赤い実の樹
男が手を伸ばした。
小さな赤い実を一つ、ちぎり取る。
口の中に放り込んで、少し顔をしかめた。それから、すぐに笑顔になり、うまい、と一言つぶやいた。
その時にはもう、嫌な予感がしていた。
彼女の頬が、まるで彼の手の中の実のように、赤く染まっていたから。
*
男は今日も訪れる。
一体、何を生業にしているのだろう。風貌からすると、まだ学生なのかも知れない。
こんな山奥まで、わざわざ何をしに来るというのか。
いつのころからか、男の傍らに彼女の姿があるのが、あたりまえになっていた。いつだって彼女は、男が来るのを心待ちにしていたから。
深い緑の木々、遠くに川、葉を越えた向こうに空──あまり表情の変わらない男と、それを補うかのようによく笑う彼女。それが、ここから見えるすべて。
「君はいつもここにいるな」
男がつぶやけば、彼女は笑った。
「あなたはいつもここに来るのね」
肩をすくめて、男が苦笑する。
「君はいつだって楽しそうだ」
言葉遊びを楽しむかのように、彼女は返した。
「あなたはいつだってつまらなそうだわ」
毎日のように繰り返される会話を、私は、ただひたすらに聞いていた。その会話がはらむ空気に、きっと誰よりも敏感に気づいていた。それに、当人たちが気づかないはずはなかったけれど。
それでも、どうか気づかないでいてと、途方のない祈りを捧げずにはいられなかった。
「この実の名前は、なんていうんだろう」
赤い実を口に入れ、男がつぶやいた。
打てば響く水のように、彼女はほほえむ。
「さあ、何かしら」
「ズミ? ……ナツグミ? いや、葉の形が違うかな」
「赤い実なんて、たくさんあるわ。名を知って、あなたはどうしたいの?」
楽しそうに、問いを繰り出す。男は考えもせず、たいして変わらない表情のままで、さらりと答えた。
「どうもしないさ。ただ、知りたいから、知りたい」
「ひどく傲慢だわ」
彼女は笑う。言葉の意味とは裏腹に、とびきりの笑顔で。
「傲慢で、なんて素敵。興味や好奇心の持つ傲慢さを、あなたは考えたことがあるかしら」
答えは期待していないようだった。彼女は歌うように、素敵、なんて素敵と囁いて、草の上を舞った。
男が、彼女を見ている。
その目を、私は知っている。
ああ、きっと彼も気づいたのだ。気づいてしまったのだ。そうなればもう、きっと、時間の問題だ。
愚かにも、手を振り上げて、男の頬をしたたかにぶってやりたいと考えた。そうすることは何の意味も生み出さないことなど知っていたが、それでもどうにかしたかった。
せめて、彼女の両目を閉ざしてしまいたいとも思った。その瞳が、もう二度と何も映すことのないように、止まった世界に、閉じこめて閉じこめて閉じこめて。
それこそ愚かだと、きっと私自身がだれよりも、よくわかっているのに。
ある晩、私はとうとう告げた。
どうかどこにも行かないでと。いつまでも私と共にいて、と。
「あなたは賢明ね」
彼女は微笑んだ。言葉の意味とは裏腹に、寂しそうな笑顔だった。
「変化を望まないのね。永遠を願うのね。それは賢明で、とても哀しい」
わたしはきっと愚かなの、と彼女は続けた。
「どうか止めないで。ああ、でも、もう止めても駄目なのよ。わたしの中でね、もう、動き出してしまったから」
止めることなどできるはずがなかった。
きっとそれは、彼女の笑顔を曇らせる。私は賢明であり続けるが、誰もがそれを望んでいるわけではないことぐらい、もちろん理解していた。賢明な私は、物事のすべてをわかっているような顔をして、それ故に、ここから動かないのだ。
*
男が手を伸ばした。
そこにあるはずの赤い実が、ただの一つもないことに、怪訝そうに眉をひそめる。
「実が、なくなってる」
その手を彼女がとった。きっと永遠を捨てたのね、と謎かけのような小さな言葉。
最後にこちらを、振り返る。
「さようなら」
実と同じ、赤い唇で、静かにわたしにそう告げた。
彼女が背を向ける。男と並んで、わたしの視界からゆっくりゆっくり消えていく。
とどくことはないとわかっていて、それでも私は両腕を伸ばした。もう葉しかついていない、赤を失った両の手を。
風が吹き抜け、まるで悲鳴をあげるように枝が啼いた。
ただ、それだけだった。
ここから見えるすべては、静寂を取り戻していた。
瞳を閉じる。
耳を澄ます。
五感を研ぎ澄ます。
ずっと長い間聞いてきた、私を取り囲む無音の音。
ずっと接してきた、私の周りの久遠の色。
賢明な私は、静かに両手をおろした。
私は私で、あり続ける。
刻が、繰り返される。
意味を考える傲慢さなど、私とは無縁なのだ。
読んでいただき、ありがとうございました。
時々こういった、漠然としたものをかきたくなります。
精進します。