第0話 「異世界へ消えた盗賊」
「はぁ……、しけてやがるな……」
窓の隙間から入り込む僅かな光だけが照らす薄暗い部屋の中を一人の男が動いていた。男の目つきは鋭く、その整った顔立ちを損なわせる為に配置されたとしか思えないものだった。その目は部屋全体を隈無く見渡し、何かを探し求めるかの様に一所に留まる事が無い。
「金目の物が何もない……、何が希代の傑物だ……」
男はため息を漏らして床を蹴ると、積もった埃がふわりと舞い上がった。
光りに照らされた埃がきらきらと光る中、その光よりも尚強く、男の瞳は不気味な光りを宿していた。
男の名前は、九条 九十九。この世に住み着くダニの如く忌まわしい存在……所謂、空き巣と呼ばれる犯罪者であった。
「こんな処があの仙石 楼賀の終の住処とはね。寂しいものだ」
仙石楼賀。希代の傑物……、魔王、帝王と幾つもの呼び名を持った政財界の大物である。
四十年前に突如表舞台に姿を表すと、その莫大な資金を元に政財界を瞬く間に掛け登り頂点を極めた。しかし、それ程の大物でありながら、その出自は謎に包まれており、死して尚話題の事欠かない人物だ。
その男の終の住処がこの寂れた洋館だというのだから、人の一生とは分からないものである。
「突然政財界から姿を消して引きこもった先がこんなど田舎の別荘とは――、誰にも見付けられなかったはずだ」
仙石楼賀が死亡した際には、世界的な大騒動となったものだが、その終の住処は誰の目にも触れる事がなかった。
そんな場所だけに、さぞや高価な品々が放置されているのだろうと期待していたのだが――、めぼしいものは何一つない。在るのは価値の低いボロボロの家具ばかりだ。こんな物を持ち帰っても二束三文にもなりはしないだろう。
「慌てて来たってのに何の収穫も無いとはな……。アイツに騙されたか?」
先日、知己の情報屋からこの屋敷の情報を入手した九十九は、これは宝の臭いがすると直感にせき立てられるままに、下調べも無しに屋敷に来た訳なのだが、どうにもハズレであったらしい。
「はぁ……」
先ほどより深いため息をつくと、身体にのし掛かる疲労感に促され、近くの棚に手を付き体重を預けた。すると九十九の体がずるりと滑る。
「っ!? 何だ!?」
棚に体重を載せた途端、石臼を擦るような音と共に棚が動き出したのだ。
「こいつは――」
何かに呼ばれるかの様に、九十九は棚が動くままに押し進めて行くと、棚の裏からもう一つの棚……隠し棚が姿を現した。棚の中には小さな小箱が一つ。それは何の装飾も無い木製の小箱で、素人の手によるだろうぞんざいな作りをしていおり、とても価値が見出せるものではない。
九十九はその箱を手に取ると蓋を開けた。
「何も入っていない? いや、これも細工があるな。秘密箱の類か」
箱の縁面に違和感を感じ、力を加えると縁が僅かにスライドする。九十九は一度スライドを戻し、箱を閉じるた後縁をスライドさせて再度開くと、先ほどまで底であった部分が蓋に固定され、隠された空間が露わになる。
「指輪が一つ、――か。しかし、大した値打ちがある様には見えないな」
厳重と言うにはお粗末な仕掛けの中に隠されたその指輪は、小箱同様に装飾一つ無い銀製のもので、日常的に身に着ける為の安物の結婚指輪に似ている。真贋を見極めるとはいかないが、その質を確認しようと窓の外から漏れる光に当てると、長い時間放置されていたはずのそれは酸化劣化もなく、鋭い光を反射させた。
その時、左手に持っていた小箱からぱらりと、一枚の折り畳まれた紙が地面に落ちた。
「何だ?」
落ちた小さな紙を拾い上げ、折り目を広げる。
「……ん? これは――」
その古い紙の右下に書き込まれた署名に九十九は驚愕した。
「仙石楼賀……」
その署名と証明印からこの紙に書き込まれている文章は間違い無く仙石 楼賀が書いたもので間違いないだろう。
彼の手書きの文章ともなれば、それだけで少なからず価値がある。或いはこの指輪など比べものにならない程に……。
九十九は更にその手紙の内容に価値が無いものかと先の文字を追う。
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この手紙が人の手に渡る時、私は既に死んでいることだろう。
手紙と共に私の最も大切な指輪をしまっておく事とする。それをこの手紙の読み手である貴君に託そうと思う。
この指輪はこの世のものではない。【異界転移の指輪】と呼ばれる、何処かの世界で作られた特殊な機能を持つものだ。
その名の通り、この指輪を身につけた者は異世界へ渡ることが可能となる。
私もまた別の世界からこの世界に渡って来た所謂、異世界人と呼ばれる存在だ。
私は元の世界に絶望し、本当に欲するものを手に入れる為に世界を渡って来た。
世界を渡る事が出来るのは一人に一度だけ。つまり、一度渡ってしまえば、元の世界に戻る事は出来ない。
この指輪の言い伝えでは、世界を渡った者は、求めたものが必ず得られると残されていた。
私はこの世界に渡ったことで、一代で巨万の富と栄誉、権力、そして何よりも求めた生涯の伴侶たる女性を得ることが出来た。
そう、私がこの世界で得たもの全てはこの指輪によってもたらされた。
私の地位も名誉も愛する人も全て、全て。
だが、私も年を取り、愛する妻も他界してしまった。
この指輪も今の私には無用の長物だ。
故にこの指輪を見つけ出した貴君に譲ろうと思う。
勿論、この指輪を売り払うも、捨てるも貴君の自由だ。
だがもし貴君がかつての私の様に、この世界に絶望し、何かを欲するならば、この指輪を使うと良い。
きっと貴君が本当に欲するものを得ることが出来るはずだ。
指輪の継承者たる貴君に幸いあらん事を。
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「これはまた――」
口から漏れ出たのはまるで呻くような声だった。
九十九も幼少のおり、小説やマンガを読み、少しばかりだがゲームで遊んだ事がある。異世界の話等、ありきたりで馴染み深いものだった。
だが、それが自信の目の前に置かれるとなると話は別である。
それも政財界の大物の手紙で語られるとなると、誰かにドッキリでも仕掛けられているのではないかと疑ってしまうのも仕方の無い事だ。
「だが、こんな胡散臭い嘘を付くような人物ではなかったはず……。それもこんな凝った仕掛けまで用意してとなると――手紙の内容を嘘と決めつけるのは早計だ」
だが、仮に手紙の内容が真実であったとして、自分はどうするべきなのだろうか?
九十九にとって、この世界は何の価値も無い世界だった。幼い頃に親に捨てられ、孤児院で同じ境遇の子供たの中で育った彼に取って、この世界は地獄そのものだった。
大人になってからも、その出自から録な仕事にも就く事が出来ず、今ではこうして他人の物を漁って糊口を凌ぐ日々である。
「俺は、この世界に何の未練も無い……」
愛するものは失われた。
欲しいものが何も無い。
信じるものが存在しない。
「なら……」
九十九は一つの選択肢を選んだ。そうすべきだから、そうするのだ。
そしてその日、九条 九十九はこの世界から姿を消した。
誰に気付かれる事も無く……。