クッキー缶と家出の理由
「今日は何をして過ごしたんですか?」
そう尋ねてから、かつて娘にそんなことを毎日問いかけていたのだと懐かしく思った。
あの頃の返答は決まっていた。
本を読むとか、窓の外を見ていたとか、寝台で刺繍をしていたとか。
その文言を思い出せば、やはり今でも胸が鈍く痛む。
でも今回は、思いがけない返答が返ってきた。
「クッキーの缶を磨いてた」
「……クッキーの缶を」
「うん。缶用の磨き粉があるんだ。でも、表面を磨くと絵柄がなくなっちゃうから裏だけ」
ゼノーシュが磨いていたのは、さして高価でもないクッキー缶なので、決して磨き粉を使ってまで保管するような品物ではない。
(濡れ布と仕上げの布まで……)
気に入った武具の手入れでもするかのように、ゼノーシュは溜め込んだクッキーの缶を磨いている。
ふと、案外捨てられない性格なのかもしれないと、思い至った。
貰ったものは申し訳なくて捨てられない性格というものがあるらしいので、これからのクッキーは、扱いに困るような缶ではなくて、量り売りの袋の方がいいかもしれない。
ゼノーシュの部屋は今や、クッキー缶で収納の大部分が埋め尽くされようとしていた。
事の発端はグラスト自身が色々と買い与え始めてしまったからだが、祝祭用に買い与えた八缶を、まさか一晩で食べてしまうとは思わなかったのもある。
あの時は、本気でゼノーシュの病気を心配した。
明らかに糖分の摂り過ぎだが、幸い体には何の異変もない。
体型が変わるということすらないらしい。
(だが、いくら寿命が削られなくなったからといって……)
考えかけて、ふと立ち止まった。
本当にそれだけが理由だろうか?
既婚の騎士の中には子供がいる者もいる。
そんな部下達と会話をするとき、同じ調子で話してしまうのはゼノーシュのことだ。
幸い、部下達の中ではゼノーシュは庇護しなければいけない対象になぜか含まれているようで、ほぼ全員が同じ調子で会話に同意してくれる。
中には、一人で買い物に出すのが不安で、こっそり休日を削ってまで護衛にあたっている者もいるそうだ。
一瞬過重労働の不安が過ったが、止めようとすると泣かれたのでそのままにすることにした。
可愛くて仕方ないということであれば、幸せそうなのでこれでいい気がする。
「それって、可愛がって欲しいんじゃないですかねぇ。ほら、子供とかもそうでしょう?」
二児の父親である部下にそう言われ、少なからずはっとした。
もう一人の歌乞いであるネアに、ゼノーシュがクリームを塗ってもらっているらしいと相談したときだ。
契約の魔物の心は狭いとされている。
万が一にでも、あの白い魔物の機嫌を損ねやしないかと、ひやりとしたのだ。
「ゼノーシュ君の許容対象が酷く狭いのと、それがたまたま年頃のお嬢さんだっただけで、小さな子が母親や姉に甘えるような感覚だと思いますよ。現に、ネア様に甘えている様子は何度か見ましたが、異性愛的なものは一切感じませんでしたし」
「いんや、母親っていうより、姉弟みたいなもんだろ。時々弟の方がしっかりしてるのも、そんな感じだぜ。隊長、心配しなくても大丈夫ですよ。ディノ様も、全く気にしてなさそうですしね」
「………っていうか、寧ろヒルドさんが心配だよな」
「いや、あのひとなら死なないだろ」
部下達とて、少なくはない人生を積み上げた立派な騎士だ。
なので、仕事以外の時には変に上司ぶらずに色々な話をするようにしていた。
仕事の上では自分が上司であったとしても、その他の面では彼等の方が優れていることなど沢山ある。
腹を割って話せば、いざというときに誰がどんな反応をするかも、何となくではあるが予測しやすくなるし、警備等の時間調整でも各自の生活に見合ったもので調整出来た。
「ヒルドについては、心配していないが……」
彼は、自分の身ぐらい自分で守れるだろうし、もしあの男が命を脅かすと判断した上でも我欲を優先させるのであれば、それはもう彼の心の領分だ。
勿論、手を貸せるようなことであれば惜しまず手を貸すし、相談にだって乗る所存ではある。
(寧ろ、我欲を持てるくらいであれば、良いことだ)
彼の今までの生き方を見てくれば、一概に危ないことは止めろとは言えない。
どれだけの屈辱に耐え、どれだけ心を殺し、どんな苦い水を飲んできたことか。
王宮に勤めたことのある者ならば、その誰とて、他の誰かの心の闇を慮ることは出来る。
出来るようになってしまう。
どれだけ清廉とされても尚、王宮という場所には深い澱みがあるものだ。
同僚として、心配しないというだけの信頼は寄せているつもりだった。
自分とて、任務の際に身の危険の心配をされれば騎士として憤ることもあるだろう。
ある日、廊下で会ったネアに、ケーキのレシピを尋ねられた。
ゼノーシュの憧れのケーキがあるらしい。
既に何度か手作りのケーキを食べさせてはいるが、白いケーキとは何だろう。
屋敷の料理人が作る中で白いものといえば、檸檬クリームの凝ったものしか思いつかない。
後は、せいぜい何の飾り気もなく自分が作っていたケーキの成り損ないのようなものだけだ。
その時、ふっと思い出した。
“あなた歌乞いでしょ?僕にもケーキ作って”
ゼノーシュと最初に交わした言葉、あれに特別な意味があるのだとしたら。
(俺が作っていたものを知っていた?……いや、まさか)
だがそうでないとすると、彼は元々、契約した歌乞いの手作りで与えられるものを好むのかもしれない。
迫ったイブメリアは、各家庭でケーキを作って祝祭の夜を祝う風習もある。
飾り木と災厄除けのリースに飾りをつけながら、家族でどんなケーキを作るのか相談するのだ。
(明日はさすがに急だな。屋敷の料理人も腕を振るいたいだろうし、いつか作ってやろうか)
そう考えながら、水鏡で、料理人とメニューの確認をしていた。
だからふっと会話が途切れて何でもない話を始めたときに、ゼノーシュが自分の手作りケーキを好んでいる話をした。
「旦那様、それでは今回のデザートは、旦那様がイブメリアの白いケーキを作って差し上げてはどうでしょう?」
「………俺が、か?」
「どんなものであれ、誰であれ、心の籠った料理はとても嬉しいものですよ。きっとお喜びになるのではないですか?お嬢様だって、あんなに喜んで食べていらっしゃったではないですか」
「そうか、…………そうだな」
背中を押された気がした。
そうか。
自分はこういうことをしてやりたかったのだと、改めて認識した。
ただの歌乞いというものの職務を超え、自分はゼノーシュを幸せにしてやりたいのだと。
それは本来何の特別さもない、当たり前のことなのかもしれない。
ゼノーシュは予想以上にそのケーキに大喜びしてくれ、驚いたことに作っただけぺろりと食べてしまった。
帰り道もご機嫌で夜の屋台の話をしているゼノーシュに、何とも言えない胸の奥の暖かさを感じる。
それは、夜の屋台巡りに同行しても続いていた。
側に居るから側に居て欲しいと言った小さな魔物を見下ろして、迷子にさせないように人ごみのなかで目を配る。
人間に擬態していても綺麗な子なので、行き交う人々は微笑ましげな眼差しを向けてきた。
家族連れの少女が、頬を染めてゼノーシュの横顔を目で追っていた。
しかし、当人は屋台の揚げ菓子に夢中で全く気付いていない。
勿体ないなと、今までなら思っていた筈だ。
だが、今ではもう少しこのままでもいいかなと思う。
子供ではないが、子供のようなまま、このまま世話を焼かせてくれればいい。
まるで、息子のように。
(明日、リノアールに行けるだろうか)
あらかじめ買っておいたイブメリアの贈り物だけでは物足りない気がした。
あれは実用性だけのものだ。
もう少し、……ただの贈り物になるようなものを買ってやりたい。
飾り木のインスの赤い実を見て、恐らく食べられるのだろうかと考えているゼノーシュを見ていたら、ふわりと心の奥が綻んだ。
もうずっと昔、初めて妻に出会った時や、妻から子供が出来たという手紙が来た朝のことを思い出す。
自分だけに紐付く家族が増えるということが、こんなにも幸せなことなのかと感じた頃を。
この魔物は自分よりずっと頑強で、自分よりずっと長く生きるだろう。
ずっと側にいるのだ。
先に喪われることなく、ずっと。
そんなゼノーシュに長生きして欲しいと言われたのだから、頑張らねばなるまい。
少しでも長く側にいてやり、寂しい思いなどさせたくない。
「ゼノーシュ、その実は食べられないぞ」
そう言って頭を撫でてやると、目を瞠って嬉しそうに笑った。
周囲に年頃の少女達を連れた家族が随分増えた気がするが、まだこの子は渡せない。
この魔物が差し伸べてくれた手は、今のところ自分だけのものだ。
どうか、ゼノーシュが恋人を選ぶ前までには、この子育て欲のようなものが満たされていればいいのだが。
そんな風に緩んでいたせいか、とんでもない失態をしたのはその更に数日後のことだった。
「ゼノーシュ、少しは片付けないとだめですよ」
契約の魔物を自分の息子のように抱き締めた日から、随分距離は縮まったように思う。
こちらからも言える言葉は増えたし、彼からの要求も増えた。
新しい枕があるので古いものは早く捨てろと叱ってくるところなど、本物の息子のようだ。
だから自分も、ついつい親のような気持ちで叱ってしまったのだ。
「古いものは幾つか捨てたので、あまり貯め込まないように…」
「…………捨てちゃったの?」
呆然とした顔でこちらを見上げているゼノーシュが、見る間に涙目になる。
これは失敗したようだと悟れるぐらいには、悲しげな顔だった。
「しかし、あれは空き缶で………」
「グラストに貰った缶、僕の宝物だったのに」
(しまった………)
子供特有のあれだ。
意味のないものではなく、その子にとっては特別に意味のあるものだったのか。
慌てて慰めようと手を伸ばしかけたが、ゼノーシュはぱっと駆け出した。
「ゼノーシュ?!」
「僕、家出する。一週………三日ぐらい!」
「待ってください、どこに行くんですか?!」
「家出だから内緒。その間グラストは、勝手に仕事するの禁止だから!……………困った時だけ呼んでいいよ」
家出にしては手厚すぎる言葉を残し、ゼノーシュは姿を消してしまった。
動揺したままリーエンベルクの中を探し、途方に暮れたまま外も探しに出てみようかと思っていたところで、ヒルドと話しているネアに遭遇する。
「あっ、良かったグラストさん。お探ししていました!」
「ネア殿?」
「ゼノは、私の部屋にいますよ」
その言葉に、膝から力が抜けそうになった。
とりあえず外に出ないでいてくれて良かった。
魔物はどこにでも行けるものだ。他国になぞ行かれてしまったら追い掛けようもない。
「すみません、ご迷惑を。すぐに迎えに行きます」
「どうやら舞台か小説の影響で、ゼノ的には家出をしないと、自分の傷心具合を主張出来ないと思っているようなので、今夜はこちらの部屋に泊まらせてあげて下さい。でも、探している様子を伝えてあげると喜びます」
「……舞台か小説の影響?」
「ええ。ご主人の浮気に激怒した奥様が、一週間実家に戻った結果、二人は仲直りする物語だそうです」
「…………なぜ夫婦ものを参考に」
「家出という文化が新鮮だったみたいですね。少し仲良くなったからこそ悲しかったみたいで、ゼノなりの甘え方でもあると思います。付き合ってあげて下さい」
「しかし、ご迷惑ではありませんか?ディノ殿は…」
「確かにうちの魔物は拗ねてしまって巣に引き籠っていますが、こういうのも社会勉強ですからね」
「……巣」
「………巣」
思わずヒルドと顔を見合わせ、沈痛な眼差しになった。
以前、歌乞いとしての観測交渉の際にそのやり取りは耳にしていたが、今回の会話の流れから察するに、やはり実際に住んでいる“巣”であるようだ。
あそこまで高位な魔物になれば、巣を形成したりもするのだろうか。
結局、ゼノーシュが家出から戻るまで宣言通り三日かかった。
高位の魔物なりの矜持として、あまり前言撤回するのは好きではないらしい。
意外に子供っぽいところと、妙に老獪な部分を知り、最終的には賄賂で機嫌を直してくれた。
代わりに、もっと宝物になるようなものをあげてはどうだろうかと提案したのは、部下の一人だった。
決して好みを外さないよう、クッキー缶を大切にしていた感性を汲んで選べと言われたので、街の玩具屋で売っていたクッキーの形をした大きなクッションを買ってきたのだ。
男の子にぬいぐるみのようでどうかとも思ったが、クッションであればいらなくても使い勝手はある。
ゼノーシュは機嫌を直したどころか、
それ以来、そのクッションを抱えて寝ているようで一安心した。
時々持ち歩いてしまうので、ますますクッキーモンスターと呼ばれている。