母さんを殺したあとで
カーテンを開けると昨晩の土砂降りが嘘のように雲一つない青空が広がっていた。
窓を開けてベランダへと踏み出せば、吹き抜ける風が優しく頬を撫でる。息を吸い込めば清々しい空気が肺を満たし、自分がまだ生きているのだと教えてくれた。
ふと視線をずらすと物干し台にはられた、濡れた蜘蛛の巣に、太陽の光が反射してキラキラと輝いていた。
決して珍しいモノではないはずなのに、俺はその光景からしばらく目を離す事ができなかった。
どうして世界はこんなにも美しいのだろうか。
もし今日がいつもの何気ない休日なら、どんなに良かっただろう。
『ご飯出来たよ』
いつものように俺を呼ぶ声が一階から聞こえて……。
くるなんて事はもうない。
だって俺が母さんを殺したんだから。
母さんは女手一つで俺を育ててくれた。
強くて優しくて、俺が誰よりも尊敬している人だ。
どんなに生活が苦しくても『我慢なんてしなくていい』と言って普通の家の子と同じように色んな物を買い与えてくれたし、色んな所へ連れて行ってくれた。その裏で母さんは、いくつもの仕事を掛け持ちして必死になってお金を稼いでくれていた。
そんな母さんの優しさに甘えて俺は育った。
いつか大人になったら俺がたくさん稼いで母さんを楽にさせてあげよう。そう心の底から思っていた。
そして去年ようやく大学を卒業して、そこそこの会社に就職する事ができた。これでやっと一人前。これからいっぱい恩返しをしようと思っていた。
それがどうして……。
こんな事になってしまったのだろうか。
くるりと首を回して部屋の中を見る。
つい数日前までは綺麗に整理されていた部屋は、見る影もなく、足の踏み場もない程に荒れている。散乱した本に飛び散った血は、すでに乾いて黒く変色しており、あれから随分と時間が経っている事を教えてくれているようだ。
床に転がったガラス製の置時計にはベットリと血が付いており、あれで執拗に母さんの頭を殴りつけたのだと思うと手が震える。
手の震えをギュッと握って押さえると、俺はベットへと視線を向ける。そこには頭が潰れた母さんが寝ている。
ぐちゃぐちゃになった頭からは色んなものが飛び出していて、取り返しのつかない事をしてしまったのだと思い知らされる。
「冬で良かったな」
また後悔へと向かっていく思考を、独り言を呟いて無理やりに誤魔化す。
傷み始めた母さんの死体からはすでに腐臭が漂い始めていている。一緒の空間にいる時はあまり気にならなかったが、こうして外に出てみれば、いかに部屋の空気が澱んでいたのかがよく分かる。
俺は気持ちを切り替える為に再び外へと視線を向けた。
「さて、どうするかな……」
下から聞こえてくる耳障りな声に顔を顰めつつ、状況を確認すれば、我が家を取り囲むようにゾロゾロとたくさんの人が集まっていた。彼らはとっくに俺の存在に気付いているらしく、こちらへ向けて熱い視線を送ってくれている。
どうして彼らにバレてしまったのかは全く見当がつかないが、現在の状況は完全に詰んでいると言わざるを得ない。
ここから考えられる選択肢は三つ。
一つ、素直に投降する。
二つ、籠城を続ける。
三つ、強行突破する。
正直言って一つ目はあり得ない。
ここで投降なんてしてしまえば、母さんとの約束を果たす事が出来ないからだ。
それだけは絶対にダメだ。
次に籠城だけど、すでに食料が尽きている。
どう頑張ったところで後数日が限度だろう。そして待っているのは自分の死だけ。
結局のところ、初めから答えは決まっていた訳だ。
俺に残された道は動ける内に活路を見つけ出して、強行突破を試みるしかないって事。
「覚悟を決めるか……」
ポツリと呟き、俺は部屋へと戻った。
母さんの元へと歩み寄り、そっと手を握る。
久しぶりに触れた母さんの手は、皺だらけで随分と荒れていた。
とっても働き者の母さんらしいその手は、俺の記憶にあるよりもずっと小さく感じられた。
思い出すのは、子供の頃に熱を出した時の事だ。今では想像もできない程病弱だった俺は、毎月と言ってもいい程に体調を崩していたように思う。
その度に母さんは心配そうな顔をして、この手を俺の額に当てて熱を測ってくれた。母さんのその手は他のどんなモノよりも、俺に安らぎを与えてくれた。例えどんな悪夢を見てうなされたとしても、その手に触れられるだけで俺は気持ちよく眠りにつく事ができたのだ。
「母さん」
答えが返ってこないと分かっていても語り掛ける事をやめられない。
両手で母さんの手を握り締めながら、顔を見る。頭の方はグチャグチャにしちゃったけれど、幸いというべきか顔は無事だった。多少腐敗し始めてはいるが、その表情はどこか穏やかそうに見える。
「供養してやれなくてごめん」
母親を殺して死体を放置している。さらにはここから逃げ出そうとしているのだ。
とんでもない奴だと自分でも思う。
でも母さんとの約束を守る為には、そうするしかないのだ。
あの日、自らの未来を悟った母さんが俺に言った。
『ちゃんと頭を潰してね』と。
そんな事息子に頼むなよ。
そうは思ったけれど、他に選択肢がなかったのだ。
涙が溢れて下を向いてしまった俺の頭を母さんが優しく撫でた。まるで子供の頃に戻ったみたいで、嬉しいような恥ずかしいような不思議な気持ちになった。
何も言えないでいる俺に母さんが続ける。
『私の分も強く生きるのよ。絶対に諦めないでね』
それが、俺が母さんと交わした約束。
一つ目はちゃんと守った。
問題は二つ目。
諦めるなって簡単に言うけれど、実際こっちの身にもなってみろって話だ。
「ほんと自分勝手なんだから。いつもそうやって自分の理想を押し付けてさ……」
思ってもいない言葉が口から出る。
そうやって軽口を叩かなければやっていられないのだ。
「でもまぁ、頑張ってみるよ」
俺は母さんの手を離して立ち上がった。
準備はもう済ませてある。
これで本当のお別れだ。もうここに戻る事はないだろう。
「それじゃあ、いってきます」
母さんに背を向けて俺は部屋を出た。
『気を付けてね。いってらっしゃい』
後ろからそんな声が聞こえた気がした。
「うん」
振り向かず、返事をして歩き出す。
玄関で靴を履き、しっかりと紐を締める。
立てかけてあった金属バットを握り締め、玄関のドアに手をかける。
ここから出れば、もう後には引けない。
散々悩んだ末に出した答えが何の捻りもない正面突破。
様々な状況を考慮してこの方法が一番成功率が高いと思えるのだから仕方がない。
今現在玄関付近が一番手薄で、扉の前には誰もいないのだ。この好機を逃すべきではないだろう。
「よしっ!」
小さく気合を入れた後、俺はドアを開けて一気に外へと飛び出した。
同時に物音に反応したギャラリーが俺の方へと視線を向ける。
ゾクリと恐怖で足を止めそうになるが、気合でそれを抑え込む。こんな所で捕まる訳にはいかないのだ。
「死んでたまるか!」
俺は強くバットを握り締めて、近くにいたゾンビを思いっきり殴り飛ばした。
抜けるような青い空の下で、真っ赤な血を撒き散らす。
この世界で生き抜くために。
母さんとの約束を守る為に。
俺は絶対にあきらめない。