赤い実と白いケーキ
バベルクレアのその日、僕は初めてグラストの屋敷にお客として招待されていた。
本当は、グラストが躓いて壁紙を破ったのはどこかも、どこに何をしまってあるかも知っているけれど、初めて来たふりをする。
僕が、この屋敷に何度も来ていたのは内緒だ。
お屋敷を一通り案内して貰うと、昼食になった。
でもなぜか、食事が始まる前にグラストは席を立ってしまう。
用事があるみたいだけれど、置いていかれたみたいで寂しくなってしまった。
リーエンベルクの正式な食事でも、グラストはあまり同席してくれない。
二人で一緒に食事を食べられるのは、あまりないことなのだ。
さっきまであちこちを案内して貰った喜びが萎んでゆくような気がしたけれど、僕はグラストのことについては待つことに慣れているつもりだ。
途中からは食事に集中して、たくさん食べた。
この屋敷の料理は、凝ったものではないけれどとても美味しい。
グラストが好きそうな料理だなと思ったら、今までグラストが食べて来たのと同じものを食べたんだと嬉しくなった。
食事が終わると、小さな硝子の器で杏のシャーベットが出てきた。
それだけで紅茶に切り替わってしまって、僕は少し拍子抜けする。
デザートは出ないのだろうか。
もしかして、ここの料理人は甘いものが嫌いなのだろうか。
そんなことを考えていた時だった。
「すみません、ゼノーシュ。少し待たせてしまいましたね」
グラストの声がしてぱっと顔を上げたら、目の前にお皿に乗ったケーキが置かれた。
「………ケーキ!」
「料理人に提案されて、俺が作ったんですよ。ゼノーシュは俺のケーキが好きだと言ってくれているし、今日はまだバベルクレアですが、イブメリアはケーキでお祝いするものですからね」
目の前の白いケーキを見下ろした。
正確に言えば、そのケーキは白いだけではない。
スイズカラの赤い実でイブメリアらしさを演出したのだろう、上に可愛らしい飾りが乗せてある。
けれど、土台になっているのは紛うことなき白いケーキだ。
「これ…………」
遠慮がちにグラストを見上げると、にっこり笑って頷いてくれた。
フォークを取ろうとして、紅茶のカップをひっくり返しそうになってから、一度座り直して大きく深呼吸した。
顔を上げると、グラストはびっくりした顔でこちらを見ている。
息が止まりそうだった。
「食べていいの?」
「…………イブメリアが近いので白いケーキにしてしまったが、もしかして、チョコレートケーキの方が好きでしたか?」
「僕、これが一番好き!」
慌ててお皿を抱え込んで、取り上げられないようにする。
あまりにも必死になり過ぎたせいか、向かいの席に座ろうとしたグラストが、もう一度こちらに来て宥めてくれた。
最近時々してくれるように、頭を撫でてくれたので、何とか肩の力を抜いた。
「まだ食べていないのに、ゼノーシュは褒め上手ですね」
「白いケーキが好きだから」
「そうでしたか!では今度からそうしましよう」
「毎日でも食べられるよ」
「はは、また次の休みも焼きますよ」
(心がほわほわする……)
少し前に、山羊のチーズのスープを飲むとネアがいつもそう言っていた。
やっとその意味がわかる気がする。
きっと、こういうときに使うんだろう。
フォークを手に取ってケーキを見つめたけれど、急に食べていいのかどうか不安になった。
もう二度と作って貰えなかったとしたら、このケーキの姿を見るのはこれで最後なのだ。
最初は赤い実が邪魔だと思ったけれど、よく考えたら、これはあの白いケーキの上位のものかも知れない。
「ゼノーシュ?」
「食べたらなくなっちゃう……」
「簡単なケーキですからね。まだまだありますよ」
「食べる!」
グラストの言葉にはっとした。
まだ残っているなら一刻も早く全部食べないと、誰かに分け与えられてしまうかもしれない。
グラストは、お裾分けや贈り物が好きだ。
このケーキだけは渡せない。
柔らかいスポンジとクリームをフォークで切り分けて、ぱくりと口に入れた。
ふんわりしたクリームの甘さが染み込む。
それと、甘酸っぱい何か。
「………林檎のクリーム」
「イブメリアですからね。やはり林檎は入れないと。最初は、前によく作ったただのクリームケーキの予定だったんですが、なんて質素なものを食べさせる気だと料理人に怒られてしまって」
(その料理人が憎い……)
でも、料理はとても美味しかったし、僕がグラストのケーキが好きだと聞いて、グラストにケーキを作ってあげるようにと言ってくれたのはその料理人だと言う。
生クリームが林檎のクリームになったくらいで、酷い目に遭わせてはいけない気がする。
(グラストは、周りにいる人達のこと大事にしてるし)
フォークを持つ手がぷるぷるしないように自制しながら、必死にネアの言葉を思い出した。
(確か、褒めつつ次の要求を伝えるって……)
「僕、このケーキ凄く好き!でもただのクリームのケーキも食べてみたい」
これもまたネアに言われた通り少し首を傾げて言ってみると、奥でものすごい音がした。
メイドがお盆か何かを取り落としたらしい。
家令だと紹介された老人も、何故か口元を手で覆っていた。
ネアは、可愛いは正義だと言っていたけれど何かいけなかっただろうか。
しょんぼりしそうになってグラストを見上げると、珍しくただふわりと微笑んでくれた。
(…………!)
僕がお腹を空かせた狐だったとき。
契約の魔物じゃなかった頃の僕を見たときと同じ。
礼式も何もない、ただの微笑みだ。
あの子に向けていた微笑みに似ている。
「そうだな。今度はただのクリームのケーキを作ろう」
「…………グラスト、大好き」
僕がディノの真似をしてそう言うと、グラストは手にした紅茶のカップを取り落としそうになった。
(これも違うのかな?)
ディノがこうやって言うと、ネアは呆れていても目元を柔らかくして、最終的にはディノを甘やかしている。
ディノが使うのは可愛いという言葉だったけれど、僕がグラストに向ける気持ちとは違う。
だから、一番の気持ちの言葉に置き換えてみたのだけれど、これでは駄目なんだろうか。
「旦那様!早くお返事をしてあげて下さい!!」
「そうですよ!こんな可愛い子の目がうるうるじゃないですか!!」
グラストが暫く黙ってしまったので僕が固まっていたら、後ろから駆け寄ってきた家令とメイドが、グラストを揺さぶり出した。
はっとしたように、グラストが強張りを解く。
「……………嫌い?」
「い、いや、まさか!俺も、ゼノーシュのことは大好きですよ」
(…………!!)
僕は大慌てで残っているケーキを口いっぱいに詰め込むと、席を立ってグラストの側に近付いた。
体を曲げて頭をそちらに向ける。
「撫でる?」
「……そうだな。撫でても?」
「うん」
グラストは一瞬呆気に取られてから、ケーキのお代わりを頼みながら、僕の頭を撫でてくれた。
大きな手で頭をふわりと包まれると、いつも我慢出来ずに頬が緩んでしまう。
僕は見聞の魔物で、中堅だけど公爵だし、とても強い魔物なのに。
でも僕はグラストが好きだし、グラストに頭を撫でて貰うのが大好きだ。
もし人間達が言うように、イブメリアに特別な恩寵の贈り物があるとしたら、これかもしれない。
(白っぽいケーキを食べたし、グラストも僕が好きだし、頭撫でてくれたし!)
メイドはなぜか、バットごとケーキを持ってきてくれた。
勿論きちんとお皿に取り分けてから食べるけれど、これだと誰にも残りのケーキを取られないで済むからすごく嬉しい。
「有難う」
思わず、笑顔になってしまってお礼を言ったら、彼女は真っ赤になって首を振った。
「いいえとんでもない!全部お召し上がりになって下さいませ」
ケーキをお皿に取り分けてくれてから、家令のところに飛んでいって何か話していた。
聞いた話と違いますよ物凄く可愛いじゃないですかと喋っているので、とりあえず、やはり僕は人間の目から見ると可愛いみたいだ。
こんなものでグラストが大事にしてくれるなら、いくらだって頑張るのに。
「僕、食事はもうグラストのケーキだけでもいい」
「旦那様、もう一度クリームだけのケーキを作りましょう!」
「そうですよ、旦那様!!」
家令とメイドが、こちらを見て力強く頷いてくれる。
でもグラストは、きっぱりと首を振った。
「今夜は屋台で食事を摂るので、ゼノーシュにはあまり偏った食事をさせたくないんだ。万が一にでもこの先、身体を壊しても困るからな」
微笑んでそう言い含め、こちらを向いて微笑んだ。
「ゼノーシュ、クリームのケーキは次回にしましょう。貴方には、これから長い時間があるんだ。健康でいて貰わないと困ります」
その言葉に、僕は目を丸くした。
それはつまり、これからもずっと、グラストは当たり前のように僕の側に居てくれるということだろうか。
(僕たち契約の魔物は、いつだって思うんだ)
歌乞いと契約した魔物は、この世でただ一人、自分の願いを叶えてくれる相手を見付けた魔物だ。
恩寵を手にした、幸福な魔物。
だから僕たちは、いつも願う。
変わらずに側にいて。
僕たちを見捨てないで。
何処にも行かないで、ずっと側にいて。
どうか、置いて行かないでって。
僕は、あの日を覚えている。
偶然通りかかった国の小さな屋敷で、薄闇を引き裂くような誰かの悲鳴が上がった。
びっくりして目を凝らすと、その屋敷から真っ白な寝間着を着た綺麗な魔物が庭に駆け出して来た。
知っている子だったので、思わず腰掛けていた大きな木の枝から立ち上がった僕を、誰かが押し留める。
「ウィリアム様?」
慌てて臣下の礼を取ろうとした僕に、彼は微笑んで首を振った。
「ウィリアムで構わないよ。それと、もう彼女は助からない。近付くと、崩壊に飲み込まれる」
「崩壊………?」
僕は愕然として、鹿角の魔物を見た。
とても悲しんでいるけれど、何処も怪我はしていない。
死の予兆なんてどこにもないのに。
崩壊は、高位の魔物が滅びる際に、広範囲に渡ってその周囲に甚大な被害をもたらすことだ。
大きな大きな城が崩れれば、城下町も瓦礫に押し潰される。そんな感じ。
「歌乞いと契りを結んで、相手を殺してしまったんだ。恐らくもう、あまり長くは正気でもいられない」
僕は首を傾げた。
「どうして?歌乞いが有難いのは知っているけど、そんな風になるものなの?」
「男女の恋情として、魔物と歌乞いが関わることは少ないからな。ここまでの例はあまりないが、それでもこういうものだよ。娘を喪ったように苦しむ者もいれば、父を亡くしたように悲しむ者もいる。……今回は、自分の所為で殺してしまったんだ。考えるだけでも辛いな」
「………あの子、ウィリアム…を呼んでるよ?」
「俺が行っても、どうにも出来ない。……死者を生き返らせることは出来ないから。だが、彼女が殺したのなら、あの青年は亡霊として戻ってくるだろうに」
鹿角の魔物は、死者の王を呼んでいた。
恐らくもう、ウィリアムの言うように半分くらい狂気の底に沈んでいるのかもしれない。
時折正気に戻るのか、ばらばらと庭に出て来た人間達に、一刻も早く転移でこの国を出るように叫んでいる。
泣き叫び、慟哭して、綺麗な髪を掻き毟る。
彼女自身もきっと、自分が滅びることを知っている。
(独りぼっちにしないで?)
その叫びで、彼女の魂にひびが入るのがわかった。
人間達はもう姿を消していた。
二人程いた男爵位の魔物が、抗う人間達を連れて転移したのだ。
ウィリアムのように危険を察せる魔物がいたのだろう。
「死者の行列が現れたな。出来る限り、鳥籠は狭くしたいんだが……」
鳥籠の魔術は、王族にしか編めないものだと聞いたことがある。
意識を研ぎ澄ませて鳥籠を編むウィリアムの額には、うっすらと汗が滲んでいた。
公爵の魔物の崩壊に耐えうる鳥籠とは、一体どれだけの魔術なのか、僕には見当もつかない。
やがて、彼女が抱き抱えていた亡骸から、ふわりと亡霊が立ち上がり、彼女の正面に立つ。
若い人間の男性で、慟哭する魔物を抱き締めて悲しげに笑った。
その亡霊を見て、彼女の瞳には一瞬の正気が戻ったように見えた。
涙に濡れた顔で痛ましく微笑んで、わぁっと声を上げて亡霊を掻き抱く。
「………あ、」
僕は思わず声を上げた。
抱き合った二人が、ざあっと灰になって崩れ落ちる。
見えない衝撃波のような魔術汚染が広がって、あっと言う間に周囲を打ち倒し、町は瓦礫の山になった。
瞬き程の間に全ては終わり、魔術汚染に侵食された土地いっぱいに、真っ白な百合が咲いている。
どこまでも。
どこまでも。
(僕はあの日を覚えている)
今の僕には、あの日の彼女の気持ちがわかる。
だからこそ、グラストが口にした言葉は、僕にとって特別なものだった。
どれだけ願っても、どんな風に足掻いても、歌乞いの心を手に入れることが出来る魔物が少ないのも事実だ。
だから魔物はいつも、諦めて交渉上手になる。
一人にしないでと叫べたあの子は、とても幸せな魔物だった。
(グラストは、僕に長生きして欲しいの?ずっと僕の面倒を見てくれようとしてるの?)
目の奥が熱くなって、くしゃりと顔が歪んだ。
グラストが望むなら、僕はいくらだって健康でいるし、たくさん長生きする。
墓地で一人泣いていたグラストを一人にしないと誓ったから、多分グラストは僕より先に死ぬ。
僕は多分、グラストが死んでも崩壊まではすることはない。
だけど、もしグラストが、ずっと僕の側にいてくれるのなら、僕も一度だけ言ってみたい。
「わかった。僕、長生きする!グラストを一人ぼっちにもしない。………だから、グラストもずっと元気で側にいてね」
一度だけの憧れだから。
そう思ってその言葉を口にしたら、グラストは、僕をしっかりと抱き締めてくれた。