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ディノ・シルハーン



その屋敷には、古い楓の木があった。



瀟洒な洋館は老朽化が進み、手入れが必要なまま朽ちてゆく庭と家は淡く悲しい。

美しく咲き誇った花の終わり、そんな屋敷に彼女は一人で暮らしていた。



彼女の両親は、彼女が成人した直後に事故で亡くなっている。

決して豊かではない収入で維持するには、いささか大き過ぎる屋敷だった。



「今年の雪は、もう大丈夫かな」


屋敷を手放さないのは、そこにあるものだけが幸福の時代の象徴だから。

姿を変えて維持が可能な私財よりも、彼女は、家族で植えた庭の楓を愛した。


枝に手を伸ばして、昨晩の最後の雪を払う。



黙々と働き、夜更かしして本を読み、一人の夜には過ぎる料理を時折作り、寂しげに苦笑する。

香りのいい風呂に入り、髪を乾かさないままとてもよく眠る。


その屋敷はまるで、彼女の繭のよう。


蓄えを削り困窮を覚悟で旅をして、頭を抱えたり、友人と食事に行き、一人で観劇を楽しみ、またひっそりと質素な繭に帰る。


一人で過ごす世界は孤独だが、彼女は決して不幸なだけでもなかった。


古い屋敷で完結したまま、閉ざされた静かな箱庭。




その静かな孤独と幸福になら、触れてみたいと思った。



わかりやすい幸福に背を向けてあの箱庭を愛した彼女であれば、この手のかかる存在を受け入れてくれるのではないかと。



初夏の霧深い夜明けの庭に、微かな陽の光を透かして霧雨が降っている。


お気に入りのピアノの曲に、一人きりの朝食。



ごめんね。

君はもう、その箱庭には戻れない。




「ディノ。そのリボンがお気に入りなんですか?」



彼女が、他の魔物に買い与えたリボン。

この世界でもまだ、私はあの庭の楓にはなれないのかもしれない。


指先でリボンの皺を伸ばし、唇に微笑みを乗せたまま長い髪を結び直す。


でもこれは、彼女が買ったリボンなのだ。



「ふふ、髪の毛の後ろ側くしゃくしゃですよ?結んであげましょうか?」


「………結んでくれるのかい?」


「まずは、櫛という道具があることを、知ることから始めましょうね」

「櫛は嫌いなんだ。手櫛で梳かして欲しいな」

「我が儘の助め!」

「…のすけ?」



あまり代わり映えのしない表情のまま、ネアはそれでも指先で髪を梳かしてくれる。


甘やかされているようで嬉しい。


ゼノーシュの髪は頻繁に撫でるくせに、いつもは、滅多に自分から私に触れてはくれないのに。



「紺だとちょっと強いですね………」



けれども途中で、一つしかないリボンを取り上げられそうになって怯えた。



「…………これはあげないよ?」

「そもそも、それはディノのものではなかったのですからね?」

「でも、………」

「ディノの髪に似合うような、もっと淡い色のリボンを買いましょう。淡いセージグリーンと、淡いラベンダー色、どちらが好きですか?」



確か店頭でその色の在庫を見た筈と呟いているネアに、驚き過ぎて返事が出来なくなった。


「あんまり目の細かくない木櫛か、ブラシみたいなものも欲しいなぁ。後は、髪用の飾り紐もあれば……」



ネアから、この容姿を目立たないように擬態出来ないかと訊かれたことがある。


本当は可能だけれど出来ないと答えたのは、初めて出会ったあの夜に、しばしの間この姿に見惚れていた彼女を、印象深く覚えているから。


今更下位の魔物になれるわけでもなく、彼女を手放せるわけでもない。

だからせめて、彼女が見惚れた容姿は死守するつもりだ。


その努力が実を結び、リボンを買って貰えるかもしれない。



「何でもいいから何か買って。とても大事にするから」



思わず声を弾ませてそう伝えると、なぜかネアは遠い目になった。


「まぁ。見事なる犬の発言ですね……」




後日、ネアは二色のリボンを買ってくれた。



共用だということで、ブラシも購入したらしい。

そこは、無駄な出費を押さえてかかったようだ。

誰かと道具を分け合うのは初めてなので、とても良い気分になった。



「本当はね、どれだけの贅沢も強請れば叶えてあげられるし、どんな困難な命令にだって従うのだけどね」



そう言えば、ネア命名のクッキーモンスターが、一つ溜息を吐く。



「でも、ネアが働いた彼女のものの給金から、彼女が選んで買い与えてくれたリボンの方が、特別に尊く思えたでしょう?」


「そうなんだ。不思議だね」



今までは他の魔物が、私に、私の望まない言葉を与えることはなかった。


望めばそうなり、望まなくても道筋は整えられた。

それが、理を司るというものの日常。



(私と普通に会話出来たのは、過分に白を持つあの二人くらいだったかな…)



階位の近しい者はいるにはいたが、気質が合うわけではなかったので、会うことは非常に稀だった。

そして、階位が近くはないものの側にいた者達も、もういなくなってしまった。



だから、こうして他の魔物と普通に会話していられるのは、ネアのお蔭なのだ。



『あなたの、純粋培養的暴君要素が心配なので、一つ命令をしましょう』



最初の夜、ネアがそう宣言したから。


『息を吸うように、他の魔物を思いのままにしてはいけません。どうしても必要なときに、きちんと考えてから力を振るうこと!』




あの夜の私は、君を手に入れて自由になった。



そうすれば良かったのだとか、そんなことが出来るとも考えつかなかったのだが、やってみたところ出来たのだ。



だからね、ネアハーレイ。



君のお願いは、何でも聞いてあげよう。

どんな残酷なことも。

どんなはしたないことも。

どんな理不尽なことも。

私は、君の要求のその全てを、心から愛しく思う。

でも、この契約は手放すことだけは許さない。



例えもし、それで君の心が離れても。



あの庭の楓は、どうなっただろう?


住む者のいなくなった屋敷は朽ちただろうか。

歪めた理は、彼女という人間の存在の記憶さえも、あの世界から削ぎ落とした。




あの庭の楓には、一人の美しい精霊がいたことを彼女は知らない。

当然のように彼女に微笑みかけられ、彼女の箱庭に守られていた楓の精。


だから私は、あの世界から失われた彼女が自分の腕の中にいることに、とても満足している。





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