあなたの毛髪と翼の模様に誓いましょう」
「君は残忍な人間だね……」
「そもそも短命で脆弱なのにここまで繁栄しているのですから、人間がしたたかなのは当然なのです」
「……自慢された」
「さぁ、さくさく宣誓して下さい!私は睡眠時間を削られるわけにはいかないので、早く帰りたいです」
「………僕、ラファエルは…」
「ラファエル!!」
ここでネアが声を上げたので、ラファエルはびくりと竦み上がった。
「………ラファエルは、君、……名前は?」
「ネアと申します」
「ネアを決して傷付けないと、僕の名前と、……僕の………髪の毛と………翼の模様に誓約する」
途中で息絶え絶えになりながら、ラファエルは何とか誓約を終えた。
言い終えると同時にがくりと脱力したので、ネアは心の折れた雪食い鳥を放棄して、いそいそと立ち上がる。
「さてと、帰りますね」
「……宣誓を捥ぎ取ってどうするの?僕を使い魔にでもするの?」
馬乗りから解放されて、ラファエルはふわりと立ち上がった。
翼の羽ばたきを利用して立ち上がるので、言葉通り、浮き上がるような立ち上がり方だ。
「そんな制度があるのですか?」
「君に、従わざるを得ないわけだからね。ガレンの魔術師にだって、雪食い鳥を使い魔にした者はいないよ」
少し得意げに言われたが、ネアはうーんと首を捻った。
「餌問題で周囲と揉めそうなので結構です。私は平和主義なので、どうぞ自由に暮らしていって下さい」
「………平和主義」
ものすごく不審そうな顔をされたが、ネアは服の汚れを払っていたのでそれどころではなかった。
何があったか魔物に追求されると厄介なので、出来れば気付かれたくない。
「君、どうやって帰るの?」
「さて、うちの魔物を呼ぶしかないでしょうね」
そうなると、何故ここにいるのかを説明しなければいけないので、とても厄介だが致し方ない。
「迎えが来たみたいだけど?」
「……む?」
「ネア!無事か?!」
ラファエルの言葉とほぼ同時に、鮮やかな転移でウィリアムが姿を現した。
余程急いで転移したのか、片方の手袋を外したままだ。
さっと肩を抱かれてラファエルとの間に割り込まれて、ネアは頼もしい世話役の登場に顔を緩めた。
「ウィリアムさん!大丈夫ですよ。たった今決着が着いたばかりでして、私の勝利です!」
「……決着?」
髪の毛が乱れていたのか、後頭部の髪を梳いてくれながら、ウィリアムはまだ血に汚れた顔のままのラファエルを一瞥する。
(…………すごい)
その視線の鋭さに、魔物らしい圧を感じてネアは意外さに目を瞠った。
その視線の先で、ラファエルは顔色を悪くして、じりっと後退する。
震え上がる程ではないにせよ、相当に辛いのか真っ青な顔で、握り込んだ指先には酷く力が入っている。
「ウィリアムさん、我々は和解したところです」
「薬を使っただろう。あの血は?」
そこでネアは、ウィリアムの懸念の理由に気付いた。
どうやら彼は、ネアが使用した魔物の薬に気付いたらしい。
「傷薬は、ラファエルさんに使いました。あの血は、………恐らく、向こうの木の上にあるラファエルさんのお食事のものかと」
「……君は怪我をしていないんだな?」
「はい。ラファエルさんを捕獲する為に、後ろ向きに尻餅をついたくらいですよ。戦略的なものだけです」
「良かった」
「ウィリアムさん?!」
はーっと深く息を吐いて、ウィリアムはしゃがみ込んでしまった。
余程心配してくれたのか、心からの安堵だ。
「君は嫁入り前の女の子だから、怪我なんてとんでもないし、……シルハーンが狂乱したら、大変なことになるからな」
「嫁入りする自由はなさそうですが……」
「……まぁな」
そこでウィリアムは、少し前のネアの回答が気になったらしい。
「ネア、もしかして雪食い鳥と戦ったのか?」
「気が立っていたようなので、懲らしめてやりました」
「次回から、すぐにシルハーンを呼ぶこと」
自慢げに繰り返したネアだったが、ウィリアムは正しく叱りつけた。
狩りの喜びを否定されたネアが眉を下げると、終焉の魔物は困惑顔になる。
「………はい」
「なんで落ち込むんだ」
「私は、狩りの女王としての誇りがありますので、今回の成果には割と満足していたのです」
「守りが固い筈なのに、どうして自ら戦場に行ってしまうんだ……」
ますます困惑を深めてしまった常識人枠のウィリアムを、これ以上困らせてもいけないので、ネアは落胆を何とか押し隠した。
狩りへの欲求は、また別の機会に堪能すればいい。
「ところで、私をここに放り込んだ悪い奴はどうしましたか?」
その剣呑な声音に、ウィリアムは、手袋をしていない方の手を持ち上げて穏やかに微笑んだ。
「安心していい。しっかりと制裁を加えておいた」
「……片手だけ手袋がないということが、急に恐ろしくなりました」
聞けばアルテアは、怖がらせてやろうと近所の空間から、こちらの様子を見ていたらしい。
ネアが自力で活路を開いてしまったので、呆れてはいたものの、きちんと回収する意思はあったようだ。
ただ、別れ際にネアを送ると申し出たアルテアの表情に疑惑を抱いたウィリアムが、引き返してきて叩きのめしてしまっただけなのだとか。
無事にリーエンベルクに送り届けられたネアは、お留守番で不貞腐れた魔物に一度体当たりをしてから、のんびりとお風呂に入った。
ディノが荒ぶらないようにウィリアムがクリーニングしてくれたが、念の為にさっさとリセットする魂胆である。
お風呂上がりに魔物に椅子になられながら、美しい薔薇のオルゴールを開く。
繊細な音楽に耳を傾けながら、小さな庭園に揺れる真紅の薔薇を見ていた。
アルテアのしたことに、特に嫌悪も落胆もない。
どう寄り添おうとも、やはり彼等は魔物なのだ。
美しいが獰猛な猛獣と距離を詰めるように、上手く共存してゆけばいい。
そんなことで動揺するようなら、この椅子と化した魔物のお世話も難しくなるだろう。
(ラファエルさんは、もう寝たかな)
あの湖の畔の木の上で、彼は眠るのだろうか。
彼の名前が、懐かしい天使の名前と同じだと知って、妙に嬉しかった。
それはもしかしたら、生まれ育った世界への感情だったのかもしれない。
(………使い魔かぁ)
雪食い鳥の言葉を思い出して、少しだけ勿体無く思った。
ネアも意外に俗物であるので、ちょっとその響きに憧れがなくもない。
そんなことを考えていたら、手のひらにぽとりと、ディノの三つ編みが乗せられた。
心ここにあらずのご主人様に、魔物は少々ご立腹の様子である。