43. 信仰の魔物の説得に入ります(本編)
見聞の魔物であるゼノーシュから手厚い情報が入り、信仰の魔物の居場所が特定されたのは、ネアの初参戦より二日後のことだった。
グラストとゼノーシュが関わっていた案件が、取り急ぎは問題なしと判断された為に、こちら側に力を割けるようになったのだそうだ。
場所の特定が出来たことで、通達を出してその土地に信仰の魔物を固定することが出来たので、ネア達もそちらに向かうことになる。
レイラが保護されたのはシュタルトの近くにある小さな村の聖堂だが、信仰の対象となる泉がある為に、中央から資金援助を取り付けとても立派な教会施設となっているそうだ。
人の出入りが少なく、施設が整っている場所を探したのだろうとエーダリアが溜息を吐いていた。
教会関係者が何やかんやともてなしている内に、村の周囲には頑強な魔術の檻が展開された。
ヴェルクレアのレイラの歌乞いも投入し、ひとまず逃走だけは止めた形だ。
しかし、帰って仕事をするように説得出来るかどうかは、またここからの問題なのだという。
よって、八人目の説得要員としてネアが現場に入った時には、信仰の魔物はとても不貞腐れていた。
「……ふん、お前か。私は、食指が動かないと言わなかったか?」
大きな薔薇窓から入ったステンドグラスの光が、白みがかった栗色の髪に踊る。
逆光になっても鮮やかな鶯色の瞳を眇めて、レイラはそう冷たく言い放った。
聖堂のよりにもよって祭壇のところに彼女は自堕落に寄りかかり、真っ青の美しいローブもくしゃくしゃにしていた。
しかし、そんな姿でも美しい魔物だ。
聖女と呼ばれるのは鹿角の魔物だけだが、レイラも充分にその言葉を体現出来る静謐な美貌である。
甘さの薄い凛とした美貌の彼女の背に、真っ白な翼をつけたらさぞかし似合うだろうなぁとネアは密かに考えながら近づいた。
聖王の真っ青なローブ、錫杖と聖典を手に現れるとされる信仰は、こんな背景にこそ映える美貌の魔物でもあった。
なお、信仰の魔物の歌乞いは、現在この空間にはいない。
今朝までの一昼夜の説得にあたり、我儘に振り回されてだいぶ寿命を削ってしまったそうだ。
高齢の歌乞いでもあるので、ガレンの魔術師に付き添われ、現在はシュタルトにあるホテルで仮眠を取っている。
信仰を喰らう魔物でもあるので、随分な苦行であったようだ。
大聖堂での顔合わせの際に、ネアを随分と買っていたようだと誰かが口にした結果、さして接点もないネアが八人目の説得要員に選ばれてしまっている。
ダリルの名前が挙がっていないところを見ると、選抜をした人物はレイラに好意的な御仁らしい。
「私は、その為の人身御供ではありません。どうしてウィームの大聖堂に戻りたくないのですか?」
レイラが他の魔物の進入を暴れて嫌がった一件があったそうで、この聖堂にはネア一人で入った。
しかしながら、レイラが暴れて悪さをしないように、極秘裏に魔術による枷がかけられているし、扉の向こう側にはディノもいる。
(枷と言うか、ほとんど肉体操作のような気がするけれど…)
現在の信仰の魔物は、魔物の王に勝手に魔術の書き換えをされた結果、とても無力な人間に擬態している状態に等しい。
信仰としての仕事をすれば気付いたのだろうが、残念ながら信仰の魔物はただゴロゴロしているだけだった。
「あんなところへなど戻れるものか。アルテアの治める国で、信仰としての務めを果たせだと?冗談ではない」
「個人的事情と仕事は別のものです。さっと終わらせてしまえば、こんな風に責められることもなくなりますよ」
「そなた達の思い通りになどなるものか!」
「困った魔物さんですね…」
「ここ数日、この国の信仰の希薄さと言ったらない。このような土地で祝祭など出来るとでも?」
「信仰を希薄にしたのは、当日に脱走されたことで信頼を欠いてしまったからではないでしょうか」
「アルテアをヴェルクレアの統括から外せば、考えてやらんでもないぞ」
「それは我々人間には関わりようのない決定です。アルテアさんは第三席だそうですので、上のお二人にご相談してみては如何でしょうか」
「私にそのような申し出が出来る筈がないだろう?!」
「では諦めては如何でしょうか………」
そこでネアは、レイラの足元に謎の灰の山が出来ていることに気付いた。
このような灰は前にも見たことがある。
妖精が死んだ後に残るものだ。
(…………どうしてそんなものが、ここにあるのかしら)
すぐにその理由は知れた。
おもむろににレイラが天井に向かって手を伸ばすと、ぽすんと灰色の塊が落ちてくる。
床に落ちて弾んだそれを、レイラが白い繊手できつく掴めば、握り締められた妖精が鋭く鳴いた。
「レイラさん、痛がってますよ?」
レイラが握っているのはムグリスだ。
どうやら巣でもあるものか、天井の方にたくさん潜んでいるらしい。
「潰すから良いのさ。手慰みだ」
「……………成る程」
一つ頷いたネアはつかつかと歩み寄り、指輪のある方の手で、ムグリスを掴んだレイラの手をばしりと叩いた。
「何をする?!」
ムグリスを取り落としたレイラは驚いて手を押さえ、ネアは転がり落ちたムグリスをそっと拾い上げた。
飛べるだろうと思い自分で巣に帰るように促したが、震えるばかりで羽を動かす気配もない。
「こういうことはいけません。この子は巣に戻してあげましょう」
「お前のような、特に美しくもない女にかける慈悲などないが、平伏しその妖精を差し出せば許してやろう」
余程不貞腐れているのだろう。
関係のない部分まで攻撃されて、ネアは微笑みを深めた。
鶯色の瞳を潤ませて手を押さえているレイラは、きゃんきゃん吠える小型犬のようで少し同情をそそらないでもない。
だが、足元の灰の山を見ると、可愛いとも言っていられなさそうだ。
「……お言葉ですが、レイラさんとてつるぺたです。私の方が勝っておりますが?」
「だだだ黙れっ!!黙れ、人間風情が!!!」
冷静に流せばいいのに、咄嗟にレイラは、自分の胸部を両手で覆ってしまった。
この一言で反応するくらいだから、余程気にしているのだろう。
実はこの弱点は、ダリルから教えられた交渉のカードの一つだった。
「つるぺたな信仰さんに、このもふもふの芳醇なムグリスを潰す資格はありません。もしや、膨らみへの嫉妬ですか?」
「黙れと言っただろう!!!」
顔を真っ赤にして手を振り回すレイラに、ムグリスを手にしたネアは冷ややかな目を向ける。
保護しているだけなのだが、ふくふくの毛皮は掌に最上級の手触りを与えてくれる。
ムグリス自身もネアが助けてくれたことを察したのか、一生懸命に掌に顔を埋めて丸くなっていた。
体が丸すぎて全然隠れられていないが、可愛さは満点を叩き出したので是非に守ってやろう。
恩を返すべく、増えない筈の魔術の祝福を与えてくれればもっといいのだが。
「狩りならわかります。狩りはとても残酷なもの。また、駆除や戦いのときも同じように世界は残酷です。しかし、ただの暇潰しの殺戮は、愚かなものではないでしょうか」
「私は魔物だ。お前とは違う」
「けれど、殺戮を気質とする魔物でないのを知っております。あなたが殺戮を主とする魔物さんであれば、私は止めません。でも違うでしょう?だからこそ、私はこの子を助けたんですよ」
「黙れ鼠色!」
「まぁ!私は、現在の自分の配色は気に入っているんですよ?」
ネアは大人なので、このような子供っぽい暴言に傷付くことはない。
だが、大人としての腹黒さを如何なく発揮して、信仰の魔物を強引に連れ帰りたくなった。
と言うか、説得役を任されたものの、若干面倒くさくなってきたのだ。
「………わかりました。今の暴言に、私はたいそう傷付きましたので、ディノに告げ口をします」
「…………なっ?!」
「そして、ダリルさんにも言いつけます」
「……………ダリルに」
「そして、今後信仰の魔物さんに奉納されるドレスは、胸元を強調する仕立てのものにするよう、教会の方達にお願いしておきます」
「…………胸元を強調」
信仰の魔物は、奉納品を欲する魔物の一人でもある。
毎年新年に目録が出されるその中には、香木や葡萄酒に代わり、近年は女性らしいドレスの要求も多々含まれるそうだ。
ネアが並べ立てた極悪な提案に、レイラは叩かれた手を押さえたまま唇を噛み締める。
射殺しそうな鋭い眼差しを向けたまま肩を震わせる様は、ダリルが、とても苛めたくなる逸材と称賛するにあたるだけの素質を、確かに持っていた。
「私は、平和主義者ですので、どうかそんな残酷なことをさせないで下さい。このままだと、面倒臭さに負けて、ふらっと先程口にしたことを実行してしまいかねません」
「ものすごい、安易に実行しようとしているだろう……」
「そんなことはありませんよ。せいぜい後十五秒くらいまで待てます」
「十五秒………」
結局、鶯色の目を瞠ったレイラは、わなわなするばかりで時間内に反応出来なかった。
小さく溜息をついたネアは、ムグリスを持ったまま入ってきた扉のところまで戻る。
手に毛玉を抱えていて重たい扉を開けられないので、コツコツとノックすると、すぐにディノが扉を開いてくれた。
「ネア、大丈夫かい?」
「難しそうですね。とても頑なになっていらっしゃるので、やはりダリルさんのように近しい方を呼ばないと無理そうです。もしくは、ヒルドさんに力ずくで引っ張っていって貰いましょうか?」
「私が向こうに入れておいてあげようか?」
さも造作のないことのように言われたので、ネアはそれでいいかなと思い始めていた。
通勤の自主性などどうでもいいような気がする。
まずは現場に放り込んでから、ゆっくり説得した方が手間が少なさそうだ。
「では、ディノ…」
「………………戻る」
背後から地を這うような低い声が聞こえた。
振り返ったネアの目に、ステンドグラスの鮮やかな色彩を背景に、ゆらりと立ち上がったレイラの姿が映る。
とても幻想的な光景に見えるが、職務放棄していた魔物が、嫌々仕事をしに行くだけの構図なのが残念だ。
「お仕事をする気分になっていただけたのでしょうか?」
「……勘違いするなよ。お前の脅しに屈したわけではない。我が君のご尊顔に泥を塗らない為だ」
「良かったです。理由は何でも構いませんので、では…………む?」
不意に、信仰の魔物の姿が掻き消えた。
驚いて声を上げたネアに、ディノがさらりと告白する。
「途中で逃げないように、大聖堂に放り込んでおいたから大丈夫だよ」
「最後の最後で、自首出来なかった犯人のようですね……」
「自分で戻らせるより、このくらいの方が立場がわかるんじゃないのかな?」
「世の中は無常ですね。そして、向こう側で受け取り手はいるのでしょうか?」
「アルテアとヒルドがいるそうだから大丈夫だろう」
「…………信仰の魔物さんの、心の平安を願うばかりです」
「ネアを傷付けたんだから、このくらい当然だよ」
ムグリスを返さないといけないので、まだ聖堂の中に留まったままディノを見上げた。
小さく微笑んだ瞳の中には、僅かに窺える冷やかな色が見える。
「もしかして、聞こえていました?」
「勿論」
「……ちょっと、信仰の魔物さんが不憫になってきました」
今頃彼女はどうしているだろう。
精神的な敵と、命を脅かしかねない敵に挟まれて、イブメリアまで心は無事でいられるだろうか。
祝祭の運行はすっかり停滞していたが、信仰が戻ればすみやかにイブメリアに歩みを戻すだろう。
しかしながら、イブメリア当日になるまでには二日はかかるだろうというのが、暦の観測機関でもある塔の見解だった。
(では、最低でも二日は、あの大聖堂で軟禁状態なのかしら……)
きっとその悲しさを知っている、送り火の魔物が良い相談相手になってくれるに違いない。
信仰の魔物のことはするりと忘れることにして、ネアは手の中のムグリスをディノに見せた。
「ディノ。この子が飛べないようなのですが大丈夫でしょうか?」
「………浮気」
思いがけない言葉に目を瞠って、ネアはディノを見返す。
「…………ムグリスですよ?真ん丸の鼠に見える、兎の妖精さんです」
「でもそれ、雄だよ」
「雄という区分の子に、そういう感情を向ける程に私は節操なしではありませんよ?」
「守ろうとしたのに?」
(……守護とか庇護とか、そういう、特別扱いの枠のものだと考えたのだろうか?)
なぜこんなことに拘るのだろうと思ったが、確かに前例のない状況ではあるようだ。
どんぐりの魔物にすら嫉妬するくらいなので、これは確かに気になるのかもしれない。
「目の前で拾い上げた小さなものなので、助けてあげたいと思います。特別な好意ではなく、人間が広く一般的に持ち合わせている善意の一つですので、深く考えないで下さいね」
「特別ではないんだね?」
「ええ。この子は妖精ですが、拾った子猫の身を案じるようなものですよ」
「………ならいいのかな。それも、自分の立場がわかったみたいだし」
「………え?」
ディノの視線を追えば、手の中のムグリスがぺしゃりと平べったく潰れていた。
しばらくその体勢で小刻みに震えながらみぃみぃ言っていたが、やがて羽を動かすとぶーんと天井に向かって飛んでいってしまう。
「飛べるようになったみたいで安心しました」
「………と言うより、特別扱いじゃないとわかって去ったんだろうね」
目を凝らしてを柳梁天井を見上げれば、梁と天井画の間のレリーフの部分に、鈴なりになっているムグリスの集団が見えた。
集団で集まると巨大な灰色の毛皮の塊のようで少し不気味だ。
「帰りましょうか?」
「うん。でもその前に、ネア、手を洗おうか」
「………徹底していますね」
魔物が決して譲ろうとしなかったので、ネアは聖堂の祭礼準備室を借りて、氷のような井戸水で手を洗う羽目になってしまった。
とても冷えたので手繋ぎの刑に処すしかあるまい。