ジゼルと子狐
その贈り物は、真夜中にガレンエーベルハントの魔術師より持ち込まれた。
「……それと、先程の品とは別にこちらをお願いします」
「雪狼の毛皮か」
「ええ。ジゼル様に祝福を与えていただければ、良い防具になるでしょう」
「わかった。祝福を与えよう。その代わり、雷鳥の被害についてはきちんと対処しろと伝えておけ」
「畏まりました」
同じ地に住むということは、折り合いをつけて共存するということだ。
だから、人間達とも魔物達とも、王である以上、交渉は絶えない。
とは言え、他の土地の話を聞くに、ウィームは我々にとって住みやすい土地だと言えた。
風竜達は人間の戦乱で一族の大半を失ったし、他にも魔物や妖精との戦いで滅びた竜もいる。
かつての戦いで光竜を滅ぼした妖精の末裔が、ウィームの王宮にもいた。
「……祝福か」
特に何も思うことなく、雪狼の毛皮を一枚掴み上げた。
その途端、
「キュンッ」
手のひら程の毛玉が、悲鳴を上げて転げ落ちた。
驚いて見下ろす床の上で、その真っ白な毛玉は体がずれていきそうなくらいに激しく震えている。
よく見れば、子狐の姿をした氷の精霊だ。
純白の毛並みを見るに素質は十分あるのだが、何しろまだ幼い。
せいぜい、生後半年程だろう。
「おい、お前はどこから紛れ込んだのだ?」
声をかけてやったのだが、震えていて顔を上げる事も出来なさそうだ。
雪竜は、冬に住まう者の庇護者でもある。
むやみに小さな者を傷付けはしないが、獣の姿の精霊は気配に敏感なものだ。
側にいるだけで恐ろしいのだろう。
「どう紛れ込んだのか知らんが、さっさと出てゆくのだぞ。巣に帰れ」
そんな小さな生き物をどうこうする気もないので、咎めることなく放逐しようとした。
「キュー」
しかし、か細い声に振り返れば、子狐は真っ黒な瞳に涙を浮かべ先程よりも激しく震えていた。
違うのは、鳴き潰れたようなか細い声で鳴き続けていることだ。
この鳴き方は知っている。
雪原で、氷の精霊の子供達が母親を求めて鳴く声だ。
そして声の枯れ方を見るに、この子供はもう随分と長く鳴き続けていたのだろう。
「母親はどうした?」
子狐に見えたとしても、頭のいい氷の精霊だ。
こちらの言葉は理解している筈なのだが、悲痛な鳴き声は止まない。
殆ど悲鳴に近いもので、壊れてしまいそうな魂の軋みを感じた。
「………それ以上鳴くと、喉を潰してしまうぞ?」
さすがに放ってもおけず、体を屈めて手のひらに掬い上げる。
可哀想なくらいに体を強張らせたまま、その精霊の子は鳴き声を一層に鋭くした。
(これでは、まるで私が折檻しているみたいではないか)
最初は好奇心旺盛な精霊の子が、荷物に紛れ込んだのかと思っていたが、さすがにこれはおかしい。
この子供の状態で、見知らぬ場所に乗り込むような余裕などあるまい。
「荷物の中に精霊の子が紛れていたぞ?」
水鏡の間からガレンエーベルハントの魔術師に連絡を取ると、イブメリアの伝令に来た若い男は、はっとしたように頭を下げた。
「申し訳ありません。失念しておりました!我らの長より依頼がありまして、その子狐にも祝福を授けて欲しいとのことなのです。どうも、密猟者に母と兄妹達を殺されたらしく、他国に密輸されようとしていたところを保護したそうでして。精霊の子を人間が育てるわけにもいかないので、雪山に放してやるしかないのですが、さすがに不憫だろうと……」
手の中の小さな子供を見下ろした。
まだ震えており、潰れそうな声で鳴いている。
保護した魔術師が、不憫に思ったのも頷ける話だ。
これではすぐに死んでしまうだろう。
肉体というよりも、心が死にかけている。
(祝福を与えれば、確かに雪山の危険は避けられるが……)
果たして、この子供は生きてゆくだけの心を残せるだろうか。
まるで緩慢な死を目指すがごとく、母親を呼び続けている。
「その密猟者はどうしたのだ」
「捕らえようとした際に抵抗したそうなので、殺しております。保護対象外の精霊を狩るのは禁止されてはおりませんが、子を持つ親と子供を狩るのは重罪。ロクマリアの崩壊の後、愚かな密猟者が増えましたね」
痛ましげな声だが、所詮は人間。
この子供は人間と共に暮らせない種の精霊の子なので、どこか他人行儀だ。
「……わかった。冬の子供であれば、元々私の管轄下だ。こちらで保護しよう」
「有難うございます」
通信を閉ざした後、なぜ自分はそんなことを口にしたのだろうと眉を顰める。
祝福だけ与えて、山に帰すのが妥当なところだ。
管轄下のものであれ、その程度の扱いが通常の範囲である。
それなのに、先程の口ぶりでは、まるでここで面倒を見るかのようではないか。
「そなたの母親は、もう死んでしまったのだろう?」
困り果てて話しかければ、大きな黒い目に絶望にも似た影が落ちる。
鳴き叫ぶ声が、一層に悲痛になった。
(ああ、そうか。わかってはいるのか)
この小さな生き物は、理解しているのだ。
母親や兄妹達がもう死んでしまったことは知っているのだ。
それでもこんな風に鳴き続けている。
鳴き潰れそうな声は、どこか狂気的ながさつきを帯び、聞くものを不快にする程になってきていた。
本来、氷の精霊はその歌声で旅人を誘い殺してしまう程の美しい声の持ち主だ。
この子狐とて、立派に育てば美しい精霊になるだろう。
“子供が泣き止まないときは、一度驚かすのも手ですよ?”
ずっと昔。
そう教えてくれたのは、先王より仕えた宰相だった。
先代からの勤めで高齢であったので、あの酷い戦乱を知らずに亡くなったのが幸いだが、妹達を育てていた頃は、良い協力者になってくれたものだ。
(驚かせるか……)
僅かに思案してから、子狐を掴んだまま竜の姿に戻る。
潤沢な魔術を持っているので握り潰す事も、取り落すこともない。
「………ギュッ?!」
子狐が、ようやく今までとは違う声を上げた。
バルコニーに出て、ばさりと大きな翼を広げる。
こちらの指先に小さな足で必死にしがみついている子狐を持ったまま、真っ暗な空に飛び立った。
「ほら見てみるといい、街の光だ。こうして夜に飛ぶのは気持ちがいいだろう?」
氷の精霊なので、寒さは問題ない。
それどころか身を切るような寒さを好む種族だった。
山々や森を越え、イブメリアを迎えて華やぐ街の上を飛び、驚きのあまり声を失ったまま、目を丸くしている子狐に様々なものを見せてやる。
飛びながら、片目の視力を持たなかったが故に、随分と長く飛べずにいた妹達にせがまれ、背中に乗せて夜の散歩をした日々を思い出した。
「……世界は美しいだろう。恐ろしく、悲しいこともあるが、不思議なものだ。こうして空から見下ろせば小さなものよ。ただ美しいだけなのだ」
精霊の子は、指の隙間から星屑のように煌めく街をじっと見ている。
雪山で暮らすこの子供が、見たこともないような光景なのは間違いない。
まだ子供なのだ。
驚きが悲しみに勝ってしまい、思わず夢中になっているのだろう。
(哀れなものだ。……孤独というものは、さぞかし恐ろしいだろう)
当たり前のようにいたものが、唐突に失われるという驚き。
死というものの容赦のなさは、生き残ったものの心をズタズタにする。
唐突に、未来がただの恐怖でしかなくなるあの暗転は、こんな小さな子供には酷なことだろう。
当たり前のように通じていた会話が失われ、自分に属するものがいなくなる。
他の誰でも駄目なのだ。
愛する者でなければ、意味がない。
愛情というものは、そう容易く手に入れられる恩寵ではないのだから。
大きな旋回のその中で、子狐の瞳から大粒の涙が流れた。
こんなに小さな子供でも、人間の子供で言えば十歳程度の知能はある。
また、精霊というものは、複雑な心の織りを持て余し、容易く壊れてしまう程に感傷的な種族だ。
「安心しろ。幸い家族もいないからな。私がお前の守護者になってやろう。好きなだけあの城に居ればいい」
そう告げると、ふわふわの毛並みがぶわりと膨らむ。
指先ほどしかない尻尾まで膨らませて、子狐は大きな目をこちらに向けた。
無垢な瞳は、壊れてしまいそうなくらいに無防備だ。
「私がお前の側にいてやろう。だから、もう泣くな」
これは気紛れだ。
自分でも、いつ飽きてしまうかわからない、ただの気紛れ。
それでも、こんなに小さな生き物が、自分と同じ絶望を見たのだということが、奇妙に胸に刺さった。
この子供の鳴き声は、顔を覆った手のひらの中でしか涙を流さなかった自分の、心の傷を開かせるよう。
そんなことだけで、この小さな生き物が愛しくなる。
竜は元々、守るということを本能にする生き物なのだから。
「王、朝のミサには出られないのですか?」
「構わんさ。欠席の旨はガレンに伝達してある。それよりも見ろ、とうとう膝の上で眠ったぞ!」
あの夜の散歩から帰ってきてから、子狐はぴたりと悲鳴を上げなくなった。
その代わりに小さな手足で懸命に付いて回り、置いていかれそうになるとぴいぴい鳴くのだ。
ひと時も目を離せないらしく、引き剥がそうとすると一人前にも唸って抵抗する。
仕方なく肩に乗せて仕事をしていたが、夜明け前に居眠りをして転がり落ちてきたので、膝の上に乗せてやったところ、何度かくるくると歩き回りながら収まりのいい位置を探し、丸くなって眠ってしまった。
よく見れば、片足の爪をこちらの服に引っ掛けている。
置いていかれないように、子供なりに対策をしている様子だ。
「………子供というものは、可愛いものですね」
城に詰める部下は最初は困惑していたものの、鼻を鳴らして寝ている子狐を見ているうちに表情を和らげた。
だが、城の外を見て眉を顰める。
「王、少し雪の勢いを弱めないと、領主から苦情が来ますよ?」
そう言われて窓の外を見ると、調整したものよりも遥かに激しい雪が吹いていた。
慌てて雪の勢いを収めようとしたその時、子狐が寝返りを打って腹部を出した。
「………吹雪になりましたね」
「……暫くは無理そうだな」
名付けは最大の祝福になるので、取り敢えず新しい名前を付けよう。
そんなことを考えながら、無防備な腹を撫でてやった。