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ジーク・バレット



初めて彼女に気付いたのは、雨の降る秋の夜だった。



煙草の火が滲む赤さに目を細め、厄介な併合を提案してきたファミリーを思う。

そして喉の奥に隠した舌打ちで、その問題を放棄したその時だった。



店の隅で、見慣れない少女がグラスを傾けている。


誰かの下らない冗談に小さく微笑み、小さく頷く。

凛とした背筋と優雅な手足は、むせ返るような香りの造花の中に、一頭の雌鹿が迷い込んだようだった。


気まぐれに声をかけてみようかと思って、すぐにどうでも良くなった。

今夜の主役は、恋人になったばかりの歌姫だ。




「あの子は、また来ているんだな」


側近でも友人でもある男にそう尋ねたのは、それから何度目の夜だろう。



「似合わない背伸びなんざ、やめちまえばいいのにな。ああいうお嬢さんは、女友達や母親とショッピングでもしてればいいのさ」


「誰の知り合いなんだ?」


「ん〜、アンジェラか、マリアか、あの辺の、見境なくオペラで知り合ったお嬢様方を引き込む女達のどれかだな」


「まるで迷惑しているような口振りだな?」


「はは。お陰様で楽しく人生の春を満喫してるとでも言えばいいのか?厄介な問題がある以上、女達は寝酒の代わり程度にしかならん。早く解決して、憂いなく飲み明かしたいものだぜ」


「出歩くことを控えても、下手な警戒をしていると勘繰られるからな」


「お前はお前で、表のビジネスを上手く回せよ。これからは、あちらの実入りで一部を回さにゃならん」


「父も随分と歳を取った。せめて、他の枝を切り分ける兄弟がいればな」



どうしてここなのだろう。

どうしてここでなければならなかったのだろう。



時々、息が詰まりそうになる。



どうして自分は、どこにも行けないのだろう。



視線の先にいる少女を妬ましく思った。

きっと、あの少女はどこにでも行ける。

すぐにこんな場所から立ち去って、どこか無害な場所でつまらなく生きるだろう。




「君はいつも、どこに帰るんだろう」



だから、そう声をかけたのは、ほんの気まぐれだった。


品のいい紺色のスカートを翻して、彼女は、黒い傘を手に店を出ようとしているところだった。

綺麗に手入れされた指先が艶やかな傘を撫でると、奇妙な欲を覚え、ふと、この少女はいつも黒っぽい服を着ているのだなと考える。

まるで、誰かを悼む喪服のように。



「普通に家に帰りますよ。そして、たくさん眠ります」


他の女達の嫉妬の眼差しすら気付かないように、彼女は淡く微笑む。

閃いた眼差しの深さに、ふと触れてみたくなった。



でも彼女は、普通の女なのだ。

自分が手に入れるにはあまりにもお粗末だ。

この月並みな舞台で自分が演じるのは、そんな役どころではない。


けれども、もし、他の誰でもないつまらない男として彼女に出会えたのなら、あの肌に触れてみただろうか。


そうしたら、彼女と共にどこか遠くへ行けたかもしれないのに。

彼女を笑わせ、自分も笑って、吐き気のするような作り物の会話などではなく、何の意味もない心からの会話を、自由に交わすのかもしれない。



「家に帰ってたくさん眠ります」



そう静かな声で重ねた彼女が、澄んだ湖面のような瞳がこちらを見上げる。

案じるような、突き放すような入り組んだ甘さに胸が震えた。



「では、私も帰って寝るべきかな」


最近の夜は長すぎる。

そう考えた途端に、ひやりとした手をあてられて、もう少し寝るべきだと諭されたような気がした。

そして、明確に鋭い一線を引かれたような断絶もまた、そこにはあった。



まるで、鋭いナイフを持った女に労られたような不思議な一瞬だった。

瞬きをしている間に彼女は立ち去り、次に見かけた時にはもう、いつも通りの普通の女に戻っていた。



もしも逢瀬というものがあるなら、

そんな一瞬が、最初の一雫だった。

あの時、確かに私は手を伸ばしたいと願い、その手を取るべきかどうか微かに逡巡した彼女を見ていた。


そうして、その躊躇いごと、彼女が鮮やかに殺してゆくのを、ただ見送った夜だった。



その日は、飲み明かす気になれずに早々に家に帰った。

ふと、書斎で煙草を吸いながら考える。


彼女は誰だろう。

どうしてあんな鮮烈な眼差しで、私を見たのだろう。

あれは本当に、無害な女なのだろうかと。




やがて、街の造船所で完成した客船の進水式の日がやってきた。

豪華なその船を一目見ようと人々が集まり、楽団の軽やかな音楽が男達の密談を掻き消してゆく。


親善と交流を兼ねて、大きな都市を治める幾つかの一族が訪れていた。

今日に至るまでの努力が実らなければ、彼等に食い物にされるところだったのは間違いない。

この調停を乗り切り、ビジネスを成功させればひとまずは安泰だ。


ひとまずは。



やがてはまた同じ危機に直面し、この小さな島を根城にするばかりの一族は大きく揺れるだろう。


それを繰り返すのだ。

私が死ぬまで何度も。

何度も。何度も。



ふと群衆を見渡せば、同じ年頃の若い男達が何人もいた。

妻や恋人を伴い、己の力と理想で健やかな仕事に従事する若者達。

私が決して手に出来ない、安寧と幸福を手に入れた愚か者達。



「では乾杯を!」



歓声が上がり、テープが切られる。

花で飾られたテーブルの上のグラスを取り、隣に並んだ家族という名前の鉄の枷である男達と語らう。


空が青かった。

雲ひとつないその青さに、真夏の檸檬畑の青々とした茂りの豊かさを思う。



「あら、そっちのテーブルは駄目よ。グラスの中身が違うんだから。いいお酒なのよ?」


誰かがくすくすと笑い、その声には隠しようもない歓びが滲む。

愚かな失態を嘲笑い、競合が転落してゆくのを楽しむように。


女達もまた、したたかに競い合っていた。



誰かを窘めたその声は、私の目下の恋人候補とされる一人の女だ。

連れ歩くには過分なく、美しく頭のいい愉快な女でもある。

でも、ただそれだけのことで、そういう女であれば、幾らでも手に入るのだ。



「そうなんですね。でも持ち上げてしまったので、こっそりいただいてしまいます」



聞こえてきた清廉な声に、目を見張った。

では今、横から伸ばされた白い腕は、彼女のものだったのか。


思わずそちらを向くと、華奢なグラスを呷る彼女が見えた。

相変わらず、異質なくらいに優雅で、一欠片の迷いもない所作だ。


こっそりも何もなく周知の行為であったので、私の隣の幹部は呆れていたが、このような無作法さは珍しいものではない。

無作法さを己の魅力だと履き違えている女も多いのは、言うまでもないだろう。



だが、彼女にはあまりにも不似合いだ。



「……っ、」



名前を呼ぼうとした。呼ぼうとして、それは、この場では決して呼んではいけない名前だと気付く。

その一瞬で、視線が交わる。



息が止まりそうになった。



温度のない炎が燃えるような、あまりにも鮮烈な、そして苛烈な眼差し。

そこには確かに、息を呑むほどの憎しみがあった。


けれどもその憎しみはさらりとしていて、冬の湖のような清廉さだった。

あまりにもの色を重ね、重ねすぎて透明になった静けさのように。


交わった視線の先で、揺れたのは微かな驚きと諦観。

私が汲み上げた理解を彼女も理解し、確かに何かが繋がる。



そうして、瞳の色だけで鮮やかに微笑んでから、彼女は倒れた。



辺りは、一瞬にして騒然とした。

私を背後に押しやる護衛達の手足の隙間から、地面に倒れた彼女の姿が見える。

力なく投げ出された白い指先を見た途端、胸が潰れそうになった。



(ああ、そうか)



そうか、これが君の、私の殺し方なのか。



君が私を殺すのか。




片手で目を覆った私に、幹部達は共に沈痛な面持ちになる。


一見すれば、これはこのテーブルの上からグラスを取ることが出来る、誰かを狙った殺意の露見だ。

それが私でも、私の街を飲み込まんとする他の土地の頭首達でも、穏やかに済まされる事態ではない。

誰も失われはしなくとも、そこに悪意があったという事実だけが問題となる。



一度は傍観に回った狼達も、これでまた牙を剥くのだろう。



また繰り返しだ。

だが、今度こそはこの道を繋ぐ手段はもうない。

切れるべきカードは全て、今日のこの日の為に使い果たしてしまった。

それがわかるくらいには、私は冷静だった。

彼女の手には、やはり確かにナイフがあったのだと。





「私は、いつか、君が私を殺すのだろうかと考えていた」


誰もいない病室で、彼女は眠っている。

医師によると、漸く危険な山場を越え、今は小康状態を保っているそうだ。

不格好なマスクを装着された顔に手を伸ばし、その頬に触れる。


「………初めて、君に触れたな」



そして、もう二度と触れることはないだろう。

枕元のテーブルに置いた花に、わざとコロンを振った手で触れたのは、私なりの最後の悪足掻きだろうか。




『確かにあの子は、ジョーンズワースの娘ですが、何にも知らない子供ですよ。虫一匹殺せないというか、殺したこともないでしょうね。社交界での貴方は誰もが焦がれる魅力的な紳士ですから、単純に、女としてあなたの取り巻きに加わっただけでしょう』



半年程前、彼女の両親を売り飛ばした男は、私の質問にそう答えた。

私はその言葉を決して信じはしなかったが、飲み込んだふりをして、その男を下がらせた。



あの後、つまらないことでスケープゴートにし、あの男を殺してしまったのはなぜだろう。

誰もが切り時だと考えてはいたが、私としてみれば、まだまだ使いようはあったのに。

彼女に繋がり、あの事故の真相を知る者は、一人残らず潰してしまった。



だから、ここにあるのは、私と彼女だけに残された秘密だった。

彼女が、私に両親を殺された娘であることを知る者は、もう誰もいない。




「ジーク、もういいのか?……それにしても、お前がこのお嬢さんとデキてたとはなぁ」


病室を出ると、古くからいる部下に、妙にしんみりとした声でそう言われる。


「これからだったからな。もう、怖がってこちらには近寄るまい。それに、私達も、もうそれどころではなくなってしまった」

「だいたい、目を醒ましてから来てやりゃあいいものを」

「彼女は喜ばないさ。もう二度と会うつもりもない」

「お前のグラスを取ったせいで死にかけて、目を覚ましたらお前とは連絡も取れなくなってたら、さすがに落ち込むだろう」

「私も当分は女どころではない。それにやはり、こういう弱い女は駄目だな」

「酷い男だよ、まったく」




幹部達も愚かではない。

こうでもしなければ、彼女のもたらした傷は隅々まで調べ上げられて、精査されるだろう。

そうなれば、彼女が誰の娘なのか、その両親が私のビジネスの周りで不自然に死んだ事に気付く者も出てくるかもしれない。


こうしておけば、彼女があのグラスを取り上げたのは恋人達の小さな戯れによるものだったのだと、たわいも無く誰もが信じる。

私が、自分のグラスに注がれた上等なシャンパンを彼女に飲ませたいと考え、目で合図してその手に取らせた。

罪のない恋人達のやり取りが、こんな悲劇に繋がったのだと。



なぜ。


なぜかと問われれば、それは私が負けたからだ。



もしあの夜、私が彼女を籠絡していれば、

或いはその後のどこでも、彼女を不安因子として排除してしまえば、こんなことは引き起こされなかった筈なのだ。



けれども私は、そのどちらも出来なかった。



殺されるとわかっていて、惚れ惚れと振り下ろされるナイフを見ていた。



理由など特にない。

破滅しても構わないと思わせるだけの特別さもなく、ただ目が逸らせなかっただけだ。

息を詰めて、深く焦がれてその瞬間を待っていた。



きっと、彼女がただの凡庸な娘で、私に媚びて微笑む女だとわかれば、私は安堵よりも失望しただろう。

この少女には、特別であって欲しかったのだ。

彼女はいつだって、むせ返るような香水と煙草の匂いの中で、ひときわ冴え冴えと輝くナイフであった。



私の人生の中に訪れた、唯一つの不可解で、美しいものとして。






「果たしてこれで調停となるのか?あいつらがお前にどんな無理難題を突き付けるか、今から嫌な予感しかしないぞ」


そうぼやく側近を横に、海沿いの断崖の坂道を車で登ってゆく。

断崖の向こうは鮮やかな海の青だ。

その遥か先に見える島には、オリーブ畑の健やかな緑が見える。



ここは、奇しくも彼女の両親が命を落とした道の延長線上だった。

そして恐らく、私が生きて会合の場に辿り着くことはないだろう。

あの中の誰が私でも、そう采配する。



指先で前髪を掻き上げるふりをして、ほろ苦い檸檬の香りを吸い込んだ。


彼女は、私の墓を訪れてくれるだろうか。

そんなことを考えて目を閉じた。







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