バベルクレアの夜
イブメリアの祝祭まで、残すところ二日となった。
祝祭前の二日は前夜祭となるので、人々はそれぞれの祝祭の為の特別な料理を準備し、家の前には必ず、祝祭の魔物達を労うリースを飾る。
このリースを忘れると、時折祝祭の疲れから荒ぶった魔物達に食べられてしまうので、かなりの注意を払わなければいけないそうだ。
そのせいか、前夜祭最初の夜となるバベルクレアの夜には、幾つかの凄惨な事件がおこるのは通例であった。
「リースのつけ忘れなのですか?」
「いや、恨みを持つ相手の家から、わざとリースを外す者もいるからな。リースそのものに結界を張れる者は平気だが、その警護を行き渡らせるのも難しい」
「事件性も高いのですね……」
ネアがそう聞いたのには理由があって、バベルクレアのミサから戻ったエーダリア達が、なぜか事件捜査までを済ませて遅い帰宅となったからだ。
今夜被害を受けてしまったのは、大聖堂の警備担当をしている教会兵の家族だったそうだ。
祝祭の魔物達は数が多く、イブメリアそのものを運営する信仰や送り火などの魔物は面が割れているものの、その他の小さな生き物達の把握まではさすがに難しい。
今回の犯人として、このところ別任務で出払っていたグラストとゼノーシュの力を借り、イブメリア用の、インスという赤い木の実の魔物が捕縛されたそうだ。
今年のインスは夏場の降雨被害の為に粒が小さく、飾り木につけると見劣りするという人々の酷評に、たいへんなストレスを溜めていたらしい。
「インスの魔物さんは、どうなるのですか?」
「どうもしない。厳重注意だけだな」
「ふむ。野生のものですので、獣に手を噛まれたような判断になるのですね」
「リース周りの事件は、天災に近い。もし故意による事件の場合は、リースを外した者を犯人として裁いている」
「こんな素敵な時期に被害に遭った方々が、お気の毒ですね。はい、エーダリア様」
疲れ果てた元婚約者殿が少し可哀想になって、ネアは溜め込んでいた雪菓子を一つお裾分けする。
「いいのか?お前は、食べ物にはかなり冷徹だというのに……」
「こういう場合は、お礼を言うだけでいいんですよ、エーダリア様」
「そ、そうか。……では礼を言おう。感謝する。雪菓子は疲労を軽減するから助かる」
「そういうことでしたら、また今度、雪菓子狩りにゆくので、お土産を持ってきますね」
「もう、竜は狩らないように管理していてくれ。幸いジゼルは、あの後こちらに来ていないようだが…」
「ジゼルさんに被害を与えた祝福は、ディノが引き剥がしてきたそうです」
ネアがそう教えると、エーダリアは少しだけ複雑そうな顔をした。
「そうか。良かった……のだろうな」
「エーダリア様がそう仰るのは、あの方が、孤独だと思われるからですか?」
「それもある。竜は宝を守ってこそ、竜本来の気質となるらしいからな。所有するもの、守るべきものを持たない竜は、不安定でもある。相手がお前でさえなければ、良い話だったのだが」
「では、またそのような祝福を持つ方を、ジゼルさんに差し向けては?」
「接触がなければあの手の術式は作用しない。雪竜の王に、お前のように近付ける相手がどれだけいるというんだ……」
そう言われると難しいかもしれない。
ネア自身、己が偉大なる狩りの女王であることは、薄々自覚しているのだ。
「では、無垢で守ってあげたくなるような何かのお世話を、強制的にさせればいいのでは?確か、あの方は妹さんを亡くされているのですよね。幼気な女の子を刺客として送り込むのです」
「……時々、お前はえげつないな……」
「ジゼルさんの目の前で、転んで泣かせるとか、迷子のふりをして泣きつくとか、不敬とならない程度の罠を張ってみて下さい。ご家族からお子さんを引き離すのは犯罪ですが、こちらの世界であれば、寄る辺なく庇護が必要なお子さんもどこかにはいるでしょうから」
「………罠か」
後日、この時のネアの発言が発端となり、ジゼルはふわふわの小狐を育てることになる。
さすがに人間の子供はまずいと考慮したガレンの工作員が、親を失った小狐の精霊を投入してきたのだ。
結果、ジゼルは良い父親になったようだ。
幸せそうで何よりだが、出来れば会話の出来る相手を与えてあげて欲しかったとネアは思う。
「ネア、バベルクレアの夜はどう過ごすか聞いたかい?」
ネアの戻りに気付いて、白い魔物はそう問いかけた。
「はい。リースで敵の進行を阻みつつ、ローストビーフを食べて、苺のケーキを投げつけ合い、花火を見て就寝します」
「真ん中のは、何だろう……」
「市井の風習ですが、特に幸せになって欲しい人には、ケーキを投げつけたりするそうですよ。勿論、被害の少ない屋内で、そして近しい仲間たちだけの楽しみだそうですが」
「人間は、時々わからないことを始めるよね」
「魔物さんの成り立ちも、時々人間には高度な謎です」
部屋に戻ったネアは、これからの夜の花火に向けてそわそわと準備を進める。
子供の時以降、誰かと花火を見にいくのは初めてだ。
「ディノ、花火は真夜中の手前からです。その前にローストビーフですが、晩餐の後に花火を観に行くには、何時くらいにここを出ればいいでしょう?」
「外で見るなら、リーエンベルクの屋根がいいと思うよ」
「……なぬ?」
「花火が上がるのは街の中央広場だよね?だったら、ここからなら群衆で隠れてしまわずに綺麗な花火が見える筈だ」
「屋根の上に、上がれるでしょうか?」
「連れて行ってあげるよ。それとも、たくさん人がいるところから見たいかい?」
「いいえ。お祭りの賑わいはこれからですし、二人でのんびりと花火を楽しみたいです!」
「ご主人様!」
二人でという言葉に魔物がはしゃいでしまったので、ネアは少しだけ晩餐に遅れそうになってしまった。
ちょっとよれよれで到着したネアに、エーダリアが半眼になる。
「……お前は、一体何をしていたんだ」
口にした後、はっとしたように赤面したのは何故だろう。
「巣に立て篭った魔物を引き摺り出すという儀式が、強制的に発生していました。……エーダリア様?どうされましたか?」
「い、いや、こちらの勘違いだ。気にしなくていい。それと、大鴉からのケープが無事に届いていたそうだ。これで、明日の前夜祭は無事に準備が整ったな」
「はい。台詞も覚えましたし、隣にディノがいるので緊張しても転ばないと思います」
明日の前夜祭の儀が、ネアがイブメリアで唯一公式参加する行事となる。
教区内の祭司と、ガレンの魔術師、そして領主しか参加しない祝祭儀式なので、ネアが魔物を連れて参加出来るぎりぎりのところなのだとか。
国の新しい歌乞いということもあり、どの舞台からも遠ざかることは出来なかったので、エーダリア達が最も不安の少ない日を選び、今回の参加の運びとなっている。
(その為に、大鴉さんという刺繍妖精さんの仕立てで、とっておきの刺繍のケープも作って貰えたのだ!)
アーヘムという名前の刺繍妖精は、ヒルドの古い友人で、ウィーム暮らす妖精である。
アーヘムの刺繍は人気が高く、予約を取るだけで一苦労という話だったが、今回、ネアの公式な儀式盛装用のケープということで、特別に発注して貰えたのだ。
唯一心配なのが、信仰の魔物はその場にいるということであった。
ディノの苦手意識とやらは大丈夫だろうか。
「ディノ、信仰の魔物さんと会うのは平気ですか?」
「直接の接触はないそうだから、上手く擬態していくよ。このままの姿で会うと、レイラが倒れるからね」
「……あの方が倒れてしまうような、……過去があるのでしょうか?」
「ネア?レイラが倒れるのはいつもだよ。なぜかね、私を見るといつも倒れるんだ」
「それは、過去にディノとの間に何某かの物語があったりして、その結果ではないのですか?」
「物語?」
「お付き合いをしていて手酷く捨てたとか、弄んだとか」
「………ネア、さすがに私は、あそこまで悪食ではないからね」
「……レイラさんは、悪食に分類されてしまう魔物さんでしたか」
魔物がしょぼくれたので、仕方なく髪の毛を引っ張ってやりつつ、ネアは、出てきたローストビーフに目を輝かせた。
給仕妖精は心得たもので、ネアには一枚多く切り分けてくれている。
濃厚なソースに、美しいコントラストの生クリーム。
付け合わせの森苺のコンフィチュールと、マッシュポテトに人参とセロリのチーズ焼き。
茸のソテーには鮮やかな赤い粒が見えるので、胡椒かチリペッパーかだろう。
前菜とスープは事前に攻め滅ぼしてあったので、ネアは、さっそくローストビーフに取り掛かった。
興奮を押し殺したまま無言で一口食べ、幸せのあまり、テーブルの下の足をパタパタさせたくなる。
ネアの表情から料理の出来を確信した給仕妖精は、仕事人のように頷いて下がっていった。
(……………美味しい!!)
「ネア、もっと食べるかい?」
「いえ、こんなに美味しいのですから、ディノは自分のものを堪能して下さいね。ローストビーフは塊で焼くもの。裏にまだたっぶり控えている筈です!」
ネアはあらかじめ、ローストビーフ出現の情報を入手次第、厨房の料理人と打ち合わせをしている。
たくさん食べてしまうので、賄いなどで汎用する予定があれば、多めに作っておいて欲しいと伝えたのだ。
ネアのせいで誰かのローストビーフが失われることだけは避けたいし、美味しいものは、みんなで食べたいではないか。
ゼノーシュは、無言で食事をしていた。
バベルクレアの夜なので、グラストやヒルドも同席しているのだが、彼らと会話することもなく、ほぼ存在感を消してしまうくらい、無言で祝祭料理を食べている。
無言でお肉を食べるクッキーモンスターも可愛いので、ネアは、口の中に広がる香草の風味とお肉の旨味を噛み締めながら、そんな景観も楽しませていただく。
今夜は事件捜査帰りのエーダリア達が遅かったこともあり、晩餐を楽しんでいるともう、花火の開始時間が近くなってきた。
「このまま見に行こうか」
「コートがないと、凍えてしまいません?」
「魔術で調整するから大丈夫だよ」
「ではこのままで。……みなさんは、花火は見ないのですか?」
「エーダリア様と私は、その花火そのものに少し関わりますので、リーエンベルクの西塔から見せていただきます」
「……関わる?」
「ええ。リーエンベルクから、領主が魔術で最後の花火の色を変えるんですよ。楽しみにしていて下さいね」
「わぁ、それは素敵ですね。エーダリア様、楽しみにしていますね」
「ああ。今年は良い術式が組めたからな。期待していてくれ」
「僕は、グラストと屋台に行くの」
「あら、花火より食い気ですね。でも、グラストさんとご一緒なら、ゼノはとても幸せですね」
「うん!」
大きく頷いたゼノーシュに、グラストはほんのり目元を綻ばせる。
最近、少しだけ息子を見るような眼差しが増え、ネアは密かに喜んでいた。
グラストに構って貰えた日のゼノーシュのはしゃぎようは、悶絶ものの可愛さなのだ。
(ここは、不思議なところだわ)
こうしてそれぞれ離れていても、ちっとも寂しくは感じない、不思議な家族のよう。
みんなが笑顔でいてくれれば、ネアも、こんな風に胸が温かくなる。
ずっと昔に無残に奪われた家族の団欒とはまた違う、けれども、同じような温かなものだ。
気を利かせた料理人がホットワインを入れた水筒を持たせてくれたので、ネアは、それを抱えて屋根の上に上げて貰った。
かつては警備の魔術師の見張り台だったという屋根が平らになった一角に、積もった雪の上にどんな魔術の我が儘さか、優美な長椅子が出現している。
特に警戒もなく腰を下ろせば、張られた布地は外気温に冷えてもおらず、ふかふかのままだった。
ディノが大丈夫だと言った通り、コートが無くても屋内のように快適な気温だ。
「ディノは、花火は好きですか?」
「数えきれない程見た事はあるけれど、見ようとして見るのは初めてだね。君と見るのだから、きっと綺麗だと思うよ」
「そう言ってくれるのは幸せですが、好き嫌いは自分の心に忠実になって下さいね」
気を付けていないと、魔物は時々忠実な犬街道を走っていってしまう。
これ以上暴走してはいけないので、ご主人様は慎重だ。
「ご主人様が好き」
「私も、私の魔物が大好きです。そして、このホットワインが美味し過ぎて、感動しています!」
「ネアが、可愛い………」
竜は、宝物を持たないと本当の竜ではないと言う。
だからもしかしたらネアも、宝物を持たないと、ただのネアでいられなかったのかも知れない。
こんな風に伸びやかに、こんな風に安らかにこれから過ごせたなら、どんなに幸せだろう。
「わぁ、最初の花火ですよ!」
どおん、と大きな音がして、雪景色のウィームが鮮やかな色に染まった。
遠く街の方から、楽しそうな歓声が聞こえる。
笑顔で魔物を見上げると、ふわりと口付けが一つ落とされた。
む、と眉を顰めて自分の唇を押さえたネアは、次の打ち上げの音に視線を空に戻した。
犬の挨拶だと思って受け流すべきなのだが、この状況下ではさすがに頬が熱くなってしまう。
近頃、不安を飼い馴らせた模様のディノは、前にも増して甘えるようになってきたので、ご褒美とならない程度に、どこかで躾を強化しなければなるまい。
「ほら、ご主人様。アイリスだよ」
アイリスの花火は、花の姿を模した花火の後にアイリスの香りの風が吹く。
その香りに目を細めて、厄介な躾は祝祭の後でもいいかと思い直した。
そのせいで魔物の症状が悪化することになるのだが、それはまた別のお話。
エーダリアが演出した花火は、万華鏡のように複数回色を変える素晴らしいものだった。
最後に薔薇の花吹雪まで降らせ、観衆は大いに喜んだ。
明日は、いよいよ、イブメリア前夜祭の儀式に出掛ける事になる。