凝りの竜と代理妖精 3
凝りの竜が出現するのは、リーエンベルクの正面らしい。
そう聞いて、ネアは慌ててエーダリアに連絡した。
リーエンベルク内に居る者達へも、密やかに避難命令が出され、家事妖精達は、王宮の最も堅牢な結界のある本宮の地下礼拝堂に収容された。
疫病の災厄は、ウィルスのようなものだ。
完全に遮蔽された空間が必要となり、その場合、“悪夢の災厄”の対策を講じたシェルターが有効となるらしい。
リーエンベルクには、要人の各部屋と大広間、玉座の間、そして厨房と地下礼拝堂に完全遮蔽空間がある。
今回は、外部に動きが把握されにくい場所として、地下礼拝堂が選ばれたが、悪夢の災厄の時には、ある程度通常稼働するというから驚きだ。
(厨房に遮蔽施設として手をかけたのは、確かに必要な措置だわ…)
季節性の悪夢の災厄は、二日間滞在するのが常なのだそうで、食事はとても大事な要素となってくる。
その、致死性の悪夢を感染させるという災厄が、前の世界でいうハリケーンのような当り前さで訪れるという現実に、ネアは今から不安でいっぱいだ。
「お城に詰めている、騎士さん達は大丈夫でしょうか……」
「元々、リーエンベルクそのものに特殊な結界があるんだよ。災厄がどれだけ育てられているかわからないから、万全の策を取っているだけで、本来は退避の必要もないくらいだ」
「……そうなのですか?」
「うん。とは言え、遮蔽を強化した部屋があるのは、悪夢もいつ異常発達するかわからないし、今回もリーエンベルクだと知って振り下ろされる刃だからね。慢心せずに、慎重な対応をするのはいいことだ」
いざというとき、大袈裟だと手間を惜しまずに、過分な保護措置を取れる上司がいるのはいいことだ。
内輪の者達への対応でこの手厚さなのだから、エーダリアは慎重な主人であるようだ。
だが、今回最も被害が出る恐れがあるのが、凝りの竜が現れるその場所だった。
リーエンベルク前の並木道は、イブメリアの飾り木を見に来る人々で賑わいを見せている筈だ。
やっとの訪れで賑わうそこに、疫病の災厄など堪ったものではない。
「王宮前の飾り木を見に来ている領民の方々はどうするのでしょう?」
「さて、難しい選択だね。立ち入りを禁じるのは簡単だが、祝祭の楽しみを邪魔されたと不満が出るかもしれない。為政者を狙う悪意であれば、それも目的の内だということもある」
今はどうなっているのか、正面の部屋から王宮の外を覗いてみたかったが、下手に動くのも足手まといになりかねないので、部屋でうろうろしている。
一体どうなってしまうのだろうと考えている内に、ネアは段々苛立ってきた。
心配は勿論のことなのだが、やっとのイブメリアはみんなが楽しみにしていただろう。
特別なおでかけを予定していなかったネアとて、のんびり過ごす筈がこんな風に掻き乱されては落ち着かない。
何しろ、夕方からは素敵なディナーの予定もある。
これを邪魔された挙句、仲間達に負傷者などが出た日には、冷静でいられる自信がない。
時計を見ると、薬を届けてから半刻が過ぎていた。
晩餐の時間までは五時間程。
余裕があるように思えるが、まずは料理を作ってくれないことには始まらないので、すぐにでもその環境を整え直して欲しい。
(最低でも二時間以内に、被害者ゼロで片付くだろうか……)
「……………ご主人様?」
不穏な気配を察したのか、ディノが不安そうに様子を伺ってくる。
指先で深まった眉間の皺を伸ばされ、ネアは低く唸り声を上げる。
凝りの竜が、疫病の塊などというふわっとしたものでなければ、狩ってしまうところだが。
「何も予定のない平日ならまだいいのです。いえ、良くはありませんが、イブメリアは特別な日です。そんな日を狙って騒ぎを起こすなんてと、徐々に腹が立ってきました。不愉快です!」
ぼすんと、長椅子の上で弾めば、魔物がびくりと竦み上がる。
三度目の弾み上がりで、勝手に持ち上げられてしまった。
「わかった、ネア。すぐにどうにかするから、落ち着いて。垂直落下は嫌いなんだよね?」
「自発的なものはありです。離して下さい。心の鬱屈が満タンになる前に、弾んで逃がす方式なのです」
慌てた魔物は、荒ぶるご主人様を抱えたまま、ふわりと転移でどこかに移動する。
ひやりと雪片が顔に当って、ネアは顔を上げた。
見事な飾り木が見えるので、王宮前の広場に出たようだ。
「ネア様?!」
ぎょっとしたようなヒルドの声に視線をそちらに向ける前に、ネアはその腕にパスされた。
目を瞠って、急に持ち上げ要員に任命されてしまったヒルドと向き合う。
あまりにも近くで覗き込んだせいか、ヒルドが微かに頬を染めた。
(…………いきなり最前線?!)
「………ディノ?」
振り返って魔物の姿を探せば、外門の向こうに見える並木道の途切れたあたりを望むようにして、少し離れたところに立っている。
王宮前の広場は、厳密に言えば二分割された大きな円形の広場だ。
中央を外門で切り取り、半分を王宮の内側に置くことで円形の広場を効果的に使っている。
外門の内側に立っている大きな飾り木の向こう側には、朝に見たような王宮の飾り木を見に来た領民達の人垣は見えない。
このような時間に人足が途切れるというのは不自然なので、非常線を引いたのだろう。
そこにかかった労力を思うだけで、ネアは苛立ちの目盛がまた一つ上がった。
「ヒルド、その子を捕まえておいて。ふうん、これは随分と育てたね。場合によっては、死者の行列も伴って来るだろう」
「死者の行列………」
トラウマの単語を持ち出されてネアが青ざめると、ヒルドがしっかりと抱え直してくれた。
繊細な美貌なのでどうしても華奢に見えてしまうが、やはりしなやかで強靭な体だ。
既に何度か触れているのに、気付く度にそう驚いてしまう。
「ヒルドさん、お仕事中なんですよね?地面に戻して下さって結構ですよ?」
「いえ。危ないのでここに居て下さい。ディノ様は、どうされたのですか?」
「私が、凝りの竜めに苛々してきたので、対処してくれようとしているのだと思います」
「………そうか、ネア様にとっては初めてのイブメリアでしたね」
そう微笑んだヒルドの目が、すうっと鋭利になるのは何故だろう。
すぐ間近でその鋭さを見てしまったネアは、ぞくりとして早期の解放を願う。
おろおろとして視線を彷徨わせたネアは、先程嫌な場面を見られた妖精が隣にいることに気付いた。
思わず目が合ってしまって、なぜかさっと逸らされた。
そんな風に目を逸らされると、捕獲して弁解したくなるが、そもそも何が最大の要因なのかすらわからない。
やはり、魔物の髪の毛をリードにしたのがいけなかったのだろうか。
(………あの渦の辺り?)
視線を持ち上げて空を見上げれば、雪雲の中心に不自然な渦がある。
暗灰色に濁り、その部分からはらはらと舞い落ちてきているのは、雪ではなく灰に見えた。
渦に相当する部分の下には術式陣が組まれ、落ちてきたものが周囲に影響を与えないように封鎖されているようだ。
「ヒルドさん、あそこから落ちてくるのですか?」
「ええ。恐らく、どこか隔離された空間の中で育てた上で、こちらに通そうとしているようです」
「この状態で、ディノがどうにかしようとして、どうにかなるものなのでしょうか?」
何となく規模が大きそうなのでそう聞いてみれば、困ったような顔をされた。
「本来の魔術の扱い方が違うので、何とも言えません。通常は、やはり顕現してから調伏するものですが、あの方の様子だと出来そうですね……」
「顕現してからとなると、やはりある程度の被害は出てしまいますよね」
「完全に封じ込めていても、出現する門の裁定が曖昧になりますので、運ですね。市街地でなければ、かなりの広範囲を封じることも可能なのですが、このような土地では、封鎖出来る範囲がどうしても限られてしまいますから」
言われてみて見上げれば、確かに封じられているのは変色した雲の部分だけだ。
これ以上の余分を取るとなると、封鎖地域も拡大しなければならないので、必要な人員も増えてしまうに違いない。
雲の下の封鎖地域には、黒いローブ姿の人影が数人見える。
リーエンベルクの騎士達ではなさそうなので、ガレンエーベルハントの魔術師だろうか。
物々しい雰囲気に、ネアは大事な魔物の背中を心配そうに見つめた。
(落下予測地点の下に魔術師さんと、王宮側にヒルドさんと、第一王子様の妖精さん……)
他にも潜んでいる可能性もあるが、目視出来るのはその程度だ。
凝りの竜の標的になっている、エーダリア当人が居ないのは仕方あるまい。
或いは、あえて領主が現場に出るまでもないという体裁で、大事にしないようにしているのだろうか。
標的を見るに、政治的な配慮も存在するに違いない。
(調伏という言い方をしたわ。それは、規模としても、たいそうなものなのではないだろうか)
ディノの言う“どうにかする”が、どの程度の労力で解決のつく問題かによって、無理をさせないように連れ戻した方がいいかもしれない。
アルバンの山で捕まえてきた竜のような、或いはジゼルやサラフのようなものとは、明らかに施策が違ってくるようだし、やはり疫病というものはその括りだけで心臓に悪い。
「ディノ、」
「…………あれ?いなくなったね」
「……え?」
一度連れ戻そうと決心したところで、ディノは不思議そうに首を傾げた。
すぐにこちらに戻ってきて、ヒルドの腕からネアを回収してゆく。
もう既に興味を失ってしまったような魔物の顔を覗き込んで、ネアは状況説明を要求する。
「どういうことでしょうか?凝りの竜とやらは、いなくなってしまったのですか?」
「うん。向こう側で門を開くところまでは進めていたみたいだから、まとめて潰してしまおうと思ったんだけどね、誰かが壊してしまったみたいだよ」
「………内部分裂でしょうか?」
「災厄は煩いものだと言っただろう?場合によっては、目障りだと感じた通りすがりの誰かかもしれない」
「通りすがりの誰かさん………」
こんな簡単に解決してしまって、良いのだろうか。
はらはらしただけ、腑に落ちない気持ちになって、ネアは胡乱気な目になってしまう。
第一王子付きの妖精が、エーダリアと連絡を取っているヒルドにへばりついて、必死に情報を聞き出そうとしているのもよく分かる。
寧ろ、冷静なヒルドが凄いのだ。
「ほら、門の影が閉じただろう?」
「………普通の雲に戻りましたね。………あ、」
空が普通の雲に戻るのと同時に、リーエンベルクの前の並木道には、イブメリアを楽しむ人々の姿が戻っていた。
彼等にはこちらの姿が見えないようだ。
ネア達を特に気にすることなく、飾り木を指差したりして楽しそうに賑わっていた。
「へぇ、上手い魔術の織りだね。反対側を使ったのか」
「反対側?もしかして、ガゼットで見たような、影絵のことでしょうか?」
「そう。あの仕組みを利用して、通常の面ではない部分を、災厄の受け口として貼り合わせていたんだ。なかなかに思いつくことでもないし、出来るものでもない」
「……仕組みはともかく、やはりガレンの方々は凄いんですねぇ!」
感動してしまって、ローブやケープ姿の魔術師達をもう一度見ようとしたら、大きな手で目隠しされてしまった。
「………浮気」
「ものすごい遠回りして、またここに戻りましたね!憧れが総じて浮気ではありませんよ。ご主人様の視界を解放して下さい」
「……凝りの竜が纏まるまで待たなければ良かったな」
「纏まるまで?……待っていたのですか?」
「門の前に用意される時が、こちら側に一番近いからね。その時に壊そうと思っていたんだけれど」
要するに、褒めて貰う機会を奪われて、魔物はしょんぼりしていた。
目を瞠ってから、ネアはふわりと微笑む。
(可愛い魔物め!)
ご主人様の為に頑張ろうとして、褒めてもらい損なって落ち込む魔物は、凄艶な美しさがアンバランスで稚い。
持ち上げられたまま、体を屈めてそのおでこに口付けを落とした。
「………ご主人様!」
ぱっと顔を輝かせたディノに、よしよしと頭を撫でてやる。
「頑張ろうとしてくれて有難う、ディノ。頼もしくて格好良かったですが、私は、ディノが危ない目に遭わなくてほっとしました」
もじもじした魔物が何かを掴んだので、ネアは途端に虚ろな目になった。
これは、はしゃいで髪の毛をこちらの手の中に放り込んでくるやつだ。
「……何だろう、この既視感」
案の定渡された三つ編みを手に取りつつ、深い溜息を吐いた。
「でも、誰がやっつけてくれたのでしょうね」
首を捻ったネアに、ディノはほんの少しだけ不服そうな、不思議な微笑みを浮かべた。
回答編はまた後程…