33. 信仰の魔物に会いました(本編)
シュタルトからウィームの旧王都に戻ると、送り火の魔物は更に一晩をリーエンベルクの預かりとなり、
その後ウィームの大聖堂に護送された。
案の定、ヒルドの逆鱗に色々と触れてしまったグレイシアは、リーエンベルクでの一晩を震えて過ごし、どこか吹っ切れた様子で実家への道中を楽しんでいる。
もう、あの怖いヒルドさえいなければ、どこでもいいという心境なのだろうか。
とは言え、大聖堂までの道のりはまだヒルドが一緒なので、護送に同行したネアには、時々救いを求めるような眼差しが向けられる。
大聖堂への護送には、エーダリアとヒルド、そしてネアが同行した。
大聖堂に滞在している信仰の魔物がとても面倒臭いと辞退したディノは、珍しくお留守番となっている。
信仰の魔物は白茶色の髪に鶯色の瞳を持つ、とても美しい女性の魔物なのだそうだ。
白に近い色彩を持っているからには爵位持ちなのは間違いないので、ネアは、こっそり辞退の背景を勘ぐらずにはいられない条件揃いだった。
何かがあったら呼ぶようにとは言っていたが、何かがあっては困るので、是非に万全の引き渡しとさせて貰おう。
大聖堂は、ウィーム中央の一番端に位置している。
ウィーム旧王都に次ぐ大きな街、ザルツからの主要交通路で旧王都に入る場合、必ず正面に大聖堂が見えるような配置になっているのは、王都を詣でる人々に畏怖の念を植え付けるような場所を選んだのだとも言われているのだが、魔術的な意味合いが大きいようだ。
また、教会勢力は国内でも中立の権力を有するので、王都への守りとしても利用したのだろう。
統一戦争前は、鹿角の聖女ではなくイブメリアそのものの祭壇だったと聞いているが、管理するの者が変わった事で、祭壇に祀り上げられるものも変わったようだ。
(とは言え、それでもウィームは、イブメリアという祝祭を治める土地なのだ)
送り火の魔物が脱走してしまい、季節の運行は滞っていたが、街は変わらずにイブメリアの装いであった。
諸外国からも見物人が訪れるくらいに有名な、大きな飾り木のある大聖堂前に、護送用の箱馬車が到着すると、ネアは、初めて公的な訪問となる大聖堂の雰囲気を推し量ろうと、窓の外を窺った。
幾つもの塔がそびえたつ大聖堂を見上げれば、立派な高層建築であることに驚く。
これだけ大きなものを上に伸ばし上げた建築技術は、こちらの世界でとなると、やはり人ならざる者達の手によるものなのだろうか。
「ネアは、大聖堂に来るのは初めてだったな」
「はい。ここには魔物さんが多いそうで、ディノに禁止されていました。個人的な活動をしていた際にも、ここに居る魔物さんは高位な方に違いないと思い、転職先誘致には出向いてませんでしたし」
「転職しようとしていたのか……」
「信仰の魔物さんは、祝祭の季節だけこちらに住まわれているんですよね」
「教会の一般を取り仕切るのはガーウィン領なのだが、信仰の魔物は、各国、複数の歌乞いと契約している変わり種の魔物であるらしい。大きな祝祭を回り、その祝祭に寄せられる信仰を食して生きているそうだ」
「信仰を食べる……」
初めて聞く響きにネアは眉を顰めたが、エーダリアの言葉は簡単なものだ。
言葉通りの不穏な意味に捉える必要がないのか、そもそも信仰は食べられてしまうのが常識の世界なのかが分からないまま、後でディノに教えて貰おうと考え、ネアは小さく頷いた。
「しかし、お前の魔物にも苦手なものがあったのだな」
「苦手の理由如何によっては、私もとばっちりを食わないといいのですが……」
「大丈夫だ。教会側の者達もいるので、お前はあまり前面に出ないようにさせる。とは言え、今回の探索と捕縛は公式な任務だ。引き渡しの場にお前が立ち会わないというのは、どうしても難しかったのだ」
「ご調整いただいていたのですね。有難うございます」
「高位の魔物の守護は、場合によっては諸刃の剣でもあるからな……」
エーダリアがそう言うのは、ネアがかつて、黄菊の魔物に襲撃されたことがあるからだという。
送り火が捕獲されたと聞いて大聖堂前の広場に集まってきた群衆の中に、もし、ネアという歌乞いがディノを縛っていることを好ましく思わない人外者が隠れていたら、何が起きるかは想像もつかない。
「そのような危険にまでご配慮いただくようであれば、やはり、ディノを連れてくれば良かったですね」
「いや、同行していればやはり目立つからな。今回は、私達とお前だけで良かったのかもしれない」
今回の一件では、教会側の要人も大聖堂を訪れており、何かと動線の確認が必須なのだそうだ。
そのような背景を聞けば、案外、ディノの不在にどこか安心していた様子があったのは、教会側に望ましくない情報が洩れる懸念を回避出来たからなのかもしれない。
大聖堂の中には既にダリルが先んじて入っており、表だった交渉は全て彼が行うのだとか。
転移で気軽に運び込めるのにこのような物々しい護送劇になったのは、政治的な要素が強いのだろう。
そう思って見上げれば、窓の外の大聖堂は陰鬱な大きさにも見える。
グレイシアが倦厭するのも少しだけわかるような気がして、隣りの彼の頭を撫でてやった。
嬉しそうに頭をこちらに傾けるグレイシアに、その正面のヒルドの眼差しが冷やかになる。
鬼教官は最後まで厳しい方針を貫く模様だ。
「お待たせいたしました」
ようやく馬車の外から声がかかり、ヒルドが扉を開く。
ウィーム領の騎士達と、グラストの部下の騎士達。そして、聖職者とわかる服装の男性が五人。
聖職者の服装ではあるが、甲冑を纏っているので教会側の衛兵なのだろう。
鹿角の魔物には、彼女に仕えた七人の弟子がいる。
一番弟子こと、彼女の歌乞いであった青年は亡くなっているが、
残りの六人が後に有力聖職者となり、彼等の私設軍や各地の義勇兵等が、今日の教会組織での軍事力として引き継がれている。
あくまで、教会施設の警護と要人聖職者の護衛しか許されていないが、塔とはまた違う魔術系統が構築されているのだそうだ。
要するに塔と教会は、競合にはならないが決して仲が良くもない間柄となり、
ウィームの領主がガレンエンガディンのエーダリアである今回、
教会側は教え子と呼ばれる、教皇相当の人物をウィームに送り込んできていた。
(だから、私を連れてきたのかな)
いつものエーダリアの方針であれば、ネアもお留守番でも良かった筈だ。
あまり政治的な舞台に出してしまうと、ディノという存在の異質さが際立ってしまう。
それなのに駆り出されたのは、ガレンエンガディンと教え子の橋渡しとして、ネアが必要だから。
塔が庇護し、教会が聖人とする歌乞いは、彼等の良い緩衝剤になる。
ましてや今回の歌乞いは、そのどちらもが傅く必要のない薬の魔物の主人だった。
石畳にまで敷かれた青い絨毯を踏んで、ネア達は大聖堂の中に誘導された。
大きな薔薇窓のステンドグラスに、見上げた天井の高さに圧倒される。
ネアが見慣れた世界の聖域にはない、奇跡が奇跡として容易く実現する空間はあまりにも張りつめている。
大聖堂の中には、様々な人々が溢れていた。
聖職者に騎士、魔術師に魔物達。
その全てがどこか値踏みをするように、ヒルドの隣に立ったネアを観察する。
このような視線に慣れてはいなかったが、自分を庇護してくれている人たちの為にも毅然としていようと、ネアは思った。
「お疲れ、ネアちゃん。よくこんな短期間で捕まえてきたね」
大聖堂の祭壇前、最奥に辿り着いたところで、そう声をかけてきたダリルは、明らかに要職にあるに違いない聖職者に寄り添っている。
何とも熱心な眼差しで見つめられているので、ダリルの信奉者だろう。
この代理妖精の美貌は、このような場でも武器となるのかと、ネアは感嘆した。
人ならざるものの美しさは、もう充分に一つの武器なのだ。
打ち合わせ通りにネアは一礼して、後退する。
声を発することで機会は与えず、送り火の魔物を手渡せばこの寸劇はおしまいだ。
教会側の一団に引き渡される際に、グレイシアが悲しそうにこちらを振り返った。
捕獲したての頃のように泣き言を言わないのは、大聖堂に戻った段階で祝祭へのカウントダウンが再開し、少し大人になったのだろう。
成長過程の青年のようだと思った魔物はその通り、イブメリアの祝祭の夜をピークに盛衰する魔物なのだという。
付添いと共に、グレイシアが聖堂の地下にあるという自宅に消えてゆく。
今回はきちんと職務を果たすという覚悟を決めて戻ってきたので、檻や鎖は免除して貰えるそうだ。
ボスになってしまった手前、その恩赦にネアは安堵した。
(良かった。これでやっと、街もみんなも一息つける)
そう思って、身を返そうとしたとき。
「そなたがヴェルクレアの新代の歌乞いか」
帰る筈のネアに、儀礼的な空気を読まずに話しかけてきたのは、ダリルの横の聖職者だった。
特徴的な宝冠と杖があるので、どうやら彼が教え子であるようだ。
教会の最高権力者が、ドレス姿の妖精に骨抜きになっていると考えると、色々複雑な気持ちになる。
「ネア、と申します、教え子様」
「ふむ。……そなたの魔物は、ここにはいないのだな」
「はい。このように格式高い場所はあまり好まない魔物なのです。何しろ、薬の魔物ですから」
「確かに薬の魔物の地位は低いが、鹿角の聖女様に繋がる、癒しの技の系譜。今回も良い手柄を立ててくれたのだ。恥じずに精進なされよ」
魔物の意志であればやむを得ないなと呟き、教え子はネアを労ってくれた。
すぐ隣に立つエーダリアの顔が笑っていないのは、ネアがガレンエーベルハントに属する歌乞いだからだろう。
教え子に褒められてやる義理などないと言いたそうだ。
「あたたかなお言葉をいただき、有難うございます。引き続き精進いたしましょう」
儀礼的な品位と、線引きと、魔物を従える者としての尊大さと。
このような場での演出は大変に難しい。
ネアは教え込まれた言葉のストックを引き漁り、何とか会話を終わらせる。
やっと帰れるのかと安堵しかけたとき、ひょいと教え子の背後から顔を出した者がいた。
「愛し子だ!」
「本当だ、愛し子だよ、レイラ様」
(高位の妖精だ……!)
ヒルドやダリルと同じ、人型の妖精だ。
良く似た二人の妖精は、蒲公英のような鮮やかな黄色一色で目を射る。
鎖骨あたりまでの可愛らしい巻き髪に、太陽の欠片のような鮮やかな羽。
羽の形状が少し丸みを帯びているのは、女性型の妖精の羽が蝶に由縁するからだろう。
対する男性型の妖精の羽は、蜻蛉の羽に似ている。
「本当だね。その娘は迷い子のようだ。それに、けったいな守護を持っているね。魔物の守護だけではなく、シーの庇護も得ている。あまり綺麗じゃないが、何しろあのお方のお気に入り」
妖精達の後から現れたのは、真っ直ぐな白茶の髪を耳下で揃えた、どこか男性的な強靭さを誇張した美しい女性だった。
服装は完全に貴族の男性のものであり、男装の麗人と言えばいいのだろうか。
こうして並ぶと、ダリルとは紳士淑女の鏡合わせの絵のように見える。
「……レイラ様!」
慌てたような教え子の声に、その女性は片手を雑に振って小さく笑った。
先程までは観衆を従わせる圧を放っていた教え子が、一瞬で付き人のようにその立ち位置を変える。
「心配ない。見てみたかったのさ、悪しき魔物ばかりを惹き寄せるこの歌乞いを」
「…………悪しき、魔物でしょうか?」
「ニコラウス、この娘には決して手を出してはならないよ。娘自体は脆弱だが、嵐の目のようなもんだ。下手に手を出せば、辺り一面を瓦礫の山に変えちまう。魔術に愛されたものしか、魔術に愛されたものを掴むことは出来ない。エーダリアくらいしか、この娘の手綱は取れないだろうね」
レイラという名前の女性は、どこか出来の悪い息子を宥めるように、ニコラウスと呼んだ教え子の頭を撫でる。
会話を振られたエーダリアは、短く頭を下げて返答とした。
その返事に尊大に頷き返して、レイラは、黄色い二人の妖精の間をすり抜け、ネアの目前に立った。
両手を腰に当てて体をかがめると、まじまじと正面から不躾な視線を向ける。
鈍い色彩の筈なのに、鶯色の瞳はどきりとする程に強い。
ああ、これは魔物だと、その色彩を見て納得した。
(…………これが、信仰の魔物………)
「あの方を困らせる為だけに籠絡してみたいが、私の食指は動かないね。ニエ、テイル、可愛がってみたいかい?」
(…………ん?)
「ふふっ、目をまん丸くしちゃって可愛い!」
「夜霧の結晶みたいな目で、お肌もすべすべだし、遊んでみる?」
レイラの問いかけに、二人の黄色い妖精が声を弾ませる。
どうも厄介なテーブルの上に乗せられたようだぞとネアが渋面になると、
ばさりと背後で羽を打ち振るう音がした。
きゃっと小さな声を上げて、黄色い妖精達はレイラの背中の影に隠れてしまう。
そっと後方を見たネアは、ざわりと羽を光らせたヒルドの姿にまた視線を前に戻した。
絡んできた全員が女性なのは解せないが、ヒルドが上手く追い払ってくれたようだ。
ディノが居ない今日は、ヒルドがくれた耳飾りもつけてきている。
信仰の魔物のご寵愛の妖精達が、羽を失う日が来ないことを祈るばかりだ。
「申し訳ありませんが、彼女はあなたがたの文化には慣れていらっしゃらない。退出させていただきますよ」
「王都で、寵愛栄華を噛み砕いたくせに、お前はちっとも遊び心がないね。シーでありながら人間の奴隷になるなんて、何て愉快な奴なんだろうと思ったのに」
「好んで奴隷になったわけではありませんので」
ヒルドの微笑みには一片の揺らぎもない。
けれどもエーダリアは氷のような目になったし、ネアはネアで、うっかり転んだふりをしたりして、目の前の男装の麗人を殲滅してしまっては駄目だろうかと考えてしまう。
彼が揺らぐ筈もないという信頼と、身内のものを損なわれた怒りはまた別のものだ。
「嫌だな、レイラさん。こっちの妖精が手に入らなかったから、今度はあっちの妖精?」
弄うような声が割り込んだのはその時だった。
初めて眉を顰めた信仰の魔物の肩に、我が物顔で手を絡めて、ダリルがその美貌を惜しげもなく咲き誇らせて笑う。
興を削いだ男を諌めるように、嫣然とした微笑みにはどこか容赦のない棘が潜んでいた。
「ネアちゃん、この子昔はすっごい堅物でね。私のことが大好きだったんだよ。二百年くらい前まであんなことも知らなかったのに…」
「黙れ、ダリル!」
柳眉を逆立てたレイラに襟元を掴まれ、がくがくと揺さぶられながらも、ダリルは悪女のように声を上げて笑う。
「あーんなことをされただけで真っ赤になってたのにねぇ?ネアちゃんはどう思う?こんな風に大人ぶってるとさ、何だか苛めたくなるよね?それとも、これはネアちゃん的には可愛くない女?」
「やめろと言っているんだ、ダリル!!」
何やらものすごい修羅場めいてきた混戦ぶりに、謎に参戦させられたネアは突き放すように微笑んだ。
「私の恋愛情緒は、比較的平坦な土地で育ちましたので、ダリルさんの色事の趣味はわかりかねますが、大聖堂の中で不謹慎な発言は慎むべきでしょう。それに、過去は掘り返さないのが良い殿方の条件です」
「……ネアちゃん、自分の周りをよく見てみて?平坦だと思う?」
「何でしょうか。私が変態のお世話係だとでも言いたいのですか?」
人間には時と場所を選ばずに、戦わなければいけない瞬間がある。
大人しく観客寄りに徹していたかったのだが、この誤解を衆人環視の只中で放置出来る筈もない。
「言うも何も、ネアちゃんがいなけりゃ成り立たない病気だからね」
「私は、その木が育つ土壌の土だったわけではありませんよ。む、……邪魔です!」
そこでネアは、ダリルに向けた視線をぱたぱたと遮った何かを手で払いのけた。
払われたなにものかは、そのままぽとりと床に落ちて動かなくなる。
会話を続けようとしたネアは、ほぼ全員の視線が床の上に向いていることに気付いた。
(…………おや、)
みんなが見ている床の上を見てみると、
以前にも見たことがある漆黒の蝶が儚く絶命していた。
確か血を狙う害虫だったというし、特に問題があるとも思えない。
なぜみんな黙るのだろうと、ネアが首を捻っていると、レイラがぽつりと口を開いた。
「……それはユレムという精霊だ。深い森と、ごく稀に欲や怒りの凝る場所にも派生する」
「はい、存じております。駆除するのは二度目ですから。しかし、大聖堂の中に発生するとは、何だか悲しいことですね」
「…………二度目?」
「叩くとすぐに死んでしまうのですが、良い薬の材料になるんですよ」
拾って帰ったらボーナスになるだろうかと、手を伸ばして拾い上げようとしたら、慌てたヒルドに阻止された。
なぜ今更止めるのだろうと見上げると、無言で強く首を振られる。
周囲はなぜか、異様な沈黙に包まれていた。
「ヒルド、顔合わせはもう良いだろう。歌乞いを連れて、先に退出していてくれ」
「承知いたしました」
重々しくエーダリアが宣言し、優雅に頷いたヒルドは、さっとネアを抱えるようにしてその場から退出する。
退出の挨拶をする間もなく持ち出されたネアは、遠ざかってゆく床の上に置き去りのままのユレムを目で追い掛けた。
とても勿体ないので、エーダリアあたりが回収してきてくれるといいのだが。
その場合には、報酬は折半でも構わないと言っておきたかった。
(…………あれ?)
遠ざかる視界の向こう側に、ふと、見覚えのある顔を見た気がした。