ネアハーレイ
こちらが、薬の魔物の解雇理由の入り口、どんな物語なのかなという覗き窓のような最初のお話です。
薬の魔物の解雇理由の前半は、複数視点のオムニバス形式で書いていた作品を長編に編纂したものですので、様々な登場人物視点のお話と、本編的なものが織り交ぜられています。
物語の最初の頃は、場面によって時系列が前後することご容赦下さいませ。
「ご主人様!」
弾むような声は、震える程に美しい。
嬉しそうに手を振っているのは、白蝶貝を思わせる涼やかな純白に、虹色の色味を乗せたような長い髪を持つ男性だ。
ゆるやかに編んだ一本の三つ編みを揺らしてこちらに歩いてくる姿は、これだけ見慣れた今でも、背筋がひやりとするくらいの凄艶な美貌である。
もっとも、実際に彼の足元の花が見る間に咲き誇り枯れていったので、魔術的な影響が発生している可能性もあるのだろう。
これは、理そのものに異変をきたす特等の魔物なのだ。
冬の気配のする青白い地面には無垢な新緑の芽が芽吹き、瑞々しい緑の葉を茂らせては艶やかに花を咲かせて枯れ落ちてゆく。
しゃりりっとした淡い水色に煌めくのは鉱石の花で、小さな薔薇のような花を膨らませていた。
見ているだけなら溜め息を吐きたくなるくらいに美しい光景だが、いつもは周囲を飛び交うぽわぽわした妖精達が不穏な気配を感じ取ったのか木々の影に身を潜めているようだぞと気付けば、この魔物は上機嫌という訳ではないらしい。
諸事情により真名を隠して運用中のネアこと、ネアハーレイは、その迫り来る脅威に対して速やかな渋面となった。
美しい契約の魔物がこんな微笑みを浮かべる時は、決まってネアに、何らかの危険が迫っているときなのだ。
こちらにいる人間があの手この手で逃げ出そうとするからか、この美貌の魔物は時々、ネアが自分の管轄下にあることを主張する為に、こうして魔物らしい微笑みを浮かべる時がある。
なお、そのことを指摘すると悲しげにぺそりと項垂れてしまう魔物曰く、この行為は決して策略などではなく、単純に大好きなご主人様を慕ってのことであるらしい。
たいそう怪しい主張である。
ディノは、薬の魔物だ。
顔色一つ変えず、ネアはいつもそう宣言する。
さっと顔を背ける者、わかりやすく眉を顰める者、必死に首を振り続ける者、様々な反応がある。
でも、ディノは薬の魔物。
この世界で、歌乞いと契約出来る魔物の中でも、最弱かつ、生活密着型の便利な魔物。
この美しい魔物がもし言葉の通りの脆弱な魔物だったのならば、ネアは、ディノをそれはそれは大切にしただろうし、決して手放さなかっただろう。
だがしかし、現在のネアは、絶賛転職活動中なのである。
後ろ盾もない見知らぬ世界で政治的な思惑などに巻き込まれることのないよう、堅実で平均的かつ、一緒にいて楽しい契約相手兼相棒を切実に探している。
だがその企みは、なぜかいつも露見してしまう運命にあるらしい。
(ディノの髪の毛を縛ってるリボンは、私が他の魔物さんにあげたものなのでは…………)
今日もまた頭の痛いものを見つけてしまい、ネアは遠い目になる。
ディノの真珠色の髪で揺れる幅広の紺色のリボンは、手触りのいい天鵞絨のもの。
先日貰ったばかりの初めての自分のお給料から購入し、いい感じに草臥れた生活感のある、道端で発見した素直で可愛い魔物に、昨晩貢いだばかりの筈だったのだが。
しかしそのリボンは今、目の前の契約の魔物の三つ編みの尻尾に、こんなにも凄艶な見た目に反してリボン結びが上手に出来ない魔物らしく、縦結びになって鎮座している。
「ディノ、私が絶賛勧誘中の煉瓦の魔物さんを、どうしてしまったのでしょう?」
開口一番そう問いかけると、ディノはネアの髪を一房手に取りながら、魔物らしい老獪で美麗な微笑みを浮かべた。
ばしりと手を叩いて、ネアが自分の髪の毛を解放すれば、ディノはますます嬉しそうに笑みを深める。
なぜに叩かれた手をうっとりと眺めるのか、誠に解せない。
「今日もネアは可愛いね」
「その耳が飾り物なら、一度、この離宮の医術師さんのところへ行かれては如何でしょう」
「うん、君はやっぱり可愛いね」
「煉瓦の魔物さんは、今どこに?」
そう問いかけられたディノは、慈愛に満ちた微笑みをこちらに向ける。
ただでさえ、高位になればなるほど美しい魔物の中の特等。
滴る色香は、慣れない者なら昏倒する程であるし、実際にネアの元婚約者は、ディノを見た瞬間に昏倒してしまったくらいなのだ。
そちらのご趣味でしたかと手を合わせたのはほろ苦い思い出であるし、元王子様などという身分の人物に出会ったのは初めてだったネアとて、これでも可憐な乙女なりに夢も理想もあったのだが、そこは、現実は残酷なものだと割り切るしかない。
幸いにも、ここではないどこかからこの世界に呼び落されたネアにとっては、それそのものが大きな魔術的な負荷となりえるディノの美貌は、己の意思をどうこうされるような影響を齎すものではなかったらしい。
勿論、充分に美しくて目眩がする程ではあるのだが、不相応な恩寵だとしみじみ思うばかりで、決して、畏怖したり夢中になったりせずに済んでいる。
それはネアが、ちくちくするセーターしかないような前の世界の落伍者で、そんなセーターは嫌だと放り出して凍えながら生きていたくらいに我儘な人間だからなのかもしれないし、それとも、現実的ではない具合の激しさに庶民派の心があまり動かなかったからかもしれない。
それに、こんなにも美しく、彩り豊かで奇妙な世界で暮らしている現在は、見るだけで心を豊かにしてくれる美しいものであれば、どこにだってあるのだ。
すんと息を吸えば。甘く清涼なこの土地の空気に満ち足りた気持ちになる。
しゃりんとこぼれたのは、満開の薔薇から落ちた祝福結晶だろうか。
きらきらと光るのは妖精の煌めきで、夜空を飛んでゆく竜の姿は、決して幻ではない。
ここは、お伽話の中の世界だ。
そう思う度、助けてくれるような魔法なんてひと欠片もなかった以前の暮らしを思い、強張っていた胸の奥が小さく震える。
ここはお伽話の世界なのだから、もしかしたら、ずっと叶わなかった願いが今度こそは叶うかもしれない。
「あの魔物は、もう煉瓦の魔物ではなくなって、どこかで新しく楽しくやっているのではないかな?」
「…………私が、二度としてはならないと言ったことを、ディノは、またしてしまったのですね?」
「言いつけは守っているよ、ご主人様。だから、消してしまわないで、練り直して違う生き物にしておいたんだ」
ちょっと褒めて欲しそうにそう言われ、ネアは溜め息を吐きたくなった。
「違う生き物にされてしまったら、あの方の今までの人生…………?も思いも、全部が、なかったことになってしまうんですよ?」
「さぁ、それは私には関係のないことだから」
(そして、どんな生き物に作り直したのだ!)
ネアがなぜ怒ったのかが分からずに困惑したように首を傾げた目の前の美しい魔物は、勿論、薬の魔物などではない。
彼は本来、理を司る魔物だ。
政治的なあれこれからの保身として、ネアの命令で薬の魔物になっているのだが、本来は理の魔物なので、自分の能力と特権をこれでもかと生かし、たいそう自由に生きている。
結果、往々にしてネアが転職先にと考えた魔物達は、行方不明になることが多かった。
最初の頃は、けろりとした顔で壊してしまったと告げられたので、危害を加えることは厳禁とした。
だがしかし、今度は、存在を練り直して別のものに作り変えて遺棄してくるという作戦に変更したようだ。
練り直されたものは、本来の記憶や存在そのものが失われ、最初からいなかったことになってしまう。
その采配から逃れて彼等の本来の記憶を持ち続けられるのは、契約でディノを縛るネアだけだ。
それならば、その契約で命じるなり、契約そのものを破棄してしまえばいいのだろうと思うだろうが、そうもいかない理由がある。
歌乞いは、唱歌によって魔物を捕らえ、契約する者達を示す呼び名だ。
そして、契約の対価として、命令一つにつき一つの、契約の魔物の願いを叶えてやらなければいけない。
よって、その関わりはネア自身を削るのだ。
大いに。
そんな大袈裟なと笑う者もいるだろう。
しかし、ネアが転職先候補にした魔物達に対し、危害を加えられていないのに危害を加えてはいけないと命令した時には、一日、ディノを椅子にするという、たいへん不本意な願いを叶えさせられた。
結果としてネアの精神寿命はおおよそ一年余り削り取られ、翌日には熱を出して寝込んでしまったくらいである。
加えて、羞恥心のあまりに発熱し、たいそう機嫌を損ねたネアに八つ当たりされたディノは、終日ご機嫌だったのだと記せば、この魔物の願いを叶えるということがどれだけ危険なのかが分かるだろう。
つまり、ここにいるディノという名前の薬の魔物は、ご主人様にぞんざいに扱われることを至上としている、とても厄介な魔物なのだった。
だったら命令くらいほいほい聞いてくれればいいのだが、自分にとって都合の悪い命令ではきちんと対価をもぎ取ってゆくので、腹黒いことこの上ない。
「転職活動なんてやめてしまえばいいのに」
「私の精神は、限りなく一般的なものです。椅子になりたいとか、詰って欲しいとか、そういう趣味の困った魔物と生涯連れ添う自信がないので致し方ありませんね」
「ご主人様が冷たい…………」
「おのれ、悲しい顔をしてみせても騙されませんよ!」
だから、ネアハーレイは今日も、必死に転職活動をしているのである。
どこにも行かないで欲しいとめそめそする目の前の美しい生き物が、時折たいそう孤独で寄る辺なく見えるという秘密は、本人には絶対に内緒なのだった。
ネアがディノと契約をしてから、一月後くらいの場面でしょうか。
次のお話より本編に入ります。