エーダリア
婚約破棄の裏側
私は、エーダリア。
十八の歳で、魔導師として第二王子としての名前を手離し、今は只のエーダリアだ。
魔術の誓約の複雑さは、余分を許さない残酷なもの。
国名を記す続きの名前は、下手をするとこの国そのものを、私の魔術に巻き込んでしまう。
だから、血脈を繋ぐ大袈裟な名前も捨てた。
そもそも、私が王子としての身分を捨てたのは、国という悪しき慣習の犠牲になるのを辞めようと決意したからである。
現国王は良き王であるが、国という組織そのものが、元より善良なものではない。
国とは揺るぎなく、狡猾で理性的なもの。
そして、無垢な国民達に作り物の優しい微笑みを向ける、大いなる母親となるのだ。
同じ国に仕える者でも、王族というくびきから自由になれば、他の者達と同じだけの自由が与えられると思っていた。
勿論、他の要職にある貴族達と同じ程度の自由で構わない。
けれど、腹違いの弟が婚約者である歌乞いを亡くしたその夜、
国王は、次の歌乞いを私の婚約者とせよと、声を発した。
なぜ、と問い返したような気がする。
私は私の人生の一部を、この能力で勝ち取ったのではなかったか?
あの牢獄から抜け出し、せめて息のつける場所へ逃げ延びたのではなかったのか。
王の説明は簡単なもので、
次の歌乞いは早逝しないよう、お前の魔力で補填しろというものだった。
そんな勅命を帯びて、新代の歌乞いを探し出し、見付けた少女を見て愕然としたのは私だけではなかった筈だ。
今回の任務で私の護衛となった歌乞いと、その契約の魔物さえも呆然としていたのだから。
「エインブレア、………人違いではないのか?」
美貌も才能も、特別なものの欠片も見出せない凡庸な少女を見送り、私は机に項垂れるようにして肘をついたまま、託宣の巫女に問いかける。
けれども、巫女は他人事と言わんばかりに笑うばかりだ。
「さて、この上なくみすぼらしい国の顔となるだろうが、私は託宣に従っただけだよ。あれが、この国に益をもたらす歌乞い。わかるのはそれだけだ。だから、死のうが生きようが、あの娘はいい道具になるのさ」
巫女が王都に帰った後も、その言葉が耳に残った。
託宣は、言葉の魔術の道標。
そうであれば、確かにあの少女は国に必要な人間なのだろう。
だとすれば、私が手をかける必要もなく、運命が勝手に彼女を導くだろう。
或いはその死こそが、彼女の意味となるかもしれない。
哀れだとは思うまい。
出会ったその瞬間から私の婚約者となったとは言え、所詮、見知らぬ少女なのだ。
私の心を動かしもしない己の凡庸さは、彼女が背負うべき責任ではないか。
そんなことを考えながら酒でも呷ろうかと思い立ったとき、
敷地内に重大な魔術の異変を感知した。
「何事だ?!」
声を上げれば、護衛の歌乞いが部屋に飛び込んで来る。
「ゼノーシュ!これはどういうことだ?」
壮年の騎士である歌乞いの問いかけに、彼の契約の魔物は、いつもは眠たげな眼差しを呆然と見開いて、ぽつりと答える。
「他の魔物が守護を展開したんだよ。あの歌乞いが、魔物と契約したんだ。………こんなに大きな力、僕はアリスの魔物でも見たことない」
「…………待て、それは、あの歌乞い………ネアが、アリステル以上の魔物を捕らえたということか?儀式もせずに?」
気紛れで奔放。本来、主人ではない私に答えることは稀であるゼノーシュが、多分ねと答える。
「アリスの魔物は伯爵だった。今、向こうの離宮にいる魔物は、もっと上の爵位だと思うよ」
「エーダリア様、取り敢えず様子を見て来ましょう。ゼノーシュ、私が戻るまで、エーダリア様を護って差し上げろ」
このリーエンベルクの騎士団長でもあり、私の剣の師でもあるグラストは、そう言い残し素早く部屋を出て行く。
想定もしていなかった事態に放念していたが、魔術師である私の護衛で、魔物を無駄使いする必要はない。
あの歌乞いの魔物ならば、それは国家の鎖に繋がれた獣なのだから。
………そうあることを、願うしかない。
そうして駆けつけた離宮で、私はグラストを文字通り摘み出している魔物に出会った。
長身で大柄なグラストの首周りを掴み上げ、子供を持ち上げる大人のようにしている。
視線がこちらに向けられた瞬間、私は戦慄した。
その魔物は、白持ちだった。
そして、その属性を示す色彩の、ありとあらゆる色を持っている。
「おや、君がネアの婚約者か」
ひたりと、美しい声が落ちた。
深淵の雫にも似た、眩いばかりの闇色の声。
魔物は微笑んでから、グラストを投げ捨てると、ゆっくりとこちらに向き直る。
「困ったことだ」
一刻も早く、説明しなければいけない。
国の顔たる歌乞いは、その権威が王室から離れて増長しないように、国に紐着く必要がある。
それがこの契約としての、婚約の意味だと。
契約した魔物の領域を侵すものでは、決してないのだと。
それなのに、目の前の魔物から目が離せなかった。
指先が震え、喉が音を発せない。
ふわりと微笑んだ目の前の魔物が、明確な悪意をこちらに向けているから。
(…………その悪意すら、戯れだというのに)
恐怖と羞恥に顔が歪んだのだろう。
少しだけ揺れた体が、視線をほんの僅かだが逸らしてくれる。
その瞬間に見てしまったものは。
「権力者への威嚇はやめなさい!」
拾ったばかりの凡庸な少女が飛び上がり、背の高い白持ちの魔物の頭部に躊躇いもなく手刀を叩き込んだ。
(白持ちに害を為すなど、何て愚かな!国の終わりだ……)
それが、その夜見た最後の光景だった。
翌朝、目を覚ますとなぜか、付き添っていたらしいグラストに、もの問いたげな眼差しを向けられた。
疑問を覚えながら執務にあたれば、召喚した新米歌乞いから、昨晩の暴挙はあの魔物の怒りを買うこともなく、魔物は逆に喜んだだけだったと告白される。
グラストが摘み出されていたのは、彼女が就寝しようとしたところで呼びかけに返事がなかった為、慌てて部屋の扉を開けたかららしい。
魔物は彼を、睡眠を妨げる邪魔者だと判断したようだ。
そして、言葉を切ったヴェルクレアの新代の歌乞い、ネアという名前の少女は、妙に期待を込めた子犬のような眼差しでこちらを見ている。
「ディノの顔面がお倒れになるくらい好みでしたら、是非に差し上げますので引き取ってくれませんか?きっと、エーダリア様のちょっと鋭利めな性格なら、ディノも従順でいい椅子になると思います!」
顔面が、………好み?
いや、……………椅子?
椅子?
呆然としてグラストの方を窺えば、見たこともない早さで顔を背けられた。そしてその日以降、随分と長い間、グラストは私の目を見てくれなくなった。
後日、王命に背く覚悟で私が彼女との婚約を破棄したのは、会う度に、私とあの白持ちの魔物を結び付けようとするからだと、ここに告白しておこう。