凝りの竜と代理妖精 1
凝りの竜と呼ばれるものがいる。
姿かたちはまさしく竜そのものなのだが、災厄や穢れが、竜の形を取ったもので、実際に竜のような生態を持っているわけではない。
よく見ると、ほんのり本体が透けていたり、燃える炎や、荒れ狂う水がそのまま竜の形を成しただけのものまで千差万別である。
戦乱の地で死者の行列の上を旋回していることが多いが、時折、因縁深い土地や、穢れなどが溜まり過ぎた古い土地からも派生することがあった。
ヴェルリアで派生した凝りの竜は、後者のものに近い。
溜まり過ぎた穢れが、誰かの垂らした一滴の悪意の術式によって災厄の塊に成長したものだ。
(………人為的な派生か)
頭の痛い報告を受け、エルゼは溜息を吐きそうになった。
青銀の髪を片手で掻き上げ、水色の瞳をすがめる。
エルゼは第一王子ヴェンツェルの、剣の代理妖精だ。
代理妖精には二つの分岐があり、
交渉や調整、知識の提供に長けた者を盾、護衛や暗殺に長けた者を剣と呼ぶ。
中には剣であり盾でもあるという稀有な妖精もいるが、大抵の者はそのどちらかに振り分けられていた。
「ヴェンツェル様、ヴェルリアで凝りの竜が派生したと報告が入りました」
鮮やかな深紅の瞳がこちらを見、うんざりとした感情が僅かに覗く。
全員が凡庸な擬態を解き、さてこれからヴェルリアに戻ろうという時だった。
派生の場所によっては帰路にも支障をきたし、その経路によって影響が出たと足を掬われかねない。
また、何もせずとも、被害が出れば第一王子の不在時であったことが誇張される。
魑魅魍魎、王都とはまさにそのような陰惨な場所なのだ。
「イブメリアに?自然派生ではあるまい」
「ガレンの報告では、人為的な派生であるようです」
「特異点はどこになる?」
「………いえ、それが、…………捕捉を振り切り、姿を消したそうで」
「姿を消した?」
王子の声が低くなるのも仕方がない。
凝りの竜に限らず、災厄の顕現というものは、魔術的な重篤汚染にあたる。
魔術的な悪臭や騒音をまき散らし、それが故に見失うということなどは滅多にない。
もし、あるとすれば………
「………凝りの竜を術式陣に招き入れ、転移させたか」
「ええ、ガレンもその懸念を深めております」
強大な災厄や、厄介な魔物を、隙を突いて他方へ転移させてしまうという手法がある。
炎の災厄の対策として、そのまま転移で海に落としたりするのが一般的であるが、一つの襲撃という形であえて転移で災厄を送り込むということも勿論可能だ。
その危険を避ける為に、各国の王宮や王都には一定の転移避けの術式が厳重に組まれている。
しかし、守りの隙などどこにでもあるものなので、今回のように災厄が姿を消すということが最も不愉快な展開であった。
「エドラ、エーダリアと交渉して、リーエンベルクに私の部屋を押さえろ。ヴェルリアに戻るより、ウィームの方が遥かに守りが堅牢だ。ここで凝りを追う方が無駄がない」
盾の代理妖精、エドラは美しい目を泳がせ僅かな躊躇いを見せた。
「しかし、リーエンベルクには決して立ち入らないことが、あの白き魔物の条件でもあったのではないでしょうか?あの方のご意向に背く形で、宜しいのでしょうか?」
「これは、ガレンにとっても有事だ。力を貸せと言っているわけではない。部屋であれば、反対側の離宮にもあるだろう。弟は上手く彼等の手綱を取っていると聞いている。ある程度の譲歩は得られる筈だ」
「かしこまりました」
幸い、昼のミサには、元々領主は出席しない。
その他の調整があったとしても、ガレンエンガディンに繋ぎを取るのは簡単だったようだ。
エドラの通信を聞いていれば、元第二王子は、奇しくも王都にあるガレンの式典に出ていたらしい。
「すぐにこちらに合流していただけるようです。決して東棟には近付かないよう、離宮前広場に入っていて欲しいとお言伝がありました。確かに、リーエンベルクの飾り木の傍であれば、不測の事態があっても守りが強いでしょう」
主人の同意の頷きを得て、エドラは手早く周囲の書類をかき集め、黒い革の鞄にしまい込んでゆく。
ウィームで必要な決裁を終え、作成したばかりの書類だ。
どれも、かつて第一王子の代理妖精であったヒルドが上げてきたものなので、見事にまとまっているとエドラは称賛していた。
そのヒルドは、一か月程前に突然、第一王子の傍仕えの任を解かれた。
あえて、剣でも盾でもなく、傍仕えという曖昧な役職に甘んじてきたヒルドだが、それが周囲の目を欺く為の方便であることを、我々代理妖精は知っている。
彼はシーだ。
それも、かつて光竜との戦乱にも勝利した勇壮な一族の王だった妖精である。
当然、我々はその理由を主に問いただしたが、第一王子は本人が望み、それを叶えるのに相応しいだけの成果を上げたからだとしか口にしなかった。
寧ろ愉快そうであったので、代理妖精の中には、元々ヒルドは、エーダリア元王子の元に返す為に、ヴェンツェル様が教育していたのだと口にするものも多い。
ヒルドが、幼少の頃よりヴェンツェル様の命令で、エーダリア王子の教育係を務めていたのは有名な話だ。
「まずは、場所を移動しましょう」
そう言ったエルゼに、エドラが素早く頷く。
鎖骨程まで伸ばした淡い緑色の髪が揺れ、美しいが頑固そうな黄緑色の瞳を煌めかせた。
「私が先に入る。エルゼは、ヴェンツェル様と共に、一拍置いてから転移してくれ」
「わかった」
エドラはたおやかな女性という印象を裏切るように、盾だけではなく、こうして時折剣の仕事も兼ねる。
第一王子の周囲を固める為には、ただの文官だけでは用を成さないことが多い。
そのどちらもこなせる者が集められ、その中でより長けたものを専任されていた。
だからこそ、公に剣であり盾であると謳われる妖精は、格段に優秀なのだ。
“問題ない”
ややあって、エドラの声が聞こえた。
「ヴェンツェル様、宜しいでしょうか?」
「ああ」
滞在中の執務室として使っている屋敷から、イブメリアの期間中は転移が自由になっている、リーエンベルクの飾り木の下に転移する。
穏やかな室内から、見上げる程に大きな飾り木の下に移れば、清白な雪の白さに目を瞬く。
そして、リーエンベルクという土地の飾り木の、あまりにも潤沢な魔術の深さに驚いた。
(…………これは)
開放されている場所なのだから、ここはまだ出入りは自由な区画だ。
だが、我々のように日常的な業務に従事する代理妖精は、王都を離れること自体珍しいので、誰も、ウィームの飾り木を見てきたなどという者はいなかった。
先行したエドラの方を見れば、冷静に整えられた面差しの中に、隠しようのない喜びが見える。
妖精なら誰だって、これだけ潤沢な魔術を生み出す地で、この中に住めば、どれだけの至福だろうと考えてしまうに違いない。
降り続ける雪すらここは清浄だ。
王都のような濁りはなく、静謐で白く、どこまでも冷たい。
もし、今からでも自由な時間を与えられたなら、エルゼは一晩だってここに立っていられるだろう。
そう考えてしまった己を恥じながらも、恍惚とその雪に身を任せていたその一瞬で、ふわりと白い闇が翻った。
「ここへは近付かないように、言わなかったかい?」
ぞくりと肌が粟立つ。
悪夢の中のように重たい体を捻って、護衛対象である王子の前に滑り込みながら、雪の中にひっそりと立つ、美貌の魔物を見返す。
鮮やかな程に白く、その白さは驚愕する程に重い。
属性や恩寵を示す色彩は、虹よりも多くありとあらゆる豊かさを備えていた。
これが。
擬態のない姿を見るのは初めてだ。
これが、魔物の王といういうものか。
あまりの精神圧に、喰いしばった歯が軋み、顎先から冷たい汗が落ちた。
より魔物の王の近くに立っていたエドラの喉が、ひゅうっと耳障りな音を立てる。
その魂が軋んでいるのが、ここからでもわかる程だ。
一刻も早く圧を弱めてやらない限り、深刻なひび割れが生じてしまう。
背後の王子への余波を防ぎつつ、その為に何が出来るだろう。
うまく纏まらない思考で必死にそう考えていると、何か、茶色い塊がぽこんと雪の上に落ちてきた。
ぎょっとして視線をそちらに向ければ、何とも場違いなものであることがわかる。
(…………焼き菓子?)
「ネア?!」
そう思って、無防備にも落ちてきた方に視線を向けようとしてしまって、慌てた魔物の声を聞いた。
魔物の王も振り返ってくれたので、ほっとして同じように視線の先を辿る。
リーエンベルクの正面にある一部屋の窓が開け放たれ、そこの窓枠から身を乗り出すようにして、一人の少女がこちらを見下ろしていた。
王宮の窓の造りは装飾が多く特殊だ。
そうしなければ届かなかったのか、足をこちらに下げるようにして、危うい体勢で窓際に腰かけている。
けれど、そんな体勢でいても尚、その少女はどこか上品だった。
妙な言い回しになるが、行儀よく窓枠に腰かけている、という印象を受ける。
どうやら足元の焼き菓子は、彼女が魔物に向かって投げつけたらしい。
「ディノ、飾り木はみんなで楽しむものです。悪さをしてはいけません!」
そんな少女が、言い訳も許さない容赦のなさで、魔物の王をぴしゃりと叱りつける。
穏やかに微笑んではいるが、多分あの目は笑っていない。
声も、さほど張り上げてはいないのに、朗々とよく響いた。
(そうか、元々王宮だから王族の声が通るような設計なのか)
彼女の腰かけた窓の下の部屋は、かつての王族が姿を見せていたであろうバルコニーの部屋がある。
緩やかな曲線を描くリーエンベルク中央の設計そのものが、王族の声を拡散する為の仕掛けにもなっているのだろう。
「ネア、危ないから部屋に戻って」
「…………む。一人で部屋の奥に戻ろうとすると、スカートが大変なのですが」
そう言って少女がつまみ上げたのは、ボリュームのあるドレスのスカートだ。
こうして腰かけていてもはしたなく中が見えないくらいにパニエやレースが詰まっている分、下した足を引き上げようと体を戻すのは難儀そうだ。
「すぐに行くから動かないでね」
「あと、その焼き菓子はセロファンで梱包されているので持って帰って来て下さい。食べ物を粗末にしたくありません」
「わかった!」
先程までの精神圧が嘘のように、魔物は、とは言え優雅に雪の上に落ちた焼き菓子を拾い上げると、こちらのことなど見えなくなってしまったかのように、姿を消してしまった。
その後ろ姿でひるがえった長い白い髪は、なぜか犬の尻尾を思い出させる。
呆然としていると、少女は、おかしな体勢のままこちらに丁寧に頭を下げた。
「こんな位置からで申し訳ありません。うちの魔物が失礼いたしました。………エーダリア様、ディノはこちらで叱っておくので大丈夫ですよ」
はっとして振り返れば、背後にヒルドを従えたガレンエンガディンが立っている。
安堵の表情を見るに、事態が不穏になってからこちらに合流したようだ。
「ああ。宜しく頼む。こちらはもう大丈夫だ」
「はい。………こらっ!まだ会話中ですよ」
ガレンエンガディンとの会話の途中、彼女は後ろから伸ばされた腕に回収されていった。
ばたんと音を立てて窓が閉まり、離宮前の広場は何とも言えない沈黙に包まれる。
「もう戻っていたのか。統括の魔物と買い物に行くと聞いていたんだが………」
「ネア様のことですから、厳密に制限時間を設けたのかもしれませんね」
こちらは上げる声もない状態なのに、彼等にとっては日常茶飯事なのか、特に動揺なく会話をしている。
「エーダリア、………あちらは問題ないのか?」
「ええ。彼女が居れば、基本丸く収まります」
「…………そうか」
「ヴェンツェル様お早い御着きでしたね」
「ヒルドか……。もう数分遅く入れば良かったが、愉快なものが見れた」
「あまり無茶をして、エルゼとエドラを摩耗しませんよう。………エルゼ、エドラ、気が急くのはわかりますが、我々の連絡から少し時間を置いてからの転移の方が賢明でしたね」
懐かしい冷淡な微笑を浮かべて、ヒルドは第一王子を臆することなく窘める。
すぐにこちらに矛先が向かったので、二人の代理妖精は恥じ入って目を伏せた。
決して彼が代理妖精の上長であったことはないが、それでも頭が上がらない。
しかしながら、所属管轄が厳密に判明していない今、容易に謝罪をするわけにもいかない。
無言で頭を下げた二人の妖精に、ヒルドは冴え冴えとした微笑みで頷いた。
「さてと。どの部屋に行けばいい?」
そう問いかけた王子は、先程のことなど、余興の一つでもあったかのように落ち着いた声だ。
やっと、凝りの竜の問題を審議出来るらしい。
今回続きます!