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サラフ



その日、ウィリアムが連れ帰ってきた人間は、歩く武器庫のような女だった。


風の手を使って石壁に叩きつけるまでは、紙のように軽かったのに。

そう考えて、その瞬間に瞠られた瞳の無防備さが、ふと脳裏をよぎる。


きっと、誰かに傷付けられることなんて、考えたこともないような女なのだろう。



何とか椅子のところまで移動してから、服を捲り、傷を負わされた足の状態を確認する。

赤黒くなった皮膚の様子から、打撃を与えられた瞬間には骨が折れていたのだろうと推察した。

竜の多くは治癒に長けている。

この程度の傷であれば、数分もすれば癒えてなくなるだろう。


片手で触った逆鱗はそうはいかない。

皮膚から浮き上がって歪んだ鱗の端が癒着するまでには、一週間はかかる筈だ。


「………くそ」


腕から引き抜いた鱗の一枚を首当てに変化させると、逆鱗の周りを保護する。

これで次に遭遇しても剥がされまい。


幾つか回廊を渡り、人を泊まらせることが出来る程度の部屋を見て回ったが、先程の人間の姿はなかった。

念の為に地下牢も見てきたが、やはり見当たらない。



そうこうしていると、上の階で湯気を立てているカップを手にしたウィリアムに出会った。


「お、サラフ。動けるようになったな」

「……あいつはどうしたんだ。捨ててきたのか?」

「彼女は、俺の知り合いの魔物の歌乞いだ。彼の手元に戻すまで保護することにした。間違っても、さっきみたいな真似はするなよ?……返り討ちにされそうだけどな」

「………あんなものをこの城に置くのか」

「気の毒な子だよ。魔物同士の諍いに巻き込まれて、ここに落とされたらしい。祝祭の前夜で楽しみにしていたところを、いきなり戦場に落とされたんだから」

「ふん。何の苦労も知らない人間か」



そう嘲笑すれば、ウィリアムは僅かに首を傾げた。



「そうかな。あの子からは、随分と濃密な死の気配がするぞ。十や二十ではない。多くの血で手を汚したからこその気配だ」

「……そうなのか?」



それは、想像もしていなかった言葉だった。

あの自分で着替えすら出来なさそうな女が、自らの手を汚している?




竜の姿に戻り、高台からその部屋を見ていた。


ウィリアムがいなくなると、女は何度か大きく息を吐いて目尻の涙を拭う。

両手を握りしめると背筋を伸ばし、奮起するかのように力強く頷いていた。



「敵を駆逐して、すぐに帰りますからね」



そう呟いた声には弱さはなかった。

ひそやかに微笑んだ表情のしなやかさに、見慣れないものを見た驚きに目を瞠る。



竜は強いものが好きだ。

そして、珍しいものを収集する。



「お前は、誰かを殺したことがあるんだな」


風呂上がりのところを捕まえてそう声をかけると、彼女は目を細めてこちらを見た。

なぜか、目尻や腕と、鱗のあるところばかり見てくる。

あまりにも鋭い眼差しなので、思わずその部分を手で覆った。



「どうしてサラフさんが、こちらにいらっしゃるのでしょう?この階層には害意のある方は入れないようにしたと、ウィリアムさんから聞いていたのですが」

「……ウィリアムから、お前には手を出さないように言われている」

「ここは浴室控えの部屋です。襲撃でなければ、……もしや、覗きでしょうか?」

「………は?」


大真面目に尋ねられたので、つい絶句してしまった。

その途端、彼女の目が冷ややかになる。


「乱暴者の上に、そのような卑劣なご趣味をお持ちだったのですね。私の竜に対する憧れは砕け散りました」

「お、おい待て!ふざけるな!!」

「ふざけておりません。そもそも、この状況で弁明が通るとでも?」

「………は?」


その言葉にまじまじと彼女を見て、彼女が身につけているのが大判のタオルだけであることに今更気付いた。

よく見れば、上等な灰青の髪はまだ濡れている。



「い、いや待て!待ってくれ!誤解だ!俺の祖国ではそのような人間の装束があるから、本当に気付かなかっ…」

「サラフ……」


両手を上げて必死に弁解していたら、背後から聞いたこともないような低い声が聞こえた。

ばっと振り返ると、柔和な微笑みを浮かべたウィリアムが立っている。

しかし、目は全く笑っていない。


「待て!誤解だからな、ウィリアム?!」

「すまない。この馬鹿は回収していくから、安心してくれ」



その部屋から摘み出され、引き摺り歩くウィリアムが深い溜息をついている。


「サラフ、もし竜の求愛で気に入ったとしても、浴室に忍び込むのは駄目だ。それに、あの子にはもう魔物の指輪がある」

「なっ!求愛ではないぞ?!」


竜の求愛は、相手と戦い打ち負かした者がその竜を手に入れる。

強さにこそ価値を見出すものだが、そもそもあれは人間であって竜ではない。

身に纏うケープからは竜の気配がしたが。


「求愛でなければ、ただの屑になるぞ?」

「だから言っただろう?あのような状態だと気付かなかったんだ!それに、あの女も悲鳴一つ上げなかったではないか!」

「いきなり浴室に侵入されたら、悲鳴を上げる事も出来ないくらい怖かったとは考えないのか?」

「………怯えていたのか?」

「君は人間を知ってるだろ?普通に考えてくれ。彼女は育ちの良いお嬢さんだ。あんな風に肌を晒すのも初めてだろう」

「そ、そうか」


認識してしまうと、羞恥にじわじわと熱が上がった。

力で求愛する竜であれ、未婚の女性をこのような形で辱めるのは卑怯とされる。

ましてや長である自分が、このような卑劣な罪に手を染めるとは思わなかった。


「すまぬ。本当に気が回らなかったのだ。このことに関しては、後程きちんと謝罪をしよう」

「かなりご立腹だろうから、くれぐれも鱗には気を付けてくれよ」

「逆鱗は保護してあるが……」

「他の鱗もだ。さっき彼女から、竜の鱗は高値で売れるかどうか聞かれた」

「………本当に魔術可動域は六なのか?」

「俺も気になって調べたが、寧ろぎりぎり六だ」

「蟻より弱いんじゃないのか?」



死の王は忙しいらしく、排除が済むとまた姿を消した。

確かにこの国は死にかけている。

終焉の交通整理は、さぞかし忙しいだろう。

そう考えると、あの娘の食事はどうするのだろうと少し不安になった。


人間はしたたかだが、脆弱な生き物だ。

餌を与えなければすぐに死んでしまった筈で、遠い昔に知っていた人間の王も、暇さえあれば何か食べていた。



(……謝罪を兼ねて、餌でも与えてやるか)



人間は何を食べていただろう。

ここに人間の街があれば話は簡単だが、死者の行進が済んだ後の地には、食べ物の商店など残っていない。

店などがない野営の場合は何を摂取していたのか、また遠い昔のキャラバンの商隊を思い起こした。

かなり朧げな記憶だが、水や肉を食べていたような気がする。



(鍋のようなものも持っていたな)




「………今度は嫌がらせでしょうか」


さっそく、狩ってきた獲物を彼女の部屋の前に置いてくると、扉を開けるなりそう呟かれた。


血で汚れないようにする為か、再び身に纏った白いケープの裾を遠ざける。

ああ、これはこの女の鎧なのだなと考えたら、一人異国の城で眠るのはさぞかし恐ろしいだろうと思った。


子供だった頃、人間の戦乱で焼かれた家族の亡骸を葬い、砂漠に埋もれかけた宮殿で一人眠ったことがある。

あの夜は、次々と訪れる亡者の声に魘されて一睡も出来なかった。



「鍋も持ってきてやったぞ。調理しろ」

「……なんて厄介な竜でしょう。私は料理人ではありませんよ?」

「だが、餌ぐらい作れるだろう」



人間の料理など知らない。

困惑してそう付け加えると、彼女は綺麗な手を額に当てて大仰な溜息をつく。



「料理人もどこからか調達してこいということか?」

「罪を重ねないで下さい。……このままでは調理は出来ません。皮を剥いで、身の部分の肉だけを切出してきて下さい。私は玄人ではないので、頭部や内臓はいりませんし、そちらの爬虫類は食べません。それから、野菜とバターと調味料も必要です」

「………注文が多いな」

「黙りなさい、覗き魔。あなたに文句を言う権利はありません」

「………わかった」



それ程に罪が重いと言いたいのだろう。

何でこんな目に遭うのかと舌打ちを堪えて、再び翼を広げる。

遠ざかってゆく窓から、溜息を重ねて純白のケープを脱ぐ姿が見えた。

無防備なので、城の周りを更なる結界で固めておく。

ウィリアムのものがあるが、これで重ねて安全になるだろう。





「……仲良くなったんだな?」


仕事を終えて戻ってきたウィリアムは、こちらを見て驚きの表情を浮かべた。



「この方は、空腹で気が立っていたようです」


ネアがそう説明するが、意味がわからずに首を傾げた。

スプーンが皿の底に当たったので、空になった皿をまた差し出す。

彼女は小さく溜息をついて、シチューを注ぎ足しに行った。


「サラフ?どうしてこうなったんだ?」

「知らん。詫びも兼ねて餌を与えてやったら、俺に食わせてきた。料理は上手いぞ」



あの後、言われた通りに肉を切り出し、その辺りで放棄されていた畑から、地中に残されていた野菜を集めてきた。

調味料やバターとやらは少し苦労したが、敗走準備をしていた教会兵の部隊を襲ったら手に入った。

司祭が美食家だったのが幸いしたのか、様々な香辛料と新鮮なミルクやチーズ、穀物の粉類も手に入った。


それらを持って帰ると、城の厨房に調理器具を掘り出しに行く手伝いをさせられ、準備が整えば今度は、野菜の洗浄や鍋の管理などを任せられる始末だ。


あまりにもこき使われるので、少し威圧してやろうとしたら、鍋をかき回しながらあまりにも残虐な謳いを向けられ、膝が崩れそうになった。

驚愕の目で見たら、素知らぬ顔で楽しそうに口ずさんでいる。


魔術可動域は低くとも、この女は唱歌の技術を、武器として磨き上げていたようだ。

仕方がないので、テーブルに鍋を運ぶところまで全てを手伝うしかなくなる。


「やれやれ、食いしん坊ですね」


そう言われた渡された四杯目のシチューを食べながら、ずっと気になっていたことを口にする。


「お前は食べないのか?」

「私は、ウィリアムさんにいただいた昼食を食べた後です。二食食べるのはやぶさかではありませんが、昼食には遅いし夕食にはまだ早いですし、後でいただきます」

「じゃあ、何で作ったんだ?」

「サラフさんが、私に餌を作れと言ってきたのでしょう。面倒……困った竜ですね」

「食べろと言われたから、まだ空腹でもないのに作ったのか。変な人間だな」



またよくわからなくなってそう言えば、隣にいたウィリアムが声をあげて笑った。

ウィリアムがそんな風に笑うことは少ないので、少し驚いてそちらを見る。


「サラフの認識と、彼女の認識が一致してないような気がするな。でも美味しそうだ。俺も貰っても?」

「ええ。竜の胃袋がわからなかったのと、用意されたのが大鍋だったので、たくさん作ってますよ」

「良かった。あ、自分で持ってくるから大丈夫だよ」



ウィリアムが手を伸ばして彼女の頭を撫でたのを見て、なぜか小さな苛立ちを感じる。


(だが、ウィリアムは、名前すら呼ばせて貰えていないではないか)



「ネア、お代わりだ」


女、と呼び続けていたら、渋々とではあるが名前を呼べと言われたのだ。

空になった皿を差し出すと、なぜかウィリアムと彼女と、二人が同時に溜息をついた。







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