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薬草湿布と、赤い縄


朝起きると、窓の外が半分雪に埋もれていた。

事故でも起きたのかと思って起き上がろうとして、ネアはすぐに力尽きる。

眠気に負けたのではなく、激しい筋肉痛でダウンしたのである。


「………なんで、……筋肉痛」



呻き声はもはや断末魔に近く、ぱたりと落ちたら右手が、きらきらと美しい虹色の髪に絡まる。


「………ん?」


視線だけちらりとそちらに向ければ、珍しくぐっすり眠っているディノがいた。

ネアが起きてからも目を覚まさないのは珍しい。

滅多にない機会なのに、寝顔を堪能することも出来ず、ご主人様は首を捻る危険を冒せないまま、足や腕などの稼働実験に入った。



(…………だめだ!)



どこもかしこも痛い。

どんな全身運動の記憶もないと思いかけて、ソリのことを思い出す。

全く筋肉は使っていないと思っていたが、あの滑走中ずっと全身をがちがちに強張らせていたのだから、それは筋肉痛にもなるかもしれない。


昨晩、ホットワインを飲みに行った時にはまだ痛くはなかった。

膝に力が入らず、いつもより酔いが回るのが早かったがそれだけだ。

幸い、飲んで正体を無くす事もなく、無理なく楽しんだ記憶しかない。



しかし、今朝は地獄である。

本日がウィームの祝日であることに感謝するばかりだ。

商業地域ではなく魔術の土地であるウィームは、その成り立ちから祝日が多い。

魔術の凝る祝祭日などを全力で開催し、翌日の街はわかりやすく休眠するのだ。


休息日と呼ばれる祝祭日の翌日休暇は、貴賎や役職に関係なくどこも休息を取るので、うっかりそんな日に訪れた観光客は、ウィームがゴーストタウンかと思い驚くのだそうだ。



(でも、……朝食………)



這いずってでも手に入れたいものが、ネアにはある。

気持ちよく寝ている魔物を起こさずに、どうにかして食堂まで辿り着けないものか。


(いや、その前に顔を洗って、服も着替えて……)


がくりと頭が落ちた。

ハードルが高過ぎる。



「………あ、」


そこでふと、ディノに貰った薬入れを思い出した。

ネアも人の子なので、仕事で提出しないような常備薬を揃えて持ち歩いている。



(感染薬、傷薬、腹痛に頭痛、毒消し…)



傷薬か、鎮痛剤としての頭痛薬などでどうにか応用出来ないだろうか。

腹痛のものは整腸剤なので、やはり頭痛薬でいいかもしれないが、魔術的な効果として部位が頭に限定されたらどうしよう。



(湿布が欲しい……)



知っているということは罪だ。

あのひんやりとした心地よさを知っているので、欲しいものが明確に脳裏に浮かんでしまう。

この世界の湿布薬はどんなものだろう。

と言うか、果たして存在するのだろうか。



時計を見れば、まだ八時だ。

領主が朝まで宴会コースに出た翌日の今朝の朝食は遅めで設定されており、十時からなのでまだ間に合う。

それまでにこの問題を解決出来るだろうか。

残念ながら、筋肉痛でもお腹は空いている。



「………ネア?」


そこでようやく、ディノの目が覚めた。

まだ少し眠そうでそんな緩み具合が堪らなく愛おしいが、ここはご主人様の為に力を貸して欲しい。


「ディノ、筋肉痛になりました」

「………筋肉痛?」

「恐らく、ソリの時に無意識で体にとても力を入れてしまっていたみたいで、変な感じに筋肉痛になりました」


もそりと体を少し起こした魔物に覗き込まれる。

さらさらと溢れて収まった綺麗な髪の毛の煌めきに目を奪われ、鮮やかな水紺の瞳にひたと見つめられる。


「………動けないのかい?」

「なぜ嬉しそうなのでしょう」

「無防備で可愛いなと思って。触ってもいい?」

「………だ……ディノ、体温低いですよね。おでこへの接触を許可します」


そっと頬に当てられた手はひんやりしていて気持ちが良かった。

これはもう湿布代わりにこの手を所望したいくらいだが、部位が色々な問題を孕むので断念するしかない。

ひんやりとした手に癒されて深い息を吐いていると、ディノが唇の端の微笑みを深めて提案をした。


「痛いなら治してあげようか?」

「……そう言えば、馬の亡霊に蹴られたときも、治してくれましたよね」

「どこが痛いんだい?」

「二の腕と背中と………太ももと」

「………と?」

「いえ、それだけ治れば充分です!とりあえず朝食に行ければ万事解決なので」


一番痛いのは臀部だが、そこに触れられるのは前回の馬の災害一度で充分だ。

あの時はまだ外出着だったものの、今回のように寝間着でやられると羞恥で死んでしまう。

ディノは一度だけ何だか疑わしいという眼差しを向けたが、ネアが腕を差し出すといつもの微笑みに戻ってくれた。


寝台の温度が逃げないようにネア専用の毛布を上手く堤防にすると、おもむろに袖を捲り上げて綺麗な手を二の腕に当てる。


「………む。直に触れないと駄目なのですか?」

「外傷のような分りやすいものではないからね」

「魔術の仕組みは難しいんですね」


肌に触れる温度はかなり親密だが、治療の範囲であれば我慢せねばなるまい。

ましてやこれは仕事ではなく、完全に好意で治してくれているのだ。

しかし、ディノが完全に起き上らないまま、双方寝台に横になったままの治療では何だか、親密の度合いが間違った方に転びそうで頬が熱くなる。

椅子などに座って治療を受けられればいいのだが、そもそも起き上がれなかったのでこんな事態になったのだ。


「ディノ、腰や背中を先に治してくれれば、起き上がりますよ?」

「上から順にやるよ。ネアは、横になっていて構わないから」

「………これではまるで、」

「まるで?」

「介護のようで申し訳なくなります」

「……………介護」


なぜか魔物もがっかりしてしまったが、ネアは、ディノとて介護を今からするのは切ないのだろうと不憫になった。

それにしても、髪を縛らずにこうしてしどけなくしているディノの凄艶さは破壊力が大きい。

最近は何だか目に慣れてきた美貌も、あらためてその輪郭を鋭くする。

初めて見たとき、あまりに綺麗で息が止まりそうになったことを思い出した。


「………ネア?」


あまりに観察し過ぎたのか、ディノが目元を染めて困ったように名前を呼ぶ。


「私の大事な魔物は何て綺麗なんだろうと思って、じっくり見てしまいました」

「…………ずるい」

「感想の審議をしたい気分です」

「…………背中をやるから、少しだけ体を浮かせるよ」

「いえ、腕が治ったので自分で俯せになりますよ。………っ」


寝返りに肝心なのは足腰に背中だということを忘れて動いてしまって、ネアは目的は完遂したものの寝台にくしゃりと潰れた。

痛みを意識した上で動けば我慢出来る範囲なのかも知れないが、腕の治癒だけですっかり行ける気分になっていたネアはその慢心ごと打ち砕かれて寝台に沈む。

背中に手を回そうとしたディノが覆いかぶさるような体勢になったので、慌てて動いたのも敗因の内だろう。

こういうとき、痛みを至上とするヒルドに少しの羨望を抱かないでもない。


「そのままの姿勢でも大丈夫だったのに」

「………自分の浅はかさを呪っています。ディノ、寝起きに働かせてしまって御免なさい。湿布があれば良かったのですが……」

「湿布?」

「打ち身用の貼り薬ですね。この世界にはないのでしょうか?」

「騎士の屯所にはあるんじゃないのかな?」

「妖精さんに頼んで分けてもらいってきますね!」

「ここで治してしまうからいらないんじゃないかな?」

「でも、ディノを酷使します。既存のもので治るなら、あまり……」


説明の途中から魔物がしょぼくれたので、ネアは言葉を続けられなくなってしまった。

遊んで貰えなかった犬のようにしゅんとしてしまったので、慌てて唯一自由な手で髪の毛を引っ張ってやる。

仰向けのままであれば頭を撫でてやったのだが、残念ながらこの角度からは髪の毛にしか届かない。


「…………ディノに治してもらいたいです」

「ご主人様!」


ひょいと背中部分をめくられて、ネアは慌てて胴体の寝台との一体化を深める。

寝ている間に捲れ上がらないツーピースの寝間着が好きなので、上部を捲られても背中しか見えない仕組みであったことが今回は幸いした。


少し前までは、用意されていた淑女用のネグリジェタイプの寝間着だったのだが、寝ぼけてディノを狩ろうとした一件から、保安上より上下に分かれた下がズボンタイプの寝間着を着ている。

元々こちらのタイプが好きだったネアは問題なかったが、ディノは以前の寝間着の方が好きだったらしくしばらく不貞腐れていた。

しかし、今回のようなことだってあるのだから、やはりこちらで正解だったのだ。


「……でもこんなことにならないよう、日頃からストレッチしておかなければですね」

「すぐに治してあげるから、鍛えたりはしなくていいと思うよ」

「体に柔軟性を持たせて、ほぐしておくぐらいですよ」


背中に大きな手が触れる。

ひんやりしているので気持ちいことは間違いないのだが、やはり気恥ずかしくて妙に饒舌になってしまった。

いつものこの時間の部屋はもっと明るいのだが、随分と積もった雪の所為でまだ薄暗く感じてしまう。


「あまり無理しないで、簡単に出来るようなことかい?」


心配そうに訊く魔物の声に、ネアは小さく微笑んだ。

これっぽっちのことで案じてくれるディノが、まるで老獪な魔物には思えない。


「ええ。体操したり、ちょっとした道具を使って筋肉を伸ばしたりするくらいですよ」

「道具………?」

「騎士のようにお仕事で体を作る方達は専門的なものを使うでしょうが、私の目的であれば、丈夫な紐か縄のようなものでもあれば充分でしょうか」

「縄……」


ふっと立ち上がったディノが何かを引っ張り出してきた。

寝間着の背中部分を捲られたまま放置されたご主人様は、魔物が持ち帰ってきたものを見て凍りつく。


「こういうものがあればいいのかな?」

「………………縄」


ディノが自分の宝物入れから持ち出してきたのは、遠い記憶の奥深くに封じ込めた筈のトラウマの扉を開く、赤い縄だ。

専門家曰くすぐに使えるように滑らかにしてあるので、確かにストレッチに向いていないこともない。

だが、日常的に目に留まるところにこれを置いておくのは、精神衛生上どうしても無理だ。

出来れば、永劫にあの引き出しの奥にしまっていて欲しかった。


「……………ネア?」


虚ろになったネアの眼差しに、ディノが元凶の縄を手にしたまま隣に座る。

一刻も早くその有害なものをしまって貰おうをネアが口を開きかけたとき、



「おい、呼び掛けには答えろよ、シルハーン。ニエークが……」



何の躊躇いもなく、完全な部外者が入ってきた。



「……………え、」


有事の際の人間の瞬発力は素晴らしいものだ。

ネアは、咄嗟に腹筋の要領で上半身を起こして、捲れていた寝間着を重力で落とす。

しかしながら、裾の部分は乱れたままだったし、何しろ、赤い縄を持った魔物と二人で寝台に座っているのは避けようのない事実だった。



驚愕に見開かれた赤紫の瞳を見返して、全身の血の気が引いたその途端、ネアはまだ治療途中だった腰の痛みで、再度寝台にくしゃりと沈み込む。

腰を押さえて無言で悶絶していたら、慌てた魔物に抱え込まれる。


「ネア、急に動くからだよ。ほら、もう痛くないかい?」

「有難うございます。治りました。それと、…………今見たのが幻でなければ、アルテアさんがいませんでしたか?」


「下手に器用なのも考え物だね。勝手に入り込まれたから、放り出しておいた」


「…………アルテアさんは、勝手にここに入れるのですか?」


「今回は最初に呼んだのが私だったから、道の残りが繋がっていたんだろう。もうないから安心していいよ」


「呼ばれて来たのに放り出されたんですね。しかしながら、ノックもしない不届き者ですので、やむを得ない対処法と言えます」


(ニエークというのは誰かの名前のようだけれど、大丈夫なのかな?)


ディノがここまでアルテアを呼びつける案件というものが気になったが、それよりもネアが対処しなければいけないのは、この状況をアルテアに見られたというその一点に尽きた。

なぜ、よりによってディノがこの縄を手にしている現場を見られたのだろう。

これではまるで、いざ使おうとしていた現場に踏み込まれたようではないか。


(…………早急に誤解を解かなければ!)


ばすんと寝台に突っ伏して頭を抱えてから、ネアは、一つの違和感に気付いた。

そろりと顔を上げて、突然に荒ぶるご主人様に困惑していた魔物を見上げる。



「ディノ、今、触れずに治療出来ましたよね?」




ディノは悲しげに目を瞠っておろおろしたが、その罪状は明らかである。

ネアはその日いっぱい、ご主人様を弄んだ罰として、魔物をご褒美禁止の刑とした。



その後ネアは、グラストに教えて貰った薬草湿布を大量にストックして魔物を悲しませた。





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