ローゼンガルテンと刺繍妖精
リーエンベルクの正面、街を挟んで反対側にはローゼンガルテンという薔薇の丘がある。
薔薇の祝祭の日には祝祭の舞台となる場所だが、冬になると雪に閉ざされ、ひっそりと荊のカーテンを纏う。
温室を持たない薔薇の妖精達は荊の影で眠り、その美しい繭に誰も近づかないように、荊は更に鋭い棘を深くする。
そんなローゼンガルテンに冬でも元気に仕事をする一団がいた。
刺繍妖精である。
刺繍妖精の仕事は、そのまま刺繍をすることだ。
布地や刺繍枠を抱えた妖精達が、雪を積もらせた荊の影や、アイアンの枠を残したアーチの下で黙々と刺繍を続けている。
中には大きなドレス生地を引きずっている妖精もいるが、刺繍妖精は独自の魔術を展開しており決して生地を汚すことはない。
「あのレストランは営業しているのですか?」
ネアの問いかけに、ヒルドが視線を大きな楓の木の下に向ける。
街を見下ろす丘の中腹には、窓を広く取った瀟洒な造りの建物が建っている。
元々は修道院だったものが、大戦時に大きく硝子窓をとり、魔術師達の陣営として改築されたのだそうだ。
荊の魔物や薔薇の妖精は高位のものとなる為、ここは難攻不落の要所の一つだったとか。
「営業しておりますよ。昼食はこちらで摂っていきますか?」
「………食べてゆきます!」
今回、魔物達はお留守番だ。
薔薇と魔術は親和性が高く、あまりにも高位の魔物が近付くと、真冬でも薔薇が咲いてしまう。
雪に弱い薔薇の妖精を死なせてしまうので、人間に擬態しないと立ち入れない。
だがしかし、ここまで妖精や魔物の多い土地に魔術なくしてネアを向かわせるのも無用心だからと、今回はヒルドの出番になった。
用事だけを済ませて早く帰ってやりたいが、ネアは容易く食欲に負けてしまう。
妖精の繭や刺繍妖精に囲まれた、小高い薔薇の丘で食事など、どうして通り過ぎてしまえようか。
隣に立つ妖精は鬼教官であったとしても、美しい妖精の王族、シーなのである。
純白の雪の静謐な庭園に、青と緑の宝石のようなヒルドは息を呑むような美しさだ。
「あの、慰霊碑の上で刺繍をしているのが大鴉ですよ」
「あの方が、アーヘムさん」
ヒルドがそう指し示したのは、一人の刺繍妖精だった。
大鴉は、とても有名な刺繍妖精だ。
革新的なクチュール・メゾン向けの高級生地の刺繍を手がける妖精でもあり、頑固な老職人のようにたった一人の顧客の為だけに丁寧な仕事をする。
客を選び、絵柄を選び、大鴉の刺繍の価値はまさに値段をつけられない程の品物となった。
(すごく綺麗な妖精………)
彼は、四枚羽にしては珍しく、シーに匹敵する美貌の妖精だと言われている。
ダリルを知っているネアは大して驚かないが、世間的には大層なことであるらしい。
大きな鴉の翼にも見えるのは、彼が見事な刺繍を施した漆黒のコートだ。
彼の本来の羽は三枚しかなく、大戦の中で一枚の羽は失われたのだそうだ。
銀を透かした半透明の黒曜石のような羽は、ここから見てもえも言われぬ程に美しい。
黒紫の編み上げの長靴にも刺繍があり、手袋は針を持つ為に指先のないデザインだ。
ふっと、美しい大鴉が刺繍から目線を持ち上げ、こちらを見た。
唇の端を持ち上げて、同族の友人に笑いかける。
誰も笑ったところを見たことがない妖精とされるアーヘムだが、ヒルドだけは別らしい。
彼等は、年に数回は酒を酌み交わす旧知の友人なのだそうだ。
(もう少し会えてもいいと思ったけれど…)
ヒルド、アーヘム共に仕事中毒の気のある妖精なので、年に数回で彼等は充分であるそうだ。
「やぁ、ヒルド。今日は僕に恋人を紹介してくれるのかな?」
「久し振りですね、アーヘム。あなたから祝い刺繍が貰えるならそうしましょうかね」
「綺麗な夜狐の毛皮みたいな女の子だね。夜霧のリボンが似合いそうだ」
「そう思うなら、彼女への贈り物には良い刺繍を刺して下さい」
「ヒルドの羽の庇護がある子だから、僕も少し張り切ってしまったよ」
「それは楽しみですね」
親しい友人同士らしい挨拶を交わすと、ヒルドは振り返ってネアに大鴉を紹介してくれた。
「ネア様、アーヘムです。偏屈な男ですが、彼の刺繍の腕は誰にも劣らない」
「初めまして、アーヘムさん。ネアと申します。今日はお世話になります」
丁寧に頭を下げると、紫がかった黒髪の妖精はシニカルな微笑みを浮かべた。
刺繍用の片眼鏡を外し、淡い金色の瞳を細めて笑う。
「ヒルドに困ったら僕のところにおいで。いつでも彼を懲らしめてあげよう」
「ふふ。とても優しい方なので、ヒルドさんに困ることは滅多にないんですよ。でも、そんなことがあったら宜しくお願いしますね」
「ヒルドが優しい、……のだろうか?」
「アーヘム、彼女に誤解を与えるようなことは言わないように」
また小さく笑ってから、アーヘムは慰霊碑から飛び降りた。
装飾的な墓標を、妖精と魔術師の彫像が左右から支えているのがこの慰霊碑だ。
ここで、統一戦争の名の下に、多くの妖精や魔術師が命を落としたことを今日にまで伝えている。
エーダリアの伯母にあたる女性も、ここで契約した妖精と共に命を落としたそうだ。
「ではネア嬢、柄の確認をいいかな?」
「はい。お願いします」
今回、ネアがローゼンガルテンを訪れたのは、頼んでいたケープの刺繍の確認だ。
ベルベットに似た手触りの短毛の毛皮を薄く薄く優美なラインで仕立て、そこに真珠とオーロラの結晶を縫い込み、全面に刺繍を施す。
全てが色味を違えた白で揃え、刺繍の花の部分に、夜の結晶と夜霧の結晶で深い青紫を細やかに取り入れている。
葉と雨垂れの表現は、ヒルドが育てた守護の宝石だ。
溜め息しか出ない見事な刺繍だ。
これ一枚の為に、殺人も辞さないというコレクターもいるだろう。
「ケープに負けてしまうのは確実として、この美しいものの邪魔をしてしまいそうで切ないです」
肩にかけられたケープに恐々と触れ、ネアは小さくそう呟く。
「お気に召さないかな?」
「誰かがこれを奪わんとしたら、刺し違えてでも取り戻します」
「それは光栄だけど、その時はヒルドに頼むといい。彼はそれはもう激烈な強さだからね」
「ヒルドさんはやっぱり強いんですね」
「強いよ。竜も一撃で倒せるからね」
「……そういえば、ヒルドさんはどうやって戦うのですか?」
「ヒルド、見せてないのかい?君の本分じゃないか」
「戦う場面を見せるような、そんな場所には連れていきませんよ」
今日もヒルドは漆黒のケープなので、二人の妖精が並び立つと、雪景色の中で何とも鮮やかだ。
「ヒルドさんが武闘派な気配を見せてくれたのは、泉の妖精さんの羽を掴んで引き摺って行ったときでしょうか」
思い出したネアがそう伝えると、ヒルドは微かに目線を逸らす。
アーヘムはそんな友人を覗き込んで、意外そうに眉を上げる。
「へぇ、泉の妖精を」
「薄紅ですよ。彼女に手を出そうとしたので」
「そう言えば最近、羽を無くした妖精の噂を聞いたような………」
「………さて」
友人のあからさまな反応に、アーヘムは呆れた顔になった。
「僕も君の怒りを買わないようにするべきかな?」
「さすがにあなたが、そのような過ちを犯すとは思えませんが」
「ネア嬢が、糸紡ぎにでも転職しない限りは大丈夫だろう」
「と言うことですので、ネア様。転職を考えても、決して糸周りの職には就かないように」
「さすがにもう、私の魔物を誰かと取り替えたりはしませんよ」
「ネア嬢、取り替えるとしたら、ヒルドと取り替えるといい」
「………む。そうなると、エーダリア様がディノのご主人様になるのですか。却下です」
「ネア様、最近特にエーダリア様の評価が低くなりましたね……」
「人として、上司としての評価はとても高いのですが、……柔軟性の低さと、恋愛への抵抗力のなさが気になっています。お役目を外したところでの、社交の経験値が足りないのでしょうか」
「柔軟性に関しては、恐らく現在かなりの積値を重ねているところかと」
ネアに何度か回って見せさせてケープの落ち方を確認し、アーヘムは小さく頷いた。
「身体が入らないと、刺繍の陰影が確認出来ないからね。肩に夜の結晶を少し足そう。揺れる髪の間から見える色があると良さそうだ」
「この素晴らしさに、まだ上をゆくのですか。もうどうすればいいのかわかりません」
「ネア嬢は、悪辣にこちらの創作欲を持ち上げるね」
「これ以上持ち上がってしまうんですか!」
足すべき刺繍の確認が取れると、大鴉はさっさと慰霊碑の上に戻ってゆく。
寝ぐらは別にあるのだが、あの慰霊碑の上が彼の職場であるらしい。
片眼鏡をかけ直し、あっという間に刺繍に没頭してしまうアーヘムに、ネアは、心配そうに取り残された友人を見た。
「構いませんよ。彼はいつもこうなので」
「久し振りですし、お昼もご一緒したりしなくて良いのですか?」
「アーヘムが食べるのは、塩と月光だけなんですよ。嗜好品として酒は嗜みますが、食事までは摂りませんね」
「もしかして、妖精さんはそういう方が多いのですか?」
ネアがそう尋ねたのは、ヒルド自身、あまり食事姿を見かけないからだ。
朝が早いからと思っていたが、もしや食べるものもだいぶ違うのだろうか。
そこまで思案してから、ネアは凍り付いた。
なぜまた、この話題に触れてしまったのだろう。
ここには、武器になりそうなものはないではないか。
(もしもの場合には、アーヘムさんに助けを求めるしかない!)
「私は人間と同じような食事も好みますが、花と水でも生きてはいけますね。ただ、階位的なものとして、酒や感情も糧にはなります」
(……感情?)
「それは、……ヒルドさんがシーだからでしょうか?」
薄く、アーヘムとはまた違う静謐な微笑み方をして、ヒルドはひとつ頷いた。
「ええ。シーは本来他の妖精達を護り、その喜びや欲望を糧とします。ですので、私の種族本来の食事である花と水、それ以外にシーとして、庇護する者の感情は良い糧になります」
「……その感情は、食べられるとなくなってしまうようなものですか?」
「いえ、そのような悪さはしませんよ。例えば今、ネア様があのケープを見て喜ばれたでしょう?その心の波が陽炎のように立ち昇り、私は少し満たされていました。心自体はあなたのものですが、それによって生み出される熱量が糧になるんです」
「素敵な糧の摂り方なのですね!」
「明確に守護や庇護を与えた相手がいる場合のみの糧ですね。そうでない場合は、上質な酒も供物として有効です」
話しながら薔薇園を縫う石畳を辿ってゆくと、お目当のレストランの前に着いた。
「さぁ、どうぞ。食事をされているときのネア様は、とても素晴らしいですからね」
そう言われてしまえば、期待に応えなくてはなるまい。
ネアは、万全の戦いをするべくメニューを広げた。