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37. 風竜は乱暴ものでした(本編)




コツコツと足音が響く石造りの城の、馴染みのない土と水の匂い。


ぞわりと不思議な風が動き、ネアは体を硬くした。

現れた男性から糾弾される前にウィリアムの体調が戻ることを期待したが、どうやら無理そうだ。

かくなる上はと、素早く謝ってしまうことにする。



「申し訳ありません。私にかけられた守護が、ウィリアムさんに害を与えてしまったようです」

「………貴様、人間か」


彼の声は何だろう。

追い詰められて迷走しがちな頭でそう考える。


研がれた刃、真冬の断崖を吹く風、一筋の稲光。

どれも美しいが、人間には死を連想させる容赦のないものだ。



「はい、人間です。迷子のところを、ウィリアムさんに助けていただきました」


そう答えたネアに、男は短く舌打ちした。


白っぽい砂色の髪に、凛光の黄色の混ざったオリーブグリーンの瞳。

肌は蜂蜜色で、目元には僅かに白緑の鱗が浮かぶのだから、こちらもまた白に近い色が多い生き物ではないか。


装いはくすんだ緑色の僅かに異国風の騎士服めいたもので、青色を基調とした鮮やかな織り布を腰に巻き付けていた。

ふわりと広がる上着はグラストのケープの下の装いに似ていたが、その飾り帯の彩り一つでぐっと印象が変わる。

そんな服装一つで、異国の生き物なのだとしみじみ感じる装いだ。



(…………竜だ)



似たような生き物を見たばかりだったので、こちらは、すぐに竜だと分かった。



「やはり人間か。恩知らずの軟弱な生き物め」

「やめろ、サラフ!」


慌てたようなウィリアムの叱咤の声が聞こえた刹那、ネアは、体に強い衝撃を感じた。

(……え?)


痛みや恐怖はなかった。


とても強い風圧のようなものを叩きつけられ、多分、吹き飛ばされたのだろう。

体が浮いたことに驚いた直後に、今度は背後から強い衝撃を受ける。


がくんと首が揺れてから、どうやら壁のような部分に叩きつけられたらしいと理解したが、受け身も取れないままずるずると滑り落ちて壁を背に座り込んだネアの視界に、こちらに迫る先程の男の爪先が映った。


それでもまだ、痛みや恐怖を理解するには至らなくて、ふと、床にふわりと広がった見事なケープが目に入る。

裾が僅かに擦れていて、縫い込まれた真珠の肌が傷付いていると気付いたのはその時だ。



ひたり、と染み入ったのは、あまり良くないもの。

怒りにも憎しみにも似た、わぁっと声を上げて暴れたいような、我慢の利かない衝動だった。



(………会えないのだ)



暫く、あの大切な魔物には会えないのだと言う。

寂しがりやなのだ。

一日に一回は椅子にして欲しがるし、拗ねると直ぐに髪の毛を持たせる。

体当たりして欲しくて、髪の毛を梳いて欲しくて、とてもとても、困った魔物なのだ。


もう怖がらなくてもいいと言ったばかりなのに、ここで何の事情も知らないこの竜に損なわれたら、もしネアが帰れなくなったら、ディノに何と言えばいいのだろう。



まだ、初めてのイブメリアの日のカードすら渡していないのに。



(取り残されるということが、どれだけ恐ろしいのか、私は知っているのに)



あんなに綺麗な生き物に、その恐怖を飲み込ませるのか。

ぎゅっと唇を噛み締めたら、滲んだ涙は悔し涙だった。



「なっ?!」



敵の悲鳴は短かった。


柔らかいもの同士なのに、物凄い打撃音がする。

ネアは羽織ったケープの裾を掴んでそれを男の脛に叩きつけると、声を上げて転倒した彼の首筋を片手で鷲掴みにした。

勿論、指輪のある方の手だ。


竜は首裏に逆鱗があると言うので、それを引っぺがしてやろう。


「なぜにいきなり武力行使なのですか、この乱暴者!きちんと事情をご説明をするつもりでしたが、私は今はとても情緒が不安定なので、あなたを全力で叩き潰すことにします!!」


鎖骨ぐらいまでの髪の毛をもう片方の手で鷲掴みにし固定してから、首筋を掴んだ手は爪を立てた。

がりっと引っかかるものがあるので、恐らくこれが鱗だろう。


普通の女性なら容易く命を落としてしまうような打撃を与えられたのだ。

どこも痛まないこの様子から恐らく無傷だったとしても、絶対に許さない。



「……っ?!」


ネアはそのまま、声も出せずに悶絶した竜から鱗を剥がそうとして、


「待った!本気で待ってくれ!」


まだ少しふらつきながら飛び込んできたウィリアムに、獲物から引き離された。


「駄目だからな?!逆鱗を剥がされたら竜は死ぬんだぞ!」


ネアの両手を拘束したウィリアムは、覗き込んだ表情の陰惨さと、鳩羽色の目に滲んだ涙にはっとする。


「今のは俺が悪かった。君を守りきれなくてすまない。もう二度とサラフにはこんなことをさせないから、今回は見逃してやってくれ」

「……ウィリアムさんは悪くありません。悪いのはこの竜です。わ、私が死んだら、私の大事な魔物は突然一人ぼっちになってしまうんですよ?!せめて遺書を遺すくらいの時間は与えるべきです!!」

「いや、遺書書いた後でも殺されたらだめだろう?!」

「苦手な生存努力をして頑張った後にこの仕打ちです!このケープはみんなの贈り物なのに!この真珠はディノが作ってくれたのに!私の宝物をよくも傷付けてくれましたね!!」


癇癪を破裂させたネアが、半泣きでサラフをげしげしと踏みつけるので、ウィリアムは磨耗した体に鞭打って凶悪な人間を抱えあげて隔離する。


「それでこのケープはこんな頑強なんだな……」


竜の魔術による攻撃を無効化し、叩きつければ、刃も通さない竜の足を傷付ける程。

よく見れば繊細な刺繍のほとんどに、魔物でも青ざめそうなくらいの守護石が縫い込まれている。


「……ディノが、このケープがあれば竜に踏んづけられても大丈夫だと言ってました。いざとなったら、振り回せば竜も殺せるそうです!」

「……何でそこまで竜に攻撃的なケープを作らせたんだ……」


ウィリアムは呆然としていたが、それはきっと、ジゼルの一件があったときに発注されたものだからだろう。


「この竜は何をするかわかりません。滅ぼした方が私の為です」

「自己申告通りに我欲真っしぐらだな!」

「ディノの真珠の傷分だけでも、鱗一枚に相当します」

「命をもって贖う以外のことにしてやってくれ。サラフ!サラフ、早く起きて謝るんだ!!」


ウィリアムにも蹴られて、サラフは首筋を押さえたまま悲痛に呻く。

死にかけたところなのだが、竜は頑丈だとされる為か、友人はとても容赦がない。

もう片方の手を床について、軋む体を丸めながら何とか起き上がる。

立とうとして、何かで強打された足に激痛が走り、またうずくまった。



「…………くそっ、」


片足を浮かせて息も絶え絶えに立ち上がると、ウィリアムがこちらを心配そうに見ていた。

その手に抱えられているのは、目に涙をいっぱい溜めてこちらを睨んでいる人間の少女。

殺しておけば良かったとでも思っていそうな、残虐な目をしている。



「サラフ、謝るんだ」

「……その女は、竜狩人なのか?」

「いや、この子はただの歌乞いだ。魔術可動域も六しかないそうだ」

「六?!生まれたての赤ん坊より、……いや、その辺りの昆虫より低いではないか!」

「……何という屈辱でしょう。やはり殺しておくべきでした」

「サラフ!!」



ネアの眼差しがどんどん剣呑になっていってしまうので、ウィリアムはひとまず友人から引き離すことにした。


唖然としているサラフを置き去りにして部屋を出ると、早足で城を抜けながら滞在期間中は自室にしている部屋に持ち帰る。

本当はどこか適当な部屋に入れておくつもりだったが、この調子で誰かを殺されても堪らない。

城内に指示を徹底するまで、誰にも手を出せない場所に隔離しておこう。



「大丈夫か?怖い思いをさせてしまったな。サラフは、元々人間と由縁の深かった風竜の長で、戦乱で仲間を多く失ったんだ。それ以来、人間にはちょっとな……」

「……あれは、私とは違う生き物です。だから彼が何でも、それはどうでもいいんです。でも、私がようやく手にした大切なものを、私の手で損なわせるようなことをされるのが許せません」

「……君の手で?」

「私があそこで死ねば、ディノはどう思うでしょう?あの魔物にとって私は、突然いなくなり、突然自分を置き去りにした酷い人間になってしまいます」


ネアが降ろされたのは部屋にある書き物机の横の椅子の上だった。

高位の魔物らしくない、簡素な部屋である。

元は豪奢な部屋だったようだが、今は続き間に見える寝台と、この机と椅子ぐらいしか家具らしい家具はない。


開け放した窓にカーテンがはたはたと揺れている。



「シルハーンを大事にしているんだな」

「少し前までは、私には荷が重いと考えて、転職活動をしていました。でも、もう何処にも行かないと約束してしまったのです」

「……契約した歌乞いが、転職活動」

「今だって、ディノはしょんぼりしているでしょう。まだ、今日のご褒美だってあげていないのに。……私がいない間、誰かがディノの髪の毛を引っ張ったり、体当たりしてあげるといいのですが…」

「何だろう、あまり聞かない方が良さそうだけど、……ご褒美って何?」

「うちの魔物は、加虐的なご褒美を好む可愛らしい変態です。ご褒美不足で弱ってしまったらどうしましょう」

「……変態」



まだ体調が完全ではないのか、ウィリアムは頭を振りながら隣室に出ていった。

がらんとした部屋で一人残されたネアは、一度椅子からお尻を浮かせて、大事なケープを敷物にしないようにした。


膝の上に手繰り寄せると、どこかで糸がほつれていないか丁寧に確認する。


(……良かった。さすがアーヘムさん)


繊細に見えても妖精の刺繍はとても強い。

しっかりと刺された模様はどこも緩んではいなかった。

先程の攻撃で傷付いた真珠と、少しだけ欠けた結晶石のところで、ネアの眉がぴくりと動く。



「………ディノ」


手袋から引き抜いた手は、傷一つなかった。

この手袋もケープと同じ素材に、同じ状態を施された最強の盾である。


ほっそりとした指には、乳白色の綺麗な指輪がある。

滑らかな表面を指先でなぞってから、そっと唇を押し当てた。


(私に、魔術が使えれば良かったのに)


動力はあるのだ。

だから、ネアに魔術扱えれば、自力でウィームに戻れたかもしれない。

それなのに、努力でどうにかなるようなものでもなく、そもそも魔術を動かすことも出来ないなんて。

どんなに頑張っても、ネアには魔術で蟻の巣穴すら作れないのだ。


(お金に出来るものもほとんどないわ)


ケープを売ることは考えたくもなかった。

ちらりと足元に視線を向けると、戦場で血溜まりに踏み込んだ汚れのある靴が目に入る。

この靴に縫い止められた宝石を売れば、路銀くらいにはなるかも知れない。


(替えの靴を手に入れたら、後はもう狩りでもして、獲物を売りながら移動すれば……)


しかし、この戦乱の国のどこに、その様な健やかな商いが出来る場所があるのか。


(………やっぱり、竜くらいの獲物なら)



「少し落ち着いたか?ほら、温かいものでも飲むといい」


戻ってきたウィリアムの手には、湯気の立つカップがある。

屋敷妖精の姿がないが、まさか彼が自分で淹れたのだろうか。


「有難うございます。もしかして、ウィリアムさんが淹れて下さったのですか?」

「ああ。こういうことは得意だからな」


「……家事」

「そうだな、炊事も洗濯も出来る。俺が留まる戦乱の地では、あまり安定した生活は望めないし、下手に誰かを雇うといつもすぐに死んでしまうから」

「雇用人も死んでしまうのですか?」

「ある程度高位ならいいんだろうけど、俺はそういう従属は嫌でね。自分でやる方が性に合ってる」

「……………寂しくはありませんか?」


ネアの質問に、ウィリアムは小さく笑った。

わざわざ、カップの持ち手の方をこちらに向けて持ち直してから渡してくれる。


「どうだろうな。長く添う者はいないけど、周囲はいつも賑やかだし、死の瀬戸際で踏み止まったり抗う人間には目を奪われる。人間の中にも、時々友人が出来ることもあるし」

「そういう方がいらっしゃるんですね」

「あまり長くは生きないけどな。戦乱で生き残り、俺を目にするような人間は高位のものが多い。あまり長くは平穏に生きられないらしい」

「そうやって、移り変わってゆく国々を見ておられるのですね」



最初にこの国の名前を教えてくれたとき、ウィリアムは今はと前提をつけた。

それは、こうして戦乱の中にあるこの国が、また違う国になってしまうと考えているからだろうか。



「君は寂しいのか?……いや、今は愚問だったな」

「……寂しいです。私の魔物に出会うまでは、ずっと一人で生活していても寂しくはなかったのに、今は、ディノを一人にしていると考えることが寂しくて堪りません。自分がとても弱い人間だと思いました」


カップを片手にネアの向かいに立ったウィリアムは、小さく微笑んだ。


「君は、弱くはないと思うよ。ただ、だからと言って苦しまない訳じゃない。それだけのことだ」


伸ばされた手が、わしわしとネアの頭を撫でた。

儀礼用に髪を編み込んで結い上げているので、あちこちが引っ張られてぎしぎしする。


「嬉しいものだな。俺が撫でても死なない人間は珍しい」

「そ、その前提で、よくも撫でようとしましたね………!」

「さてと、今日はこの部屋に必要なものを揃えるから、あまり出歩かないでくれ。俺と続き間で嫌かもしれないが、安全対策を固めるまで我慢して欲しい」

「いえ、こちらこそお気遣いいただきまして有難うございます。ただ、浴室その他諸々の設備がないと、人間の生活は破綻しますので、その設備の場所を教えていただけますか?」

「……しまった、そうだったな」



ウィリアムは深く溜息をついた。

人間は好きでも、人間の生活にはそこまで詳しくないらしい。



窓の外の白んだ明るさが、少しずつ色彩を変えてゆく。

朝になったのだと考えて、ネアは胸の奥が痛んだ。



ウィームは今頃、イブメリアの朝を迎える頃だろう。







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