侵略と鎮圧
「ネア、大丈夫?」
「………くっ」
その日、魔物にとても厄介なタイミングで部屋の中に侵入されたネアは、その姿のまま固まった。
着替え途中という愚かなタイミングではしゃいではいけないという、若干馬鹿っぽい戒めを心の中で呟く。
本日は乗馬の予定があるので、カジュアルな服装が出来る。
こちらにいる愚かな人間は、新しいセーターを下ろすのが嬉しくて、はしゃいで弾んだところ書き物机の椅子に激突し、諸共倒れたのである。
現在、ご主人様は床の絨毯の上で足の小指を押さえて悶絶していた。
因みに、着替えの初期である為、あまり着ていない。
人様にお見せできるような状態では、決してないのだ。
「………ディノ、問題ないので出て行って下さい」
「でも、とても痛そうにしているよ。ほら、見せて」
「私は着替え途中です!近寄ってはいけません!!」
「ネア、こういう怒り方すると可愛いよね」
「おのれ!」
慌てて床に落ちたセーターを拾い体を隠したが、何分にも生地面積が足りない。
「ちょっと!」
床に蹲ったネアの正面に腰を下ろされ、ついさっきまで両手で抱えていた方の足首をゆるりと掴まれた。
「ほら、赤くなっているだろう?」
「……ディノ、せめて何か着させて下さい」
「………ネア?」
さすがに下着は着けているが、残念ながら下だけだ。
その上半身をセーターで隠していると、下方位は無防備になるので、足首を掴んで足を持ち上げないで欲しい。
本当に着替えの一番宜しくないタイミングで事故が起きたのである。
ネアはあまり動じないたちとは言え、さすがにこれは羞恥で死にそうになった。
足元に座って負傷箇所を診てくれているディノは、中身は人懐っこい大型犬だが、見かけはどきりとするぐらいに凄艶な美貌の魔物なのだ。
この体勢は悩まし過ぎる。
「ディノ、お願いだから足を離して」
「これから治癒するから、少しだけ待ってくれるかい」
「私の服装状況を察して下さい」
「気にしなくても可愛いよ。ネアがこんな風に赤くなるのってあまりないよね。目も潤んでるし、すごく可愛い」
「それは羞恥で死にそうだからです」
「死なないように面倒を見てあげるから、ほら、足から力抜いて」
「……っ!」
もう片方の手でふくらはぎから太腿の方までするりと撫でられて、ネアはセーターを取り落としそうになる。
つい、引き戻そうとぐぐっと力を入れていた足から力が抜けて、難なく引き寄せられてしまう。
体育座りに近い格好で両手を塞がれた状態、そこで片足を引っ張られれば、勿論、腹筋の鍛え方が甘い上半身は背後に倒れる。
腹筋の可動域も低い哀れな乙女は、より無防備な状態で爪先を預けることになった。
(もう駄目だ、羞恥で死ぬ)
本当は顔を覆いたいが、そうすると上半身への守りが薄くなる。
せめてもう少し着ていれば、ディノはご主人様の一撃で沈められていた筈なのに。
「はい、終わったよ。ネア?」
「有り難うございます。そして、とても感謝しているのですが、今はこの部屋から消え去って欲しいです…………」
ようやく爪先を解放され、ネアは手負いの獣のように威嚇した。
視線で誰かを張り倒せる権能を得るとしたら、今この瞬間こそ具現化するべきである。
立ち上がると諸々無防備なので、何とか上半身は腹筋だけで引き起こし、座ったまま眼差しを険しくしたネアに、ディノは不思議そうに目を瞠った。
「立てないのかい?」
「ふぁっ?!」
膝裏と背中に手を添えられて、ふわりと抱き上げられる。
そのまま持ち運ばれて寝台の上に座らせられたのだが、何故に魔物を椅子にしなければいけないのか。
大切そうに抱きしめられ、ネアは猛々しく唸った。
「まだ、どこか痛いかい?」
「私は着替え途中です!解放して続きをさせて下さい!」
「でも立てなかったくらいなのに?」
「立つと着ているものが無防備なので、蹲って隠していたんです。こ、こらっ!横から手を入れて腹部を触らないで下さい!!」
「でも、ここを押さえておかないと、ネア逃げそうだから」
「私の精神の健やかさの為には、逃してくれるべき場面ですよ?」
「これで膝の上で暴れられるとちょっとくるな……」
途中でディノが非常に不穏な言葉を呟いたので、ネアはぴたりと動きを止めた。
「……ディノ?」
「ネアが、送り火を洗う時に布面積を小さくしたのわかるかもしれない」
「………私には毛皮はありません」
「何だろう、肌の温度?毛皮も肌も同じようなものなのかもしれないね」
(時間を置いて油断させてから来たか!)
送り火の毛皮に大はしゃぎして梳かした日、魔物はとても拗ねていた。
あの日の報復が今成されるとしたら、とんでもない執念深さではないか。
「あの日はディノを椅子にして交換条件を双方納得した筈です。今になって報復してはいけません」
「報復?」
「関連性がないならもっと駄目だった!」
この魔物は学習型の変態だ。
新しい厄介な体験をさせると、ご褒美として覚えてしまう。
しかしここで、寒くはないのだが、服をちゃんと着ていないという精神的な作用か何か、ネアは小さくくしゃみをした。
「……寒いのかな?……………早く服を着た方がいいよ、ご主人様」
「解放したまえ!」
「そうか。それで暴れていたのだね。…………少しだけ待っていて」
どうやらこれが正解の脱出方法だったらしく、ネアは、着替えのある部屋まで運搬されたもののすぐに解放された。
史上最速の早さで着替えを終えると、ネアはそこはちゃんと隣室で待っていてくれたディノのところに戻る。
「ディノ、ご主人様が着替えている最中に近付いてはいけません」
「でも、今回のように、その途中に怪我をすることもあるだろう?」
「……呼んだ時に限ります」
ネアは、しっかりと教育的指導を重ね、無防備な時には勝手に近付かないよう言い聞かせた。
魔物は不思議そうであったが、何とか頷いてくれたので、今回のこともわざとというよりは、種族的な倫理観の違いによって生じた摩擦なのだろう。
(なので、こうして躾ておけば、今後は安心だと思う)
しかし、その決定を容易く覆す事件は三日後に起きたのである。
「………っっ!!!!」
またしてもネアは、着替え中に転倒した。
今度は家具の角に無防備な背中を打って悶絶するが、大きな声を発することは出来ない。
うっかりディノが来てしまうからではなく、部屋の片隅に最凶の敵がいるからだった。
擦りむいてしまったのか、背中がじんじん痛むが、目は部屋の隅にいる敵から離せない。
何しろ、彼らは大変に俊敏であり、時折ジャンプまでするではないか。
ただでさえ、とても大きい上に、活動域がとても広い。
(き、着るもの……!)
ネアは、視界の端に天敵を捉えつつ、活路を探った。
あの生き物に素肌に張り付かれたら、確実に心が死亡する。
だが、後退りしてから転倒したので、着替えは、天敵の近くにある丸テーブルの上に畳んで置いてあった。
取りに戻るには、あの生き物との距離を詰めなければなるまい。
しかし、その選択が致命傷にならないとは言えないではないか。
手元にある武器は、背中をぶつけた机から落ちてきたヘアブラシだけだが、奮発買いをした高価なブラシなので、あの生き物に投げつけるのは凄く嫌だ。
二度と使えなくなってしまったら、そちらでも憤死してしまう。
その時、かさり、と敵が動いた。
「……っう?!」
ネアは、わたわたと手を彷徨わせて、何とか立ち上がる。
背中がびりっとしたので、負傷確定だ。
現戦力は最低だが、とにかく戦う準備をしなくてはならない。
本日は幸いにも、水着程度の布面積はある。
「……ネア、すごい音がしたよ?」
その時、前回の教育をすっかり忘れてくれたのか、普通にディノが入って来た。
「………!!」
涙目でブラシを構えたご主人様から、必死に敵の方を指し示され、おやと眉を上げる。
「手紙だね」
「………蜘蛛ではなく?」
「蜘蛛の形に折ってあるから、蜘蛛みたいに動くんだ。…………誰からかな」
「お、お手紙が読めなくならない程度にくしゃっとして下さい!蜘蛛を解除して下さい!!」
「わかった」
ディノはいとも容易く手のひらサイズの蜘蛛に近付くと、摘み上げて折を崩してくれた。
広げられてただの四角い紙になったそれをひらりと振って、ディノは小さく笑った。
「アルテアからのようだね。季節の挨拶だ」
「単純に嫌がらせですね!次に会った時に、陰惨な報復をします……」
暗い瞳でそう誓いながら、ネアは着替えのところまでよろよろと辿り着く。
背中がびきっとなり、小さく呻いた。
「ネア?背中をどうしたんだい?」
「驚きのあまり、転んで背中を打ちました。負傷したかもしれません」
「見せてご覧」
すぐに捕獲されて、背中を確認させられた。
そっと手のひらが乗せられ、その触れた温度にほっとする。
じわりと魔術が染み込めば、ひりひりとした痛みが遠ざかった。
「来てくれて有難うございます。まさか、お手紙だとは思いませんでした」
「ご主人様に怪我を負わせたんだ。きつく叱っておこう」
さらりと髪が触れる感触がして、傷が癒えたらしい背中に口付けされる。
何やらどさくさに紛れて過剰に甘えられているようだが、あの生き物からの救出の後なので、もはや何でもして差し上げるの精神である。
「気付いて良かったよ」
「ディノ、この前の着替え時の接近禁止令は取り下げます。緊急時には、速やかに助けに来て下さい」
「わかったよ、ご主人様」
ネアは、こんな事態になったことを呪いはしたが、まさか自室にこんな危険が潜んでいるとは思ってもいなかったので、作戦の変更も止むを得まい。
トラウマから着替え時に気持ちが焦り過ぎて、その後、二度程足が攣ることになるネアだが、その時はただ安堵の息を吐いていた。
「ところで、ディノ。そろそろ離して下さい」
早く着替えたいと解放を要求すれば、ふわりと意味深い微笑みを向けられた。