45. 歌劇場のイブメリア(本編)
夜になった。
禁足地の森の奥ではダイヤモンドダストが降るに違いない、濃紫の色をした素晴らしい夜だ。
降ったばかりの柔らかな雪で、夜の街は明るく照らし上げられている。
そこに昇ったばかりの大きな満月がかかれば、この情景だけで魔術の生まれそうな素晴らしい夜だった。
「ば、馬車が!!」
ネアが呆然とするのは、王宮の外に豪奢な馬車が横付けされているからだ。
特別な夜に転移では味気なかろうと、ヒルドがエーダリアの背を叩いて手配させたものらしい。
仕事で乗ったことはある馬車だったが、こうして個人的に使うのは初めてだ。
「いえ、子供の頃に観光地で、二頭立ての小さな馬車には乗ったことがありますが……」
「ネア、落ち着いて」
「八頭立てでもびっくりなのに、これは妖精の馬車ですよ?」
馬車を牽いているのは、妖精馬だった。
一般的に水馬が有名だが、雪深い土地には雪馬も住んでいる。
気性が荒めの水馬とは逆に、あまり活動を好まない馬であるそうなので、このように馬車を牽く雪馬など大変に稀少だろう。
御者台に座るのは、漆黒の燕尾服に黒い仕立ての良いコートを着た妖精だ。
まだ形が定まっていないらしく、家事妖精と同じようにもやっとした黒い霧のような姿をしている。
帽子を脱いで会釈され、ネアは慌ててお辞儀した。
「さぁ、行こうか」
「はい。宜しくお願いします」
ディノの手を取って微笑むと、何だかくすぐったいような不思議な気持ちになる。
まるで、女性なら誰もが憧れるような美貌の男性の手を取るような。
けれども、まるで家族のように安心する見慣れた穏やかなものに寄り添うような。
瞼の奥に、つい数か月前まで住んでいた我が家の面影が揺れる。
あの場所だって決して不幸なだけのところではなかったけれど、当然のように祝祭を祝う誰かなんて、どこにもいなかった筈なのに。
いつの間にかこんな場所を日常にしているのだから、人生はなんて不思議なものだろう。
「ディノのエスコートは優雅ですね」
「そうかな。髪の毛でもよかったけど、ネアは嫌がるからね」
「………本日は、公の場では禁止にします」
「………ひどい」
「代わりに今夜は手を繋ぎますよ!」
「………ネアは大胆だからなぁ……」
「なぜこっちを恥じらってしまうのか、私にはどうしてもわかりません……」
馬車が走り出すと、妖精馬とは言えお馴染みの、そして聞き慣れた物よりは少し硬質な蹄が石畳を打つ音が聞こえた。
馬車道の一部だけ綺麗に除雪されているので、小気味よい足音が響き、街の喧騒が聞こえる。
リーエンベルクから市街地までの真っ直ぐな道には、街路樹の全てがオーナメントと魔術の火で飾られ、星屑の道のようになっていた。
(……………魔術の火、よね?それとも妖精の光なのだろうか)
手を繋ぐ恋人達や若い夫婦、街路樹の飾りを見上げてはしゃぐ子供等、この道もまた特別な夜景スポットとして賑わっているようだ。
この道では屋台を出すことを禁じられている分、幻想的にイブメリアの空気を立ち昇らせている。
通りを抜けてゆく妖精馬の馬車を見て、通行人達はうっとりと微笑みを深めていた。
かつて人外者達に愛された北の王族が、この馬車を愛用していた頃より、雪馬の馬車を見た者は幸せになるという言い伝えが、古くからウィームにはあるらしい。
「ふふ。サンタクロースになった気分ですね」
「さんたくろーす?」
「私のいた世界でのイブメリアに相当する祝祭で、世界中の子供達に贈り物を配るとされた方です」
「ふうん。暇人なのかな……」
「それがお仕事の一つだった筈ですよ」
街に入るとまた、そこも別の星系の星屑の道のようだ。
ありとあらゆるところに火が灯され、イルミネーションのような淡く小さな結晶石が煌めく。
大きな獣の形をしたものや、リボンや星の形を象ったもの。
お店のショウウィンドウには、イブメリアの象徴であるモチーフが並び、歩道を歩きながらその品々を見ている家族連れが、ばさりと屋根から落ちる雪の塊を避ける。
前の世界でも見慣れた幸福さなのに、見たことのない奇妙なものがそこかしこに混ざり込む。
「ディノ、あの建物の影にいる、四角い生き物は何ですか?」
「パンの魔物だね。賑やかな土地を好むから、路地裏から出て来たんだろう」
「パンの魔物……」
パンの魔物なのに、パン屋さんや厨房に住んでいないのはなぜなのか。
なぜよりにもよって、路地裏に住んでいるのだろう。
茶色い四角形の生き物が、もさもさと歩道を歩いてゆく。
「あやつ、表通りに進出する気ですね……」
「よく人混みで踏まれてしまっているのが見付かるんだ…」
「悲しい話みたいになった!」
パンの魔物が後方に消えてゆき、その次は真紅のお仕着せのホテルマンが華やかな、ザハの建物を見送る。
更にもう一本の通りを越え、王立図書館の前を緩やかにカーブして、中心地から外側にある博物館通りに入れば、正面にライトアップされた歌劇場が見えてきた。
歌劇場の玄関には淡いシャンパン色の魔術の炎が煌々と燃え、各国の要人も訪れているのか、近隣諸国の国旗も見える。
大きく開いた入り口には、吹き抜けのホールに飾られた素晴らしい飾り木が見えていた。
「ディノ、歌劇場の前の小さな噴水が光っているのは何故ですか?」
「月や星の妖精が随分いるみたいだね。歌劇場から漏れ聞こえる音楽を、ああして水浴びしながら楽しむと聞いたよ」
「真冬に水浴びとは、頑強な妖精さんなのですね……」
歌劇場の入り口の階段には、真紅の絨毯が下まで敷かれていた。
見事なドレスの貴婦人が、見るからに高貴そうな男性と共に談笑しながら入ってゆく。
馬車が近付くにつれ、ネアはもう微笑みしか浮かべられなくなってきた。
雪景色の中に浮かび上がる歌劇場の屋根には、どう見ても小さな竜がいる。
ただの贅沢ではなく、これはお伽話の歌劇場だ。
とてつもなく自分に優しい、幸せというものの形に思えたから。
「さぁ、ご主人様」
馬車が止まり、歌劇場の案内係が扉を開けてくれる。
この夜の為だけに雇われた、美しい妖精の青年達だ。
「ああ、ここは私がご案内するから構わないよ」
前に訪れた時に会ったことのある支配人が、どこからともなく現れて、ネア達の前にいた妖精と交代した。
「ご来場いただきまして有難うございます。素晴らしい夜をお約束しますよ」
「宜しく頼むよ」
そう艶麗に微笑んだディノを見上げて、ネアは、大事な魔物が、時折纏う長命高位の揺るぎなさに見惚れた。
時々彼は、見事なくらいに魔物の王になる。
その証拠に、今夜の彼は擬態をして訪れたのに、支配人は以前より慇懃に腰を折った。
「今晩は、第一幕と第二幕の間に、夜の森の舞踏会の宴の幕を設けます。その間、皆様には主人公の少女と同じように、妖精や魔物達の歌や踊りをご覧いただきながら、晩餐を楽しんでいただきます」
「歌劇場で舞台の合間にお食事をいただくのは初めてなので、とても楽しみです」
「そう言っていただけると、準備に苦労した甲斐がありますな。今年はザハの料理人を借りておりますので、存分にお楽しみ下さい」
「まぁ。それはもう美味しい以外の感想が出てこないでしょうね」
「良かったね、ネア」
「はい。幸せが降り積もり過ぎて、そろそろ屋根が落ちそうです!」
一流の料理人であっても、味付けや盛り付けの好みが合わないことが往々にしてある。
以前訪れたウィーム郊外のレストランでは、盛り付けが斬新過ぎて途方にくれたし、ザハに並ぶ老舗高級ホテルでは、薄味過ぎてネアには物足りなかった。
ザハは、前回食事をしてみて、どれを食べても美味しいと感じて以来のファンである。
ディナーは二度目であるし、今夜は特別なメニューなのだそうだ。
「今晩は、座席の方にまで舞台が侵食しているのですね。わくわくしてしまいます」
「同じ森の中にいるような演出なのですよ」
案内された薔薇のロージェには、前回来た時にはなかった、美しい純白の蔓薔薇が壁を這っていた。
みっしりと花びらの詰まった重たいつぼみが、葡萄の房のように垂れ下がっている。
見下ろした観客席にも、足元に置かれた結晶石のぼんやりした明かりや、壁沿いに茂る木々の演出が施されていた。
飲み物の注文を聞き、支配人は一礼してロージェを出てゆく。
給仕として就く者も有能だからと言い残してくれたが、ネアとしてはもうそこまで見ている余裕などない。
重厚な赤い幕を下ろした舞台を見つめ、見事な天井画を見上げ、今夜のこの席を押さえてくれたディノに微笑みかける。
座席に着いたからか、ディノは擬態を解いて美しい真珠色の髪の魔物に戻っていた。
「ネア、椅子にするかい?」
「……いえ、ここではこの立派な椅子で十分です。ディノを椅子にするのは、リーエンベルクに戻ってからにしましょうね」
「二刻後か……」
「こんな素敵な夜なのですから、その早く終わらないかなという顔はいけませんよ。客席が暗転している時なら、髪の毛ぐらいなら引っ張ってあげますから」
「ご主人様!」
なぜ、この美しい魔物はすぐに変態寄りになってしまうのだろうと途方に暮れてしまったが、こんなに美しい夜なのだから、あまり深く考えるのはやめておこう。
早々に三つ編みを持たされ、ネアは座席に座って開演を待つことにした。
その間にも、劇場の中にはらはらと白い花びらが舞い落ちる。
やがて、客席が暗転し、歌劇場の中に雪が降り始めた。
(本物の雪?)
いつの間に花びらと入れ替わっていたのだろうと驚いて手を伸ばしてみれば、手に触れる直前で淡く光って消える。魔術の雪のようだが、本物にしか見えない。
風の音に揺れる木々の影。
そこに雪影が重なると、まるで、いつの間にか夜の森に放り込まれたみたいだ。
そうして、少女の冒険が始まった。
森を彷徨い、雪に埋もれた薪を探す。
やがて大きな湖のほとりで、不思議で奇妙な舞踏会に迷い込むのだ。
第一幕が終わると、水色の羽を持つ妖精の楽団が現れ、演奏を始めた。
これを合図に客席では晩餐の時間となる。
個室ではない客席では、イブメリア特製の金色の葡萄酒と、ホットサンドのような軽食が配られる。
しかし軽食と言えど侮るなかれ、この普段では決して食べられない天才料理人達の軽食というものも、毎年人々の注目の的となるのだ。
ネアの鋭い観察眼によれば、オレンジ風味の鴨サンドイッチと、貴腐葡萄酒でマリネしたチーズとサーモンに香草のサンドイッチ、後もう一つは、ローストビーフかステーキのサンドイッチに違いない。
「向こうのものの方が良かったかい?」
「いいえ。こちらのもので大満足です。ただ、あの軽食が毎年話題になると耳にしたので、観察して帰って、ゼノに教えてあげようと思いました」
薔薇のロージェに運ばれた料理は、更に見事なものだ。
小花模様に縁取りされたお皿に、小さな薔薇の花を添えた前菜は、軽く燻製して冬葡萄の木の香りをつけた生の海老と、キャビアのようなもの、牛のコンソメのジュレに白アスパラガス。
雪菓子を砕いて振りかけたとろけるようなチーズに、薔薇の形に整えられた透けるような生ハム。
フォークをつけるのが勿体無いくらいの、絵のような一皿だ。
それでいて少な過ぎることなく、食べにくくもない美味しさなのだから素晴らしい。
舞台では、美しい魔物の少女が歌い始めていた。
この歌劇場には魔術がかけられており、他の客席や舞台からは、ロージェの中は見えない。
ディノの配色が誰かを脅かす心配をすることもなく、安心して舞台に集中出来る。
食事が終わる頃、舞台では宴の演出が終わり、わっと拍手が上がった。
これからは、春の王と少女のターンだ。
いつの間にか、歌劇場に降る魔術の雪には、春らしい花びらが混ざり始めていた。
素晴らしい恋の歌が響き、少女は春の王から指輪を与えられる。
彼女は彼の指輪持ちとして、不遇の時代を終え春の王妃になってゆくのだ。
舞台の中央にあった飾り木がひときわ明るく輝いて、オペラは最高潮を迎えた。
「イブメリアの夜に!」
「イブメリアの聖なる夜に!」
わぁっと歓声が上がり、グラスを手に微笑み合う幸福な夜。
ネアも、ディノとグラスを合わせて持ち上げて微笑んだ。
香りの演出もあるのか、歌劇場は芳醇なイブメリアの香りに包まれていた。
林檎とスパイスに、花と葡萄の香り。
どこか懐かしくて、甘く豊かな香りだ。
「ディノ、素晴らしかったです!」
「私も、イブメリアにここに来たのは初めてだよ」
「見て、まだ花びらが降ってますよ」
「ネア、」
ふっと視線が翳った。
滲むような水紺の瞳に、はっとするような鮮やかな微笑みの欠片を見たような気がする。
甘く暗い密やかで男性的な微笑み。
その口付けを避けなかったのは何故だろう。
焦らすようにゆっくりと距離を詰められ、今回は決して避けられないものではなかった。
ただ、避けてしまうことがあまりにも不自然に思えて、ネアは動けなかった。
唇に触れる温度と、満足げにカーブした美しい唇の形。
顎に触れた手の温度、肌に伝わる添えられた指の形。
「………っ」
そんなものを意識したら、ぱっと頬に熱が集まった。
「真っ赤だよ、ネア」
顔を少し離して、首を傾げるようにディノが微笑みを深める。
真珠色の髪がさらりと揺れ、散らばった虹の色が複雑に目に残った。
買ったばかりのリボンではなく、ネアが一番最初にディノに与えたリボンをしている。
「今日だと良かったけれど、ネアの指輪はまだ付け替えの時期ではないからね。また今度更新しよう」
「………ディノ」
「うん?」
「このオペラによると、魔物は、伴侶にしか指輪を与えないそうなのですが……」
「そうだね。己の魔術と命を削る覚悟を以って、指輪を与えるから」
伸ばされた手が髪を撫でる。
ネアは少し沈黙してから、言われた言葉の意味を考えた。
(歌乞いと魔物は、死ぬまで寄り添う)
そう聞いていた。
だからつまり、これは死が二人を別つまでという言葉通りの関係なのかもしれない。
「死が二人を別つまで?」
「そうだね。死如きに別れを許すかどうかはさて置き」
「ふふ。私の魔物は強欲ですね」
「………わかってるのかな」
ネアがそう微笑むと、なぜかディノは少しだけ不安そうな顔をしたが、髪を引っ張ってやり頬に口付けを返せば、ぱっと目元を染めて恥じらった。
嬉しそうにそわそわしても、この魔物はとても美しい。
「ディノ、これは私からディノへのイブメリアの贈り物です」
「………私に?」
隠し持っていた小箱とカードを差し出すと、ディノは夜明け色の瞳を瞠った。
ほろりと零した純粋な驚きと喜びに、ネアはまた嬉しくなる。
「はい。開けてみて下さい」
真っ白な箱に、濃紺のリボン。
箱から出て来たのは月光の結晶石の小さなケースだ。
ぱかりと開けば、鈍く光る一つの宝石が白い天鵞絨のクッションに乗っていた。
カットが美しく透明度も高く、青みがかった暗めの灰色に菫色がところどころに混ざっている。
「これ、……もしかしてネア?」
「ええ。リノアールの職人さんに、私の髪から紡いで貰って育てた宝石です。宝石を育てる妖精さんには、そういうことが出来るんですよね。ディノがどんな装飾品を好むのかわからなかったので、今は石だけですが、その宝石店に持ち込めばどんな加工でもしてくれますよ」
ネアは、敢えて装飾品への加工までは行わなかった。
ブローチや髪紐、リボンへの刺繍に、指輪や腕輪。
個人によって身に付けやすい形は違う。
魔物のお作法もわからないし、そこは本人の好みに合わせようと、宝石を頼んだ店の妖精と相談し、予め前払いをしておき加工は後からとした。
「その宝石のケースが、指輪の箱のようでしょう?だから、今夜ここで渡そうと思って。注文を出すだけで作業してくれるようにしてありますので、好きなものに加工して下さいね」
「………うん」
指先の長い綺麗な手で、月光の結晶石の箱を大事そうに包み込む。
綻んだ口元の微笑みと、目の煌めきだけでとても喜んでくれたのがわかる。
カードまで読む余裕がなさそうなのが、また稚く可愛らしい。
(まったくもう、あなた達はこんなに長く生きるのに)
こんなに美しく、力に溢れているのに。
(こんな風に喜ばれたら、何でも与えたくなってしまうわ)
けれど、ここからが肝心なところだ。
この日の為にネアは、この魔物の困った習性にずっと耐えてきた。
この宝石は、贈りものであると同時に、その交渉の為の武器なのだ。
「だからディノ、もう私の髪の毛を集めてはいけませんよ」
「………え」
以前封筒に収集されているのを見つけてしまってから、どれだけ慄いたことか。
しかし、事もあろうに、ディノは傷付いたような顔でこちらを見上げた。
「発見した二個目の封筒は、すぐに廃棄します」
「そんな、ご主人様!」
取り縋られ、ネアは遠い目になった。
歌劇場には未だ拍手とイブメリアの豊かな香りが残っている。
それなのになぜ、この会話は終わらないのだろう。
「酷い……」
「そんな顔をしても駄目です!抜け毛を収集される、ご主人様の気持ちになって下さい!」
薔薇のロージェの床には、魔術の雪と花びらが積もっている。
イブメリアの歌劇場のその部屋には、暫くの間深刻な交渉の声が続いた。