夜のダンスレッスン
ネアがまだエーダリアの婚約者だった頃のお話です。
その日、ネアはそろそろ取り組まなければいけない問題に頭を痛めていた。
ネアの婚約者は、元第二王子である。
現在は、そのような晴れ舞台から遠ざかったとは言え、魔術師組織の長であり、社交の場への出席も多い。
つまり、貴族的にお決まりのあれ、衆目の中でのダンスという苦行に晒されるのだ。
そしてそれは、そう遠くない未来に、暫定の婚約者であるネアにも降りかかる。
(社交は嫌いだけど、恥をかきたくない!!)
まさにその一言に尽きる。
権力という括りに一ミリも興味がないネアとしては、役職に伴う社交というものは倦厭の対象である。
人付き合いというのは、後ろ手で剣を構えるような環境以外のところで振興させるべきだと切に思う。
そんなことをぶつぶつと話していたら、魔物が不思議そうに首を傾げた。
「でもネアは、仕事の環境には拘るよね」
「権力は興味ありませんが、お金には興味があります。とは言え、過分なお金ではなく、心労なく程よい生活を維持出来る範囲のお金です」
「そういうものは、心配しなくてもいいのに」
「いえ、人生何があるかわからないものです。貯蓄はきちんとしておきましょう」
まさかここで、この目の前の美麗な魔物をリリースして、他の庶民的な魔物の元へ転職するつもりだとは言えない。
決して、嫌いで手離すわけではないのだ。
(寧ろ、この魔物がもっと幸せに生きて行ける、ご嗜好に合う方の元へ行くべきでしょう!)
ネアでは、爪先を踏んでやるのも戦々恐々としてしまうのだ。
詰って欲しいなど、もはやレベルが高過ぎて手が出ない。
「ダンスの練習をするのかい?」
「ええ、しなくてはいけませんね。あの上司殿の評価は気にしませんが、実際の現場で出来なくて恥をかくのは、自分自身ですから」
だがしかしダンスとなると、相手と講師が必要になる。
一人でこっそり練習出来ないのが、最大の難点だった。
「教えてあげようか?」
「ディノは踊れるのですか?」
びっくりして見上げた視線の先で、思わず目を逸らしたくなるような艶麗な魔物が微笑む。
今でも時々、この美貌に目が眩んで、渡さなくてもいいところまで手渡してしまいそうで、ひやりと背筋が寒くなる。
ネアは何ら特別な才能があるわけでもなく、偶然転がり込んできただけの、不相応な高級品だ。
これは、到底手に負えるものではないのに。
「踊れるよ。とは言っても、現在出回っているおおよその振り付けだけだから、今年になってから考えられたようなものは知らないな」
「………充分過ぎるくらいですよ?」
魔物が講師兼パートナーになれるとわかったので、ネアは早速使われていない大広間の使用許可を取り付けてきた。
「……わ、なんて美しいんでしょう!」
夜の大広間にはぼんやりとした魔術の火が灯り、えもいわれぬ幻想的な光景が目の前に広がる。
黄金の装飾に瑠璃紺の壁、ドレープを重ねた真っ白な天鵞絨のカーテンに、光の加減で浮かび上がる繊細な模様。
真っ白な大理石の床は、淡く水色の縞目が入り美しい。
「湖水氷の結晶だね」
「大理石ではないのですか?」
この世界の石材や建材は耳慣れないものばかりだ。
ネアは首を傾げて、淡い水色と乳白色がマーブル模様になっている部分を踏んだ。
「うん。特別な湖に張る氷を、満月の夜に結晶化させて切り出すんだ。自然に出来る量は微量だから、高度な魔術を持つ者にしか切り出せないんだよ」
「では、とても贅沢なものなのですね」
足元で床石が気持ちのいい音を立てる。
オーケストラの音がここに溢れ、紳士淑女で溢れた全盛期の王宮は、どんな様相だったのだろう。
「さてと。特別に踊りたいものはある?」
「いいえ。公の場で恥をかかない程度に、一律に形になる程度でいいんですが、贅沢でしょうか?」
「前の世界で経験はあるんだよね。それなら、大丈夫だろう」
「でも、振り付けが違うのでは?」
「ダンスがどういうものなのか知っていれば、随分と話は早いと思うよ」
「言われてみれば確かにそんな気もしますね」
ダンス用の音楽を担うのは、小さな青いベルベットの箱だ。
音楽の精霊の亡霊というよく分からない肩書きのものが住み着いているらしく、専用のタクトを用意しておいて、蓋をそれでこつこつと叩き、曲名を言えばその曲を奏でてくれる。
新しい曲を覚えさせるには、タクトで叩かずに蓋を開けておけば勝手に記憶してゆくのだそうだ。
中のものに意思がある不穏さをのぞけば、録音機と変わりない。
「踊ろうか」
「いきなり?!」
「一度通しで雰囲気を見てみよう。ステップや体の動きも調整してあげるから、力を抜いて体を預けてご覧」
「……もしや、その便利な自動運転で、本番も乗り切れるのでは……」
「私と踊るならね。そうするかい?」
「いえ、やはり覚えます。自分を甘やかしても、身の為になりませんから」
「ダンスは嫌い?」
「いいえ。気持ちよく踊れるなら楽しいと思いますよ。でも、少し短気なので、上手くいかない時は、不甲斐ない自分にもやもやします」
手を取られ、腰に手を回されるとぐっと二人の距離が近くなる。
こうして見ると、本当に美しい男性だ。
あの突飛な趣味さえなければ、ネアとて心を奪われたかも知れない。
(………うーん、やっぱり、奪われないかな)
すぐに思い直した。
美貌の質が高過ぎて、自分事に置き換えられない気がする。
世界遺産の王宮は素晴らしいけれど、住むなら身の丈に合った素敵なお家がいいという感じだ。
過ぎた美貌には、どこか拒絶感がある。
そんなことを考えながら自動操縦が終わり、本格的なレッスンに入る。
ディノの教え方は、少し抽象的ではあるが丁寧だった。
これだけ体が触れていても、ダンスレッスンだと思えば気にならないのが凄い。
「ネアは、よく足を踏むね」
「ぐっ!………申し訳ありません」
「ごめん、悲しそうな顔をしないで。可愛いと思って言ったんだけど、言葉選びが難しいな」
「………ディノは、ダンスを誰かに教えるのは初めてなのですか?」
「うーん、と言うよりも、誰かと一緒にこういうことをするのが初めてかな」
恥じらうように、魔物は口元を綻ばせて微笑む。
水紺の瞳に浮かぶ菫色の虹彩が、シャンデリアの下できらりと光った。
「お友達とか、恋人さんとか、一緒にお出かけしたりはしないのですか?」
「そういう相手はいないよ。魔物は元々独立した生き物だし、特に必要もないしね」
「それは、……魔物さんは、寂しいと思わないのでしょうか?」
「退屈はするけどね。だからと言って、誰かを望むわけでもなかったし。でも、今はネアがいるから面白いよ」
「むぅ、……ディノは腹黒いですね」
「えっ?ご主人様?!」
魔物は悲しそうにおろおろしたが、ネアは小さく溜息を吐いた。
こんなことを言われたら、転職への決心が鈍ってしまうではないか。
庶民的かつ、月々の暮らしに間に合う程度の稼ぎはキープ出来て、楽しくやってゆける魔物を見付ける夢を阻害しないで欲しい。
(ディノは、どうして私のところなんかに来たのだろう)
仮にも、元第二王子ともあろう人物が失神するくらいの美貌だ。
容貌が階位に響く魔物なのだから、ある程度の階位にはあるのだろう。
幾らでも、もっと才能のある歌乞いを探せただろうし、ただ自由に生きてゆくことも出来ただろうに。
(………退屈だったから?)
もしかしたらそれは、ただの孤独ではないのだろうか。
寂しくて寂しくて、構って欲しくて出てきたのだとしたら?
幸福や安堵の形は、決して一人で満たせないものがあるということを、ネアは知っている。
家族を亡くして一人ぼっちになったあの屋敷で、とびきりの料理を作って過ごしたクリスマスがあった。
少し奮発してケーキも買ってみたし、きちんと働いていたので、自分の為に、欲しかったそこそこに高価なセーターも購入した。
滑らかな手触りのセーターは素敵で、お気に入りの映画を見ながら過ごすクリスマスは、決して不幸なばかりではない。
ネアは多分、一人上手だ。
それでも、一人でいるだけではどう足掻いても埋められない欲求があるのは確かだ。
誰でもいい訳ではないから、そう簡単には埋まらないその穴。
「………私がこの世界に来て、見知らぬ土地でも寂しくなかったのは、きっとディノがいるからですね」
身の置き所なく孤独だったのは、一日にも満たない程度だ。
その後はずっと、この魔物がべったり側にいる。
なんだか寂しがり屋の魔物が愛おしくなって頭を撫でてやると、ディノはぐりぐりと頭を押し付けてくる。
「これからもずっと側にいるから、ネアは寂しくないよ」
「………そうですね」
「躊躇ったのはどうしてだろう」
「ディノ、面倒臭い男性は嫌われてしまいますよ」
「酷い、ご主人様!」
(そんなことを言われても……)
ネアとて、余命一年とかではないのだから、人生設計を立てねばならない。
この世界で生きてゆく以上、出来る限り自身の精神と身の安全を守るべく努力しようと考えている。
(ディノが、理だなんて厄介なものではなくて、庶民的な魔物だったら良かったのに)
過ぎる物を持てば、どこかで歪みが出る。
ネアにはそれを捌くだけの裁量はない。
(………それと、変態でなければ……)
その一文を脳内で審議にかけた途端、がくりと膝から力が抜けそうになった。
それが一番の難題なのだ。
変態の魔物などハードルが高過ぎる。
どんな扉を開かれてしまうのか恐ろしくて、パートナーとしての関係を深めることも出来ないではないか。
その後、拗ねた魔物が煩かったので、ネアは渋々体当たりしてやった。
黙らせる意味も兼ねて強めに当てたのだが、魔物は大喜びする始末だ。
(………私の運命って一体)
家族を失い、そこそこに人生の冒険も終え、一人のんびり早めの余生かと思いきや、異世界に落とされ変態のお世話係ときた。
どうか切実に、婚約者殿に早く恋を成就させて貰って、この変態を引き取って欲しい。
明日は、少し強引にでも二人の時間を作ってやろう。
そう考えて、微笑んだ。