階段の脇道
いつかの夜に、彼女にダンスを教えたことを思い出した。
誰もいない大広間で、初めてネアと踊った。
誰かとダンスをして、胸がざわついたのはあの夜が初めてだ。
あんな風に微笑んでこちらを見上げていても、ネアはいつもこの腕の中から逃げ出す方法ばかり考えていた、あの頃。
どんなものでも手に取らせてあげたいのに、彼女はこの手の届かないところにばかり目を向けている。
朝目が覚めると、もしかしたらもう居ないかも知れない。
そう考える夜が、度々あった。
こつこつと階段を踏む足音に、青みがかった灰色の髪が揺れる。
彼女を練り直したときに、特にどんな容姿や色彩も意識しなかった。
心が変わらなければ同じように話すだろうし、きっと同じ形に微笑むだろう。
ただ、冴え冴えとした微笑みで誰もいない静謐さを歩く彼女を思い描けば、この色彩になっただけだ。
「ディノ、見て下さい。この角度だと、大聖堂の送り火が綺麗ですよ!」
「本当だ。綺麗に見えるね」
今はもう、こんな風に抱き上げても、肩にかけられた手に躊躇いはない。
少しずつ浸透させ、慣れさせた幾つもの温度も同じ。
雪白の香炉の楽園に行こうと思ったのは、ほんの思いつきだった。
この世のどんな場所でも行けたけれど、ネアが居なければ行けなかった場所に行ってみたかった。
もう少し、
もう少しと募る欲求に、慎重に歯止めをかける。
この在り方や価値観では逃げなくても、欲する手からは逃げるかも知れない。
彼女は嫌がるかもしれないし、軽蔑するかも知れない。
今迄、自分からは詰めたことのない距離が、どうしようもなく難しい。
こんな風に今、送り火の炎を目を輝かせて見ている彼女の眼差し一つで、心が揺れる。
真新しいこの世界で、次の瞬間にでも、ネアは送り火のことを愛するかもしれない。
どれだけ深く取り込んでいても、あなたにかけるそれはこれとは違うからと、くるりと背を向けるかも知れない。
そう思うだけで、指先が震えそうになる。
こんなに安堵しているその時でさえ、また更に多く、もっと密にと欲求は募り、その切実さに途方に暮れた。
幾らでも勝手に手に入れられるし、好きなだけ都合のいいように籠絡することも出来るだろう。
でもそれでは駄目なのだ。
つい最近まで逃げ出そうとしていたネアが、どこにも行かないと言う。
彼女が少しだけこちらを向いたから、要求はとても贅沢になってしまった。
(彼女にも望んで欲しい)
背中を捕らえるのではなくて、こちらを向いて微笑んで欲しい。
歌劇場で聞いた少女の歌を思い出す。
暗い冬の森に追いやられながらも、彼女は家族の愛を請う。
当たり前の言葉を共有し、思うだけではない幸福を与えて欲しいと泣きながら歌う。
愛するだけで満足する者も多いが、自分は愛するだけでは孤独なのだと。
彼女に求婚した春の王の隣で、同じように彼女を愛した冬の王はひっそり歌う。
もし、この瞬間に手に入らないものだとしても、冷たい氷を溶かすように何年もかけて解ける愛もあると。
それまでの間に彼女が誰を愛そうと、最後にこの手を取ってくれれば構わないと歌い、暗闇に背を向けて退場してゆく。
もしそういう待ち方になるのであれば、それは一体どれだけの日々の後になるのか。
待つということは、どれだけの苦しみなのか。
まだ何も手にしていない彼女が、最初に選ぶのは誰なのだろう。
「ディノ、また不安になりましたか?」
ふわりと、優しい手が頬に触れた。
階段から降りて二人の部屋に戻れば、ネアは気遣わしげにこちらを見ていた。
「どうしてそう思うんだい?」
「なぜでしょう。少しだけ寂しそうな顔をしていたからでしょうか。私の大事な魔物がそんな目をしていると、とても気になります」
「………ネアは、誰かと結婚する?」
「………また突拍子もないことで落ち込みましたね!……契約の魔物は、歌乞いが誰かと添うのは嫌なんですよね?最初からそう聞いているので、そんなに嫌ならしません。人生には色んな楽しみ方がありますし、私は割とそういうものが足りなくてもどうにかなりそうです」
「……でもネアには幸せでいて欲しいんだ」
「ふふ。私の大事な魔物が幸せでいてくれれば、わたしも結構幸せですよ?」
「諦めるのに?」
そう問いかけると、ネアは綺麗な目を瞠った。
一度驚いてから、艶やかに微笑む。
「私が何かを諦めるとしても、それは儀式的な一般であって、誰かを慈しむことではありません。大事なものが隣にあるのだから、それが一般的な結婚に結ぶような愛ではなくても、私はそれで幸せですよ。ディノは、ずっと傍に居てくれるんですよね?」
「ずっと!」
近頃の彼女はこんな風に、いつも私を喜ばせる。
安堵させ、幸福にしてくれる。
ついつい事足りてしまって、納得しかけてから思い出すのだ。
これではまだ足りないのだと。
「じゃあ、私の花嫁になればいいのに」
「……結婚出来ない歌乞いが、契約で魔物に無理を強いるような絵面になるので却下です」
「………そんな、ご主人様!」
「ご主人様の心を殺さないで下さい。困った女だと、世間からの生温い眼差しに殺されたくありません」
「ネアは、私の伴侶になるのは嫌?」
「……珍しい質問ですね。ディノの事は大好きですよ。こんなに可愛い犬……魔物は他にいません」
「………犬」
やはりそういうものなのかと、落ち込んだ。
寝台に上げてくれるのは嬉しいけれど、彼女はいつも特に色めいた様子はないのだ。
意識するかなと思ってあちこちに触れても、就寝の邪魔だと手を叩かれるぐらいで終わってしまう。
(でも、どこにも行かないならいいのだろうか)
ひとまず、誰のものにもならないという言質は取った。
魔術は言葉からも成る。
これでもう、彼女はどこにも行けないのだから。
「……………犬」
それでも何だかがっかりしてしまって項垂れると、ネアは髪の毛を引っ張って屈ませ、頬に口付けてくれた。
彼女からは滅多にしてくれないので、思わず口元が綻ぶ。
こんな程度では満足しない筈なのに、嬉しくて堪らないのは何故だろう。
何だか胸が温かくなって抱き締めても、ネアは昔のように嫌がったりはしなかった。
後日、ウィームの街中を歩いていたら、人間達が当たり前のように口付けていて驚いた。
帰って調べてみたところによると、魔術の栄えたウィームの土地では、祝福を与えるという動作が高じて、親愛の意味での口付けは挨拶の一環なのだそうだ。
一般的なのは頬への口付けだが、本当に仲のいい友人同士や、姉妹でも唇を合わせることもあるらしく、口付ける箇所によって様々な意味があるそうだ。
その場合、挨拶の一環が頬や手の甲。
額や瞼への口付けは、その相手への守護の誓い。
唇への口付けは、恋人同士のそれでも勿論有用だが、単純にあなたが大切だという意味だけでも良いのだそうで、愛を請う場合は、手のひらや爪先、そして髪の毛の先と、何だか物足りない部分ばかりだ。
面白くはないけれどやってみようかと考えていたら、髪を編んでくれていたネアが、出来上がった三つ編みに口付けしてくれた。
驚いて倒れそうになりながらその意味を問うと、編んだ髪の毛に口付けるのは、綺麗な髪型でいられますようにという、母親が子供に与える民間のまじないであるらしい。
人間の文化はよくわからない。
因みに、ネアが犬の挨拶とよく言うので、犬が親愛の情を示す挨拶についても調べてみると、もう少し色々やってもいいような気がしてきたので、少しだけ気分が良くなった。