凝りの竜と代理妖精 4
その凝りに一雫の魔術を注いだのは、悪意ではなく切実な欲求だった。
仮面を剥ぎ替えてからのぼんやりした最初の記憶は、焼け落ちた王宮の情景だ。
焼けて崩れ落ちてゆくがらがらという音。
さぞかし壮麗だったであろう美しい瓦礫達を踏みながら、その門を抜けた。
歩きながらふと、この瓦礫の奥に何か大切なものを置き去りにしてきてしまったような恐怖に捕らわれる。
振り返ろうとしたら、がたがたと身体が震え出してしまう。
振り返ってはいけない。
振り返って、そこに何があったのかを知ってはいけない。
それを知ってしまえば、正気ではいられなくなるから。
けれども、その日の情景は、何度も悪夢の中で蘇った。
疲労感に負けて目を閉じた一瞬や、水を飲もうとした泉の水面にも。
何度も、何度も。あの瓦礫の王宮が、瞼の裏に蘇る。
だから、偶然見つけたその凝りに、魔術を落として凝りの竜を育てようと考えたのだ。
もしこの国の王宮が燃え上れば、自分と同じ悲嘆に暮れた仲間達が多く生まれるに違いない。
同じものに出会えば、飲み込めないこの苦痛が軽減されるだろうか。
そんなことを考えていたら、声をかけてきた貴族の女がいた。
“ねぇ、お前、代理妖精よね?”
問われて首を振ったのは、自分は誰の代理妖精でもないからだ。
けれど、その言葉は何故か、胸を抉るような鋭さを持つ。
“そんなことをするのだから、この国に不満があるのでしょう。私と手を組まない?その災厄の芽で、何をするつもりなの?”
“王宮を燃やしたい”
そう答えれば、女は僅かにたじろいだ。
“なら、北の王宮を燃やしなさいよ。ヴェンツェルとエーダリアが死ねば、あの王宮が燃えるわ。それで満足でしょ”
明らかに、精神的な欠陥があるのだと考えられているのがわかった。
けれども訂正することも面倒だったし、最近は特に、色々なことを考えると酷く疲れるのだ。
思考を組み立てたり、言葉を選んで話すことすら億劫な日もある。
(まぁ、いいか。やってみようか)
“……どうすればいい?”
“いい計画があるの”
そしてジルフは、凝りの竜を育てて彼等に預けることを承知した。
形式ばった会合とやらが何度か開かれ、凝りの竜を降ろすのは、ウィームにあるリーエンベルクの正面ということになる。
イブメリアで賑わう王宮の正面を襲えば、王宮が倒れるのに大変な近道なのだとか。
ヴェルリアで生まれた竜は、あわいの空間で怨嗟を飲み込み随分と育った。
空間の隙間から窺い見たリーエンベルクには、豪奢なオーナメントを揃えた大きな飾り木がそびえ立っている。
柔らかに降り続ける雪に、煌めく飾り木は普遍的な幸福感を思わせる美しさだ。
(あの子が喜びそうだ)
そう考えて、がらんどうの胸の暗さに途方に暮れる。
空っぽだ。
空っぽで、何の心も動かない。
(あの子とは、誰だったんだろう)
大切なものだった筈で、大切だったからこそかつての自分は幸福だったのだ。
全てを無くした今もこうして胸が潰れそうになるのは、愛していたからだろう。
それくらいは、こんな風になった今でも理解出来る。
愛していたからこそ、あの場所から逃げ出したのだろうということは、暫くしてから理解した。
けれど、その時にはもう、あの瓦礫の王宮は更地にされてしまって何も残っていなかった。
だから、燃える王宮をもう一度見たかった。
国が滅び、死者の行列に蹂躙された王都にもう一度立ってみたかった。
そうすれば、もう一度息が出来そうな気がしたから。
“そろそろいい頃合いだろう。凝りの竜の周囲の結界を解いて、これをガレンの連中に観測させるといい。その後は門まで誘導し、リーエンベルクを災厄の地にするのだ”
指示を出しているのは若い男だった。
誰かが正当なる王位継承者だと言っていた気がする。
であれば、彼はこの国の王子の一人なのだろう。
つまりのところ、災厄の根はただの継承争いか。
そんなことを考えながら、撒き散らされる疫病を見ていた。
「死者の行列が出来ていると思ったら、凝りの竜か」
イブメリアはとにかく忙しい。
そんな中でも、大きな終焉の囁きと災厄の悪臭に足を運んでみれば、大きく育った凝りの竜がいた。
石炭の病を散らし、怨嗟と穢れの咆哮を上げる凝りの竜。
「派手だなぁ」
微かな呆れを込めて見ていたら、凝りの竜の側に気になる妖精がいるのが見えた。
灰色の大きな羽の先端が、僅かに真紅になっている。
最近、赤羽の妖精にはいい記憶がないので、思わず渋面になってしまう。
(あれ、……あの妖精はもしかして?)
よく見れば、かつての終焉の子供だ。
ロクマリアの王宮で愛する王女の為に、こつこつと終焉を育てて、手の中の全てを失った代理妖精。
あのロクマリアの王宮が燃え上がったとき、愛する王女を殺された彼は、攻め入った革命軍を相手に容赦のない殺戮を行なった。
たった一人で、王宮内に居たほとんどの兵士を殺し尽くしてしまった。
彼の功労に、死者の行列は声を上げて大喜びし、ウィリアムは苦い気持ちでそれを見送ったものだ。
「……あの時の妖精だとしたら、アルテアを追い回しているのは彼か……」
だとすれば、この凝りの竜の行き先はまさか、ウィームだったりするのだろうか。
それは少々困った事態だ。
ウィームには王がいるし、その歌乞いである少女もいる。
彼女は、共に死地を乗り越えたという貴重な経験を持つ、数少ない友人だ。
(あんまり、俺からは手を出したくないんだがな)
司るものがものだけに、自ら手を出して余計な死を増やすのは頭が痛い問題でもあった。
既に実が落ちた状態の鳥籠の中では問題がないが、まだ終焉が熟していない土地では、どんな死であれ、少なからず一つの波紋となって水面を揺らす。
「なんだ、あれは?」
そんなことを考えていたら、隣に見知った男が並んだ。
少し前に声をかけられたので、居場所は開放してある。
また厄介事かと不安になったが、どうやら上機嫌なようなので不思議に思っていた。
「凝りの竜ですよ。アルテア、あまりシルハーンを煩わせないで下さい」
「おい、文脈の説明をしろ」
「彼は、あなたを追い回している例の妖精ですよね?どうやら、あの凝りの竜を、リーエンベルクの正面に降ろすつもりみたいだ」
途端に、アルテアがうんざりとした顔で、天を仰ぐ。
仕草が大仰なので見逃してしまいがちだが、その赤紫の瞳は欠片も笑っていない。
イブメリアの儀礼に参加していたのか、夜会帰りのような燕尾服姿だ。
「目障りな連中だな」
「買った恨みで暇潰しをするのは自由ですが、これは迷惑ですね」
「迷惑なのはあいつらだろ……」
そう言いながら、アルテアが片手間に編んでいる術式の趣味の悪さに、顔が引き攣ってしまう。
不愉快さのツケを支払わせるのは構わないが、大袈裟に殺戮を広げられれば、忙しくなるのはこちらなのだ。
勘弁して欲しい。
そう思えば、ついつい声が低くなる。
「アルテア、まさかそれで排除するつもりじゃないだろうな?」
「するつもりだが問題でもあるのか?せっかくいい気分だったのに、けちをつけやがって」
「……そう言えば、何で俺を呼び出したんですか?」
「ん?ああ。……ほら、見てみろ。祝祭の挨拶だそうだ」
そうアルテアが見せてくれたのは、雪明りを紡いだ糸から織り上げた真っ白なポケットチーフだ。
(ああ、さてはかなり嬉しかったんだな……)
それが何なのか一目でわかるのは、選ぶ際に相談を受けたからだ。
“イブメリアにカードだけでは、さすがに格好がつきません。ある程度使えるもので、かつ、そこそこに距離感を出せる贈り物って、何がいいでしょう?やはり、お菓子やハンカチとかでしょうか……”
ネア曰く、あまり親密になるような贈り物は避けたいとのことだった。
それでこんな風に自慢しに来るくらい喜んでいるのだから、アルテアも、案外純粋なところがあるのかも知れない。
「自慢ですか?」
「そうだな。どうせお前は、祝祭も血と硝煙にまみれて働いているだろうと思ったから、祝祭の空気だけでもお裾分けしてやろう」
「……否定する素振りもないくらいに楽しそうで何よりです」
「ある程度気に入ってはいるんだ。俺は、それを楽しまない程に捻くれてはいないぞ?」
そう言えばそうだった。
久し振りに気付かされて、目を瞠ったまま頷く。
彼は享楽的で、残忍。
その代わり気に入った者には目をかけるし、各方面に友人も多い。
無作為に選んだ王宮で贅の限りを尽くし悪辣に食い殺してきたかと思えば、下町の孤児達の為に、強欲な領主を失脚させてやりもする。
極めて魔物らしい魔物だ。
「確かに、あなたはそういう男でしたね。でも、今回はその悪趣味な術式はしまって下さいね。あなたに任せると仕事が増えるだけなのを思い出したので、俺がどうにかします」
「寧ろ、お前が手を出せば一瞬だろ」
「だからこそ、普段から手を出したくはないんですよ」
「お前がそうやってもたもたしてるから、件の妖精は姿を消したぞ?」
確かに、凝りの竜がもう手を離れたからなのか、妖精はあわいに姿を消してしまっていた。
「その妖精については、あなたにお任せします。赤羽の妖精はお好きでしょう?」
「赤羽が好き過ぎて、屋敷まで出かけて行ったのはお前だろ」
「ご冗談を。経験者には敵いませんよ」
手を翳しながら、少し考えた。
普通に考えれば、消すのは凝りの竜だけで充分だろう。
けれど、主導している王族らしき青年と、彼を煽っている女性が気になった。
(さすがに王族を殺してしまうのは、国が荒れるかな)
この手は終焉。司るのは死と収束。
空間に漂う魔術の縁に意図して触れた途端、もろもろと、凝りが崩れてゆく。
その周囲に集まり始めていた死者の行列は、凝りの竜の崩壊にすら喜び歓声を上げた。
崩れた疫病に触れ、周囲の人間や魔物達が慌てて逃げ惑う。
冷静さを欠いた者が疫病に触れ、死者の行列に引き摺り込まれた。
悲鳴と怒号。
その全てを、隣のアルテアは楽しそうに聞いている。
少し手を加えて、王族の青年を煽っていた女性の結界と守護に穴を空ければ、疫病は一瞬でその命を呑み込んでいった。
「そうだな。あれくらいは捥いでやれ」
「イブメリアですからね」
魔物の王冠は、ただの習性ではない。
時には変えられない嗜好ともなるが、知人を優遇することもあれば、決して己の資質と添わせたくない者もいる。
リーエンベルクに住む友人達と、その周囲を象る要素たる者達は、最近出来た損ないたくないものだ。
「そういや、あの養い子には、祝祭には会いに行かないのか?」
「……祝祭にサラフに会いに行くと、ハレムの女達に袋叩きにされますからね」
「………そういやそうだな」
竜は、贈り物や祝祭を好む一族だ。
なので独り立ちさせてからも、祝祭には顔を出してやっていたのだが、行くとサラフがこちらに来てしまう為、彼の寵を競う女性達から睨まれるようになってしまった。
行かなくなって数年はサラフも不貞腐れていたが、今ではきちんと己のハレムの面倒を見ているようだ。
「さてと、終わったのはいいけれど、あそこまで繋いでいたのだから、門の影くらいは出ていたでしょう。向こうは大丈夫ですかね」
「さぁ、シルハーンが目をかけていれば大丈夫だろ」
「こんな日に、外に出てきますかね、彼が」
「……確かに、王宮に戻ったばかりだったか」
「その言い方だと、まさか邪魔をしに行ったんじゃないでしょうね」
「ミサ終わりに、祝祭の買い物に出ただけだぞ」
「ばっちり邪魔者だな」
手を出してしまった以上は万全にしておきたい。
事後処理も兼ねて、擬態してリーエンベルクの門の辺りに立ち寄ると、騎士達がイブメリアを祝う人々に紛れて周囲を見回っていた。
さも祝祭日の警備のようにしているが、魔術に長けた者特有のケープを纏った彼等は、本来は街中で警備をする一般の兵ではない。
(この様子なら大丈夫そうか)
最後にリーエンベルクの外門の付近を歩いてみて、些細な疫病の取り零しもないことを確認してから帰ろうとしていると、不意に片腕を取られた。
視線の先に水色の目をした若い男がいる。
独特なケープを見るに妖精だろう。
この体勢でも人目を避ける魔術の展開で騒ぎを避けているのだから、高位の妖精なのだろう。
「お前、なぜ魔術干渉を見ていた?」
「おっと、目がいい妖精だな」
手で触れて意識を落としてしまおうとしたら、慌てたような声が飛んだ。
「ウィリアムさん!」
「………ネア?」
ぱたぱたと駆けてきたネアが、門扉に手をかけて首を振っている。
「妖精さん、その方は知り合いですので問題ありません!」
「エルゼ、その手は離して大丈夫ですよ」
ネアの背後には、以前話したことがあるシーもいる。
腕を掴んでいた妖精は、彼の言葉に渋々と拘束を解いた。
どうやらある程度の上下関係があるようだ。
飾り木を見に来た人々に気付かれないように魔術の道を使い、リーエンベルクの内側に入り、こんな場所にいた理由を説明した。
聞けば、ネア達の方では、凝りの竜に関わった者が人波に紛れて様子を見に来ていないか、窺っていたらしい。
そこまで雑な擬態をしたつもりはなかったので驚いたのだが、この擬態に気付いたネアがまじまじとこちらを見てしまい、あの妖精の注意を惹いたのだそうだ。
「では、凝りの竜めは、ウィリアムさんが退治してくれたんですね!さすがですウィリアムさん!!」
弾んだネアが嬉しそうに微笑んだので、ぎくりと体が強張った。
ネアの隣には、穏やかな微笑みを浮かべたシルハーンがいる。
どう見ても少しも笑っていない。
アルテアにあれだけ言っておいて、まさかの流れで自分が引っかかってしまった。
(これじゃ、逃した王子達の後をつけたアルテアの方が賢かったな……)
引き揚げ先に例の妖精が居る可能性があるので、一度見てくると言って別れたのだ。
「でもネアは、ここに居ていいのか?せっかくのイブメリアなんだから、どこかで楽しんできたらどうかな。シルハーンも、こうやってイブメリアを過ごすのは初めてだろう」
「初めて、ですか?」
「彼は、祝祭日に特に拘りも持っていなかったからな」
「ウィリアムさん達と、馬鹿騒ぎをして過ごすこともなかったんでしょうか」
「馬鹿騒ぎ……?……いや、すまない、俺は構ってやれてなかった。基本的に祝祭は仕事で、こんな日の方が珍しいから」
ネアがあまりにも悲しげに目を瞠ったので、シルハーンを長年気にかけていなかったことを詫びると、鳩羽色の瞳に不可思議な感情がよぎった。
「わかりました!ウィリアムさん、私達とお茶してゆきましょう。あ、リーエンベルクは色々と厄介だそうですので、その擬態は解かないで下さいね」
「………え、」
「私のイブメリアの晩餐を守って下さった救世主を、ここで帰すわけにはいきません!アルテアさんから貰った、素敵な葡萄酒もあるんですよ!」
「ご主人様……」
「ほ、ほら、ネア、シルハーンが嫌がって…」
「ディノ!ウィリアムさんは、私の大事な魔物が危ない事をしないで済んだ、その功労者です!お茶の一つや二つ、我が儘を言ってはいけません!!」
すっかりうなだれたシルハーンの髪を引っ張って牽引しつつ、ネアはヒルドという名前の妖精に、客間の使用願いを申し出ている。
是非に却下して欲しかったが、シーは庇護対象から可愛くお願いされることに弱いらしく、許可してしまってから片手で顔を覆っていた。
(後悔するくらいなら、どうして許したんだ!)
とは言えこちらも、瞳を輝かせて手招きするネアには逆らえず、シルハーンの暗い眼差しに慄きながら外客用の部屋に通される。
「ちょうど、飾り木の見える部屋でお茶をしていたんですよ。私は甘党の辛党なので、塩気のある軽食もあるので、お腹が空いていたらそちらをどうぞ!」
イブメリアは朝食が豪華なので、あえて昼食は抜いて軽食で晩餐に備えているらしい。
こうして通されてみれば、確かにこんな風に誰かと、静かな祝祭を過ごすのは初めてだと思い至る。
(サラフがいた頃も、イブメリアは事件続きだったからな……)
不貞腐れたシルハーンが部屋の隅で転がってしまった頃、目が合ったネアが淡く微笑んだ。
「少し休めましたか?……ねぇ、ウィリアムさん、私は人間ですからずっとここにはいられません。……いつか、私がいなくなったら、またこんな風にディノを構ってあげて下さいね」
ふっとその真意が腑に落ちて、息が止まりそうになる。
(ああ、そうか)
だから彼女は、あえて強引に自分を引き留めたのだと。
あの時の自分の言葉は、不用意に彼女を恐れさせてしまったのだ。
「君は、シルハーンと、俺のことが心配になったんだな」
「一人ぼっちの魔物も心配ですし、お仕事中毒のウィリアムさんも心配です。私は人間なので、強欲なんですよ」
そう微笑む彼女を見て、本当にシルハーンは良い歌乞いを得たのだとしみじみ思う。
恩寵というものは、確かにこういう形をしているのだろう。
「心配しなくていい。友人として、シルハーンの様子はきちんと見てゆくから」
「有難うございます」
このやり取りが聞こえない筈もなく、部屋の隅に居たシルハーンがもぞもぞと顔を上げて戻ってくる気配を見せる。
どうやらご機嫌は直ったようだ。
安心したようなネアを見ながら、ふと当たり前の疑問を心の中で反芻した。
(そもそも、シルハーンが、彼女をそんな短時間で解放するとは思えないんだけどな……)
何となく、特別な措置をネアは好まないだろうというような気がして、その言葉を口に出すことはなかった。
穏やかな雪が降る。
アルテアも連れて来てやれば良かったと、少しだけ思った。
一幕挟んでの解決編です。