真夜中の思い出
目を覚ますと、誰かが寝台に腰掛けている。
苦味のある果実の香りに、その奥にあるほんの僅かな煙草の香り。
三つ揃いのスーツは、チャコールグレー。
「………ジーク?」
なぜその名前を呼んだのだろう。
恐らく夢だと思っていて、それならば一度くらいこうして会うのもあり得るかも知れないと考えたのか。
もそりと起き上がると、手袋に包まれた手にわしわしと頭を撫でられた。
「………まだ夜明け前だ寝ていろ」
「む。………誰だ」
「ほら、さっさと寝ろ」
声にからかいはなく、穏やかに柔らかい。
微かな苦笑を滲ませて、包み込むように笑いかける。
庇護に手慣れた者のようにするけれど、記憶の中の名前と一致させれば、果たして穏やかなのだろうかと首を捻る。
「アルテアさん?……ここにいた、私の魔物はどうしました?」
「野暮用だ。俺はたまたま近くにいたからな。臨時の護衛として引き摺り込まれた。もう数分もすれば帰ってくるだろ」
「長くいらっしゃったのですか?」
「いや、まだ来たばかりだな」
変な時間に目が覚めたので、真っ当に話していても、ふとした時に瞼が下がりそうになる。
(でも、ディノがこんな時間に出て行くなんて、何があったのだろう)
それも、交代の警備を置いて行くだけの慎重さはどんな理由だろう。
「………アルテアさん、香水つけてますか?」
「いや、魔物はつけない。元々、魔術には香りがあるからな。人間に擬態していれば、試すこともあるけどな」
「……そうでしたか」
ぼんやりした視界の中で、アルテアが鮮やかな色の瞳を細めた。
強い色彩なので、滲む色が尾を引くようだ。
「……さっき呼んだ名前は?」
「………名前?」
「……ジークと」
「…………寝ぼけていたのかもしれませんね。服装が少し、アルテアさんに似ている方でしたから」
「それは、」
何かを言いかけて、言葉を飲み込んだアルテアが、なぜか小さく笑う。
前髪を搔き上げ、軽く溜め息を吐いた。
「寝台で呼ぶような名前だ。恋人だろ」
「いえ。そういう方ではありません。恋はしていましたが、片道通行です」
「ふうん。そいつはどうしたんだ?」
「もう亡くなっていますよ。そもそも、こちらの世界の方ではないですし」
「そんな程度の男の名前を呼ぶか?ある程度の由縁はあったんだろう」
よく回らない頭で考える。
由縁と言えば由縁はとてもある。
しかしそれは、個人的な繋がりではない。
「……………薔薇を貰いました。真っ白な薔薇のギフトボックスです。目が覚めたら私の病室に置いてあって。……不思議ですね、あの時にはもう、彼は、私が自分を殺すと知っていた筈なのに」
ネアはあの後、残された檸檬の香りを辿って、病院のスタッフに見舞い客のことを尋ねた。
その時は知らないと首を振られたけれど、後日、医師たちが噂話をしているのを聞いたのだ。
ネアを見舞ったのは、やはりジーク・バレットであったらしい。
真夜中に訪れ、二時間も滞在していたそうだ。
そして、花を残して医療スタッフ達に口止めをして帰っていった。
何か厄介な事をされたかと思ったが、特にその気配もなく、それ以上は何の接点もなかった。
それ以外に、何か個人的な由縁と呼べるようなものなど何もない。
病院の支払いを自分に回すように言ってあったそうだが、それはネアが辞退して自分で支払いを済ませた。
(そして私は、なぜそんなことをアルテアさんに話しているのかしら)
それも不思議だったが、ただその場所に居ただだけの誰かに、こんな話をすることもあるのかもしれない。
そう思ってしまうくらいに夜は静かで暗く、けれども穏やかだった。
「それでもと思う事もあるだろう」
「かも知れませんね。複雑そうな人でしたから。アルテアさんにも、そのようなことがありましたか?」
「いや、俺は基本的に手に取るか捨てるかのどちらかだ。適度に楽しむが、そこまでの証跡は残さない」
「………まぁ。証跡を残さないという言い方が酷い奴感満載ですね」
「さてな」
それでも、考えを巡らせるくらいには、彼も心の織りの複雑さを知っているのだろう。
口には出さないだけで、心を残した想い人がいるのかも知れない。
だとしたらきっと、とびきりの美女だろうなとネアは思った。
眠気に負けて、ぼすんと枕に倒れ込む。
小さく唸り声を上げて、睡魔に勝てない不甲斐なさを天に呪った。
「呻いてないで寝てろ。シルハーンも、すぐに戻ってくる。それと、そこの毛布の山は片付けておいたぞ」
「…………え、」
さっと血の気が引いた。
眠気も消え失せて、ネアは慌てて飛び起きる。
蒼白になった確認した先では、昨晩ディノが組み立てたばかりの巣が、綺麗に畳まれて控えの椅子の上に積み上げられていた。
「洗い物はきちんと使用人に出しておけ」
「………アルテアさん、私は知りませんよ」
不穏な低い声に、アルテアは目を瞬かせる。
勘がいい男なので、嫌な予感を察したのだろう。
「………あの毛布に何かあるのか?」
「あれはディノの巣です。せっかく洗いたての毛布で組み立てたばかりなのに」
「………は?………巣?!」
ぎょっとしたように解体してしまった毛布を眺めてから、アルテアはもう一度首を振った。
「巣ってなんだよ。魔物は巣作りなんてしないぞ?!」
「火箸の魔物さんは、藁で巣を作るそうですよ」
「火箸の魔物は、鳥だろうが。人型の魔物は寝台で寝る」
「でもあれは、うちの魔物の巣だったんです。ドーム型に積み上げて、中に包まって寝ています。色や重ね具合など、独特のこだわりがあるので、私とて容易に触りません。昨日洗濯に出したのも命がけでした」
「…………巣?」
もう一度呟いてから、アルテアは頭を抱えた。
異文化に出会ってしまったとき、こうなってしまうのはよくわかる。
ネアとて、ディノとの遭遇は最初からこうだった。
「前から思っていたのですが、ディノは人型でも他の人型の魔物さんとは違うのでしょうか?」
「………そりゃ、最高位だから色々違うだろうが、それとは別の問題か?」
「巣作りの習性がありますし、打撃諸々を好みます。甘え方も犬寄りですし、あまり人型としての羞恥心もなさそうですし」
「……………最後のやつは何だ」
「私の入浴中に、ちょっとした用事で顔色一つ変えずに侵入して来ることがあります。叱っても不思議そうにしているので、確信犯ではなさそうですね。それに、時々せがまれて髪の毛を洗ってあげるのですが、人前で脱ぐことに羞恥心もなさそうです。最初、全部脱がれそうになったので、行動不能にせねばなりませんでした」
「前半はもっと叱っておけ。後半については、高階位の者は、入浴も使用人に任せることに慣れている。その範疇じゃないのか?………行動不能?」
俺は入浴中に他人を近付けるのは嫌だけどな、とアルテアが付け加えたので、ネアは彼にも入浴の文化があることを知る。
基本的に生活の範囲では汚れない魔物は、汚れた場合のみの洗浄という行為以外で、あまり入浴するような習慣はないらしい。
あくまで入浴は、嗜好の範囲なのだ。
「確かに、エーダリア様は、王子時代には人の手を借りての入浴に慣れていたそうですし、以前に出会った風竜さんも私に手伝わせようとするぐらいに、一人ではお風呂に入れない子でした。でも、ディノは入浴自体は一人で出来るので悩ましいですね」
「その風竜は、きちんと躾けたんだろうな?」
「ウィリアムさんが育てた子でしたので、その発言の直後、育ての親にどこかに連れて行かれました」
「………風竜は、王宮とハレムを持つ竜だ。まぁ、あながち想定外ではないが」
「そうみたいですね。いつもはハレムのお妃様達か、或いは使用人の誰かが洗ってくれたそうです。でもあのままでは生活に支障をきたすので、きっとウィリアムさんが躾けて下さったのでは」
「さすがに入浴の訓練はしないんじゃないか………」
「でも竜ですよ?湖や池に放り込んで、綺麗に水を払えばある程度どうにかなるでしょう」
「…………お前の竜に対する評価が良く分かった。シルハーンの羞恥心については、人間の王族のそれとあまり変わらないだろう。城に世話係がいたんだろ」
「まぁ、王様ですしね。そうなのかもしれませんね。………そして、巣の一件は、きちんと謝ってあげて下さいね。私は寝ます」
「………は?」
話しながらネアは、多少なりの計算をしていた。
その結果、やはりこの毛布の惨状に関わったと見なされないようにする為には、この一件に丸ごと関わらないようにしようと結論を出したのだ。
アルテアには、是非一人でディノと向き合って貰おう。
勿論、そのネアの決意を感じ取ったのだろう。
慌ててネアの毛布を剥ごうとして手を伸ばしかけたアルテアは、その状態のまま固まった。
「アルテア?」
いつの間にか、部屋の戸口にディノが立っている。
ふわりと微笑んで首を傾げているが、目は、寝台のネアに伸ばされたアルテアの手を見ている。
そこでふと気付いたのか、積み上げられ片された毛布の山に視線を向けた。
「…………巣がない」
もう一度視線を戻された先のアルテアは、頭を抱えていた。