寄生彼女
フランツ・カフカの「変身」。ある朝、目覚めると巨大な毒虫に変身していた青年とその家族の物語である。
彼の話を聞き、まず最初に浮かんだのはその小説の名だった。
「君は彼女が毒虫になってしまったというのか? カフカの『変身』のように」
「いや、違う」
私の古くからの数少ない友人、吉田はその痩せた体を抱きしめるようにして腕を組み、身体を縮ませながらゆっくりと首を振った。
「まず、詩織はそう巨大じゃない。恐らく僕の小指の先よりもっとずっと小さい。それから詩織は毒虫じゃない。強いて言うなら、そう。寄生虫だ」
「寄生虫?」
私は首をかしげ、彼の言葉を反復する。
「それは比喩かなにかか? たとえば、お前の家に転がり込んで働きもしないとか。金をせびって来るとか。そういうことか?」
「いいや違う。そんな事ありえないのはお前だって知っているだろう?」
そう、彼の言うとおり。そんな事があり得ないのは俺も良く知っている。
吉田の彼女、詩織さんは大学の同期で俺も良く知っている女性であった。彼女は賢く、美しく、そして少し嫉妬深いところのある良い女性であった。「吉田にはもったいない」「美女と野獣だ」という言葉を何回口にしたことか、もう数えきれない。それが良い女性と巡り合えた吉田への羨望や嫉妬の入り混じった言葉であることは吉田も気付いていただろう。
社会人となりお互い忙しくなっても彼女と吉田の交際は続き、結婚の話も出始めた矢先の出来事であった。
彼女が突然行方をくらましたのだ。
捜索願を出すも手掛かりは一向につかめない。仕事も吉田との交際も順調だったし、大きなトラブルもなかったらしい。
さぞ落ち込んでいるだろうと思って居酒屋に誘ってみたところ案の定ひどくやつれた吉田が現れ、近況報告と取り留めのない世間話を一通り終えた後口にした言葉がこれである。俺は半分呆れながら、そして半分同情しながら口を開いた。
「ありえないのは知っている。でも彼女が虫になったなんて、そんな話の方がよっぽどありえない。それだったらまだお前が彼女を監禁しているとか、そんな話の方がリアリティがあるだろう」
「監禁されているのはどちらかというと俺の方だ」
キンキンに冷えて汗をかいたコップに口をつけ、中身を空にするとこう続けた。
「詩織は今、俺に寄生しているんだよ」
彼女のいなくなったショックでおかしくなったのか。
私は改めて吉田をじっと観察してみた。シワシワになったシャツ、こけた頬と窪んだ目、それから血色の悪い皮膚を見ればその荒んだ生活ぶりは明らかだ。
彼女がいなくなって半年。寝ても覚めても彼女の事ばかり考えていたに違いない。そのうち彼女が自身の体の中にいると錯覚してしまったのか。
俺の体内に憐れみの感情がどんどん溜まっていく。ずいぶん小さくなってしまった友人の言葉に耳を傾けてやるのも悪くないかもしれないと思い始めた。
「……具体的に、どこに寄生してるんだ?」
「耳だ」
吉田は即答した。
「耳? 耳に寄生する虫なんて初めて聞くが」
「耳だ。間違いない。詩織の声がするんだ」
「声、か」
幻聴だ。私はそう確信した。
「今も彼女はお前の耳にいるのか?」
「いや、どうもうるさいところは嫌いらしい。俺がお前と居酒屋に行くと言ったら、いつの間にかいなくなっていたよ」
一人ぼっちの静かな環境でのみ聞こえる行方不明の彼女の声――
俺の確信はますます強くなっていく。どうやら彼を病院に連れて行った方が良いみたいだ。
しかしこういう時、人は自分が正常だと思いこんでしまうと耳にしたことがある。ここは彼の話に乗っかり、信用を得るのが先だ。
「それは残念だ。是非彼女とお話したかった」
「いや、話さない方が良いと思うね」
「なぜだ?」
吉田は空になったコップにビールを注ぎながらその虚ろな目をこちらに向ける。
「虫になってから、彼女はひどく神経質になった。もともとそう言う気質の女だったが、ますます酷くなったよ。音を立てるとヒステリックに喚くから、テレビだって見れやしない。僕の耳の中には娯楽がないから暇らしく、家にいるときはずっと話しかけてくるし、トイレにまでついてくる。限界なんだ」
もうウンザリ、といった風に吉田は左右に首を振る。これは重傷だ。しかし彼も困っているというなら助けるのはむしろ容易かもしれない。
俺は少し考えた後、吉田にこう提案した。
「やっぱりお前は病院に行くべきじゃないかな。耳に虫が入ったのなら耳鼻科で取ってもらえるはずだろう?」
吉田はしばらく沈黙の後、ゆっくりと首を横に振った。
「確かにいいアイデアだが、詩織がなんと言うか。詩織に黙っておくにしても、外出するときはどこかに行ってしまうし」
「だったら耳栓をして出掛ければいい。今からどうしても掃除機をかけなくちゃいうけない。でも君に負担を掛けたくないから、とでも言っておけば信用するんじゃないか?」
「なるほど……実は最近詩織の動きが鈍くなっているような気がするんだ。寒いのが苦手だと言っていたから冬眠でもするのかもしれない。あまり動きたくないはずだからだからその言い訳は凄く自然で良いよ」
「だろう? さっそく今度病院へ行ってみろよ。ちゃんと詩織さんとお別れできたか連絡くれ」
「ああ、いい結果を期待していてくれ」
そう言って笑う吉田の顔は酒のせいもあってか血色がよくなり、少しだけ生気を取り戻したようだった。
病院に行って異常がないとなれば吉田も自分の精神がおかしくなっていることに気が付いてくれるはずだ。もしかしたら耳鼻科の医者から心療内科へ行くよう説得してくれるかもしれない。
今俺が吉田を追い詰めるような真似をして連絡を絶たれるよりはこうして影から吉田を見守った方が良いと思っての判断だった。
今のところその判断は正しかったように思える。吉田は別れ際、俺の話を信じてくれてありがとうと涙ながらに頭を下げた。きっと違う人にも相談して、その度に変な顔をされたのだろう。
俺たちはまた会う事を約束し、それぞれ自宅へと帰った。
それから一週間、俺は吉田からの連絡を待ち続けた。彼のことを考えるうち、だんだん本当に詩織さんが吉田の耳に住んでるんじゃないか? なんて馬鹿な事を考えたりもした。気になって寄生虫の事をネットで調べると、耳に寄生する虫も確かにいるらしい事が分かった。しかしさすがに喋る虫というのはいくら調べても出てこない。
そして今日、吉田から着信が来た。私はコートと携帯を財布を引っ掴み、空港へと車を走らせる。
空港のロビーで、スーツケースを一つ持った吉田が俺を出迎えた。
「本当に行ってしまうのか」
「ああ」
吉田はこの一週間で何があったのか、というほど元の元気を取り戻していた。居酒屋で会った時見せた骸骨のような顔が嘘のように丸みを帯びた頬をしている。5キロほどは太ったんじゃないだろうか。
「お前には変な事を言ってしまってすまない。あの時は詩織を失ったショックでどうかしていたんだ」
精神も健康を取り戻したらしく、吉田は神妙な顔をして頭を下げた。
そういえば居酒屋でも詩織さんは動きがのろくなっていると話していた。あの時はもう治りかけだったのかもしれない。しかしたった一週間でここまで変化したことに俺は驚きを隠せなかった。
「治ったのはもちろん良かったと思うが、どうして急に沖縄へ発つことにしたんだ? もう少しゆっくり考えてからでも……」
「いや、やっぱりここにいるとどうしても詩織の事を思い出してしまうんだ。貯金もあるし、しばらくバカンスを楽しもうと思ってね」
「そうか……寂しくなるな」
「夏ごろにはまた戻ってくるよ、沖縄の夏は暑すぎるから。じゃあそろそろ時間だ、またな」
「ああ」
吉田は軽く手を振ると、くるりと背中を向けてゆっくりと俺から離れていく。その時、彼から何かが落ちたような気がした。俺は慌てて声を上げる。
「おい、なんか落として――」
拾い上げ、俺は絶句した。
それはまるで芋虫か何かが脱皮した皮のようだったからだ。
「どうした?」
俺の声を聞いて戻って来たらしい目の前の吉田を眺めながら俺はそれを差し出す。
吉田はそれを見て「なんだそれ」と笑ったが、彼が一瞬真顔になるのを見逃さなかった。
「もう本当に時間ないから、じゃあな!」
吉田はそう言って小走りにゲートへと向かう。
俺は彼の背中を見ながら数日前に見た寄生虫についての記事を思い出していた。
寄生虫には宿主を操作し、自分にとってより良い環境へと向かわせる種類がいるのだそうだ。巨大ロボットを操作する寄生虫の姿をイメージしてクスリと笑ったのだが――
「いや……まさか、な」