狼の魔物とお風呂
送り火の魔物を回収したネアは、獣を家に入れる際の初歩的確認から始めることにした。
「手足は綺麗ですか?大丈夫なら、そのまま浴室に案内するので、お風呂に入りましょう」
外にいた獣をこのまま屋内で自由にする訳にはいかない。
「……何でお前と?」
ぼさぼさ前髪の下から真っ赤になって言い返してきたので、笑顔で切り捨てる。
「獣姿ならともかく、人型のものと一緒に入浴する趣味はありません。一人で体くらい洗えますよね?」
「………ネアは、冷たい」
ようやく名前を覚えたらしく、怒ったような声で小さく呟く。
「何か仰いましたか?」
「……一人で入れる」
「いい子ですね。きちんと頭と尻尾も洗うのですよ?もし大変だったら、尻尾だけは洗ってあげましょうか?」
「駄目だからね」
欲望を隠しきれずにそう提案すると、ディノがすかさずそれを阻止した。
「尻尾を自分で洗うのは大変なのでは?」
「そうだ。尻尾くらいは洗うべきだ!」
「黙ろうか、グレイシア」
「……お前、何で俺の名前を知ってるんだ?」
この屋敷に戻ってから、ディノは擬態を解いて白い魔物に戻っているのだが、送り火の魔物は特に怯えた様子もない。
白色の意味を知らない子供なのではと、ネアは先程から訝しんでいる。
もしくは、あの前髪で見えないとか。
(いや、流石にちゃんと見えてるよね……)
鬱陶しいので、機会を見て切り捨ててやるつもりだ。
そう考えて鋏をジャキジャキしながら浴室の前に立っていたら、ディノに鋏を回収されてしまった。
「ディノ、鋏を返して下さい。例えお洒落であっても、あの前髪はいけません」
「ネア、下位の魔物の髪は、魔術を編むのに必要なんだ。爵位持ちなら兎も角、あの階位のを切ると祝祭もこなせなくなるよ」
「……そうなんですか?ディノも?」
「私は特に支障はないだろうけれど、魔物は生まれた時から姿を変えないからね。この髪も短かったことはないな」
「成る程。あのぼさぼさも切ってはいけないんですね。……頭頂部で一つに結ぶか……」
「ネア、もっと色々な髪型があると思うよ……」
送り火を連れて食事に行くと狩られてしまうかもしれないので、ネアは今晩も夕食を作ることにした。
下拵えを済ませるとちょうどいい時間だったので、タオルを手に浴室に向かう。
けれどそこでも、尻尾を拭いてやろうとしたネアの企みは阻止されてしまった。
無言でついて来たディノが、魔術で水気を一気に飛ばしてしまったのである。
こうなるともう、ブラッシングしか手はない。
「………綺麗になりましたね」
シャンプーした毛並みは、光るような漆黒の艶を取り戻し、送り火の魔物ことグレイシアは、面立ちはよく分からないままだが、とても綺麗な魔物になった。
丸まった背筋を伸ばせば、僅かにディノよりも背が高い。
見上げていると首が折れそうだ。
「グレイシアさん、ブラッシングしてあげましょうか?」
「……してもらう」
「ネア!」
「ディノはしょっちゅうしてあげているではないですか。一晩くらい、私を毛皮担当にしてくれたっていいと思います」
攻防戦が繰り広げられる背後をよそに、グレイシアはぶるりと身を震わせると、大きな漆黒の獣の姿に変わる。
「………これは!」
ぱっと振り返って目を輝かせたネアに、ディノは額を押さえて呻いた。
「こんな素敵な獣姿にもなれるのですか?」
「こっちが元々の姿。祝祭が近付くと、人の形になるんだ」
「そうなんですね。ちょっと待っていて下さいね、ブラッシングの前に着替えてきます!」
声を弾ませてそう言ったネアの発言に、ディノは不審そうに目を細めた。
「ネア、………どうしてその服に着替えたの?」
「せっかく上等な毛皮の塊と触れ合うんです!毛皮を楽しめるよう、布面積を狭くしてきました」
ネアが着ているのは、はしたなくはない程度に扇情的な、丈の短い浴室着だ。
ウィームには時々温泉が現れるので、共用の温泉に入る用に、仕立てて貰った。
あまり肌を露出する文化はないが、温泉となると人々はこの程度に倫理観を緩めてくる。
「その服、めったに着ないやつだよね?」
「ディノは一緒に温泉に行ったのですから、見たことはあるでしょう?これから浴室の控え間で獣のブラッシングをするのですし、今更驚くようなことでしょうか?」
「ネア、開口一番で本音を喋っちゃっていたからね」
「む。………獣を梳かしたいのに」
「尻尾だけ。それと 、梳かしている間は、私を椅子にすること」
「何故ご褒美を差し込むのですか。そして、この服装で、ディノを椅子に?」
「ネアは、その服装でグレイシアを梳かそうとしているんだよね?」
「ディノの膝の上に乗っかるには、常識的にいささか布地が足りません」
「ネア。では、それを着るという前提から考えなおそうか」
「……毛皮」
毛皮の塊とディノを交互に見やり、ネアは倫理観の方を捨てることにした。
送り火の魔物を保護しているのはこの一晩だけだ。
毛皮と戯れる野望は二度と果たせないかもしれない。
それにこの程度の服装ならば、元の世界では特に支障がなかった程度だ。
ミニスカートにタンクトップではないか。
とことこと尻尾に向かえば、やるんだとディノが呻く。
男前に手で指し示して、早く椅子になるように指示した。
グレイシアは尻尾を揺らして、構って貰える喜びを表している。
と言うより、表れてしまっている。
「ディノ、筋肉が限界を感じたら椅子を解除して構いませんからね」
「一晩くらい問題ないよ」
「一晩も椅子にはしません。それと、肌の部分をあまり触らないで下さい。擽ったいですよ」
ディノもディノでせっかくの機会を楽しむことにしたのか、やわやわと肌に触れてくる。
ご主人様を擽るという魂胆だろうが、残念ながらご主人様は尻尾を抱え込んで夢中でブラッシング中だ。
こんな敷布団があればいいのにと、いささか物騒なことを考えている。
「グレイシアさん、あんまり尻尾を振ると上手く梳かせませんよ?」
「お、俺は尻尾なんて振ってない!」
「はいはい。……ディノ!肩への口付けは禁止です!」
「定期的に構わないと、ネアこっちのこと忘れてるよね」
「くっ!我が儘の助め!!」
それから暫くの間、ネアは椅子と格闘しつつ、ブラッシングを楽しんだ。
大変に立派な尻尾であったので、これだけでこの獣のボスになれたことを誇りに思う。
「はい、終わりですよ。グレイシアさん」
「喉のところも」
「確かにそこも、もしゃもしゃですが、今回は一部分への許可しか下りませんでした。また機会があれば梳かしてあげます」
「……明日もお風呂に入る」
「日々の入浴は大事ですね」
明日の夜の入浴がどこで行われるのかは謎だが、ネアは曖昧に頷ける大人であったので、微笑んで頭を撫でてやった。
尻尾を床に広げてぺたんと伏せをした状態のグレイシアは、高貴な狼そのものだ。
「それにしても、送り火の魔物さんが狼さんとは。……毛皮が燃えそうで心配ですが」
「この毛皮が燃えるものか!」
「ネア、火の魔物は基本的に燃えないからね」
「そうなんですね。……さて、グレイシアさんはお部屋にいていいですよ。さすがにその大きさで厨房に来られると、毛の混入が心配です」
「人型になる」
「ではお手伝いでもしますか?」
「してやってもいい」
「その前に一度、魔物の領域について教育をしてあげよう」
食事前にディノに連れて行かれてしまったグレイシアを見送りつつ、ネアは手を洗って着替えをした。
この身から毛を持ち込むわけにもいかない。
話し合いをしている部屋が気になったが、ディノも年下の教育にあたるのは良いことだろう。
誰かに教えることで、人は成長するものだ。
その後、晩餐のテーブルについた送り火の魔物は、完全にボスを見る目でディノを見ていた。
ふるふると震えながら玉ねぎ抜きのスープを啜る様は、何だか庇護欲をそそる。
ネアは引き続き魚をいただくが、イヌ科の前には肉やチーズのメニューを増やしてやった。
「……送り火だけ特別扱いなのかな?」
「ディノは私とお揃いです。何か不満がありますか?」
「……ご主人様とお揃いでいい!」
「俺も、魚も食うぞ!」
「グレイシアさん、こっちには玉葱がいます。毒物になるので食べてはいけませんよ?」
時折、視線でディノがグレイシアを牽制しているが、少しうっかり者なのかグレイシアはすぐに忘れてはしゃいでしまうようだ。
後ろ向きで捻くれているくせに、このような無邪気さがお馬鹿で可愛い。
(そして、ディノもきちんと上下関係をつけたみたい)
管理が徹底出来れば、牽引の際にも楽だろう。
最高調教師に違いないヒルドの手を借りる必要もなさそうだ。
食事が終わり就寝の時間になると、グレイシアは一人で寝るのが嫌でキュンキュン鳴いた。
最初は可愛かったが、真夜中も過ぎると睡眠の邪魔になったので、ネアは寝室の扉の前に蹲って居たグレイシアの脳天に一撃の手刀を入れ黙らせる。
「ハウス!お部屋に戻りなさい。一人で寝れないなんて、一体幾つなのですか!」
「………ネアは冷たい」
涙目で戻って行く大きな獣を見送ると、ネアは深い溜息を吐いて寝台に戻る。
「……む」
いつの間にか忍び込んだのか、魔物がネアの毛布に包まって寝ていた。
薄く目を開けてこちらを窺うので、確信犯だ。
「ディノ、毛布を返して下さい。こっちにくるなら、自前の毛布を持ってきて下さいね。私は、自分の領域を譲れる程心が広くありません」
「……いいの?」
「何でそんな驚くのでしょう。これでも私は、ディノにはかなり優しいつもりですよ?」
さっと手で指し示して、自分の巣から毛布を持って来るように命じれば、ディノは顔を輝かせて素早く取りに戻った。
その隙に自分の毛布を取り返し、無事に体に巻きつける。
ぼふんと寝台に落ちて、あっという間に眠りに戻る。
巻きつけた毛布ごとディノに抱え込まれる気配があったが、安眠妨害ではないので許してやることにした。