花子さんの呪い
ある中学に通う少女はいじめられていた。いじめは悲しいことに日本中の様々な所で起きている。そのほとんどが悪口を言ったり、無視したりという物だが、少女の身に降りかかるいじめはそれらの比ではない。蹴る殴るなどの暴行は日常茶飯事。机や教科書には罵る単語が書き散らされており、ロッカーには生ゴミ、ひどいときには小動物の死骸が入られている。小学生が起すいじめと違い、毎日のように繰り返される陰湿で姑息ないじめは確実に少女の精神を削っていた。教師に救いを求めたこともあったが、教師はいじめに対応することはなく、面倒くさそうに少女をあしらうだけだった。学校に少女の味方など一人もいない。それでも、少女は学校を休むことだけは決してしなかった。良い意味でも悪い意味でも家族思いの少女は家では気丈に振る舞い、小学校に通う妹や優しい両親に心配をかけないようにしているのだ。
「あーあ、教室の空気が悪いと思ったら…くっさい汚物があるよ」
この日も少女は休み時間に何もせず落書きだらけの机を眺めて過ごしていたら、頭上から声をかけられた。少女が重たい頭をゆっくりあげると、そこにはいじめの主犯格である霧矢 蒼とその取り巻きである中林 玲と羽元 美恵がいた。
「息がくっさいのよね。息しないかキレイになるかどっちか選んでくれる?」
「何言ってんの、蒼?こいつがキレイになるわけないじゃん」
「それがなるのよ。これ、食べればね」
そう言って霧矢は少女の前に叩きつけるように一本のチョークを置いた。少女はまさかと思いつつも違うと信じて霧矢を見返すことしかできない。
「食えよ、ほら」
「…き、霧矢さん………チョ、チョークは食べ物じゃ…」
「あん?何?きーこーえーなーいー!食べるの?食べないの?どっち?」
「た…食べれない」
「はぁ?何アンタ?まさか、私に逆らう気?」
霧矢が鋭く少女を睨みつけると、少女はビクリと肩を震わせる。食べなければ何をされるかわからない。少女の頭はそう警鐘を鳴らすが、中々チョークに手を延ばすことができなかった。すると、唐突に少女の髪が掴まれて、そのまま顔面を机に叩きつけられてしまう。
「おめぇ、蒼が食えって言ってんだ!食えよ、ゴラ!拒否権なんかねぇんだよ!」
「うわっ、痛そ。伊野、少しは手加減しろよ。バァンってなったぞ、バァン」
「こいつに手加減する理由がないだろ」
少女は未だに頭を机に押さえつけられてるため、姿を見ることはできないが恐らくは霧矢の彼氏である伊野 剛とその友達の安道 圭だろう。そんなこと考えていると、再び髪を引っ張られて強引に顔を上げられた。そこにはやはり、伊野と安道がニヤニヤと立っており、伊野の手にはいつの間にか霧矢の持っていたチョークが握られている。
「食え」
もう少女には拒否することも躊躇う暇もない。今すぐに食べなければ伊野の拳が容赦なく少女を殴るだろう。少女は観念してチョークを受け取り、それを口に運んだ。
「アハハハハ!マジで食ったよ!残さず、全部食べろよ!好き嫌いすると大きくなれないからね!」
霧矢の笑い声を聞きながら少女はチョークを食べ続ける。半分ほど食べたぐらいで霧矢が飽きたのかその場を離れると取り巻き2人がその後を追う。
「もう、あいつ殺しちゃわない?」
「アハハ、玲っていつもそれ言うよね。殺したら私ら犯罪者じゃん」
「そうそう、ごみ処理して前科とかシャレになんないわ」
「近くに無駄に広い森あんじゃん。あそこに埋めればバレなくね?」
「あー確かに。マジで殺っちゃう?」
3人組はわざと少女に聞こえるように話しながら去っていき、伊野と安道も少女のことなど気にも止めずにその場を去る。
「あ、そうだ。おめぇ、明後日の給食のみかん俺に寄越せよ!」
「伊野はみかん好きだなー。でも、あいつのみかんって何か腐ってそう」
「みかん様があんなゴミに負けるわけねぇだろ」
誰も少女の身を案ずる者はいない。5人以外のクラスメイトも直接手を出すことは少なくても少女を見て嘲笑っている。少女は半分になったチョークを机に置き、目に涙を浮かべる。泣いたからといって何も変わらないことはわかっているが溢れ出る涙を止めることはできなかった。
放課後になり少女はトイレに座り込んで人知れず泣いていた。帰ろうとする少女を霧矢・中林・羽元の3人はトイレに引きずり込み、好き勝手に暴力を振るった。殴られ、蹴られ、トイレの掃除用具を顔面に押し付けられ、最後はホースで水を浴びせられた。壁を背にぐったりとする少女を放って3人はさっさと帰り、もうトイレにはいない。1人になった少女は堪えきれずに泣き始める。誰も受け止めることもない涙を流し続けた。もう少女は肉体も精神も限界だ。誰でもいいから味方はいないのか、そんなことを考えた瞬間、少女は声をかけられた。
「大丈夫?」
すぐ近くからだった。このトイレに少女以外の人間はいないはず。少女は驚いて顔を上げると、目の前の個室の中に1人の幼い女の子がいた。
「だ、誰!?」
少女が驚きから上擦った声を上げると、目の前の女の子はクスクスと笑ってから返事をした。
「私はね、花子。トイレの花子さん。知ってる?」
もちろん、少女もトイレの花子さんの話は知っている。確かに今いる場所も3階の女子トイレだし、目の前の個室も3番目だった。だからといって少女は目の前の女の子を花子さんだと認めることはできない。本能的に人ならざる存在であることは感じるが、理性がそれを否定する。
「こ、この学校に花子さんがいるなんて話聞いたことない」
「それは、あなたに友達がいないから」
「普通は小学校にいるものでしょ」
「中学校にもいる花子さんもいるのよ。現に私とか」
「は、花子さんは呼びかけないと出てこないはず」
「呼んだじゃない」
「………え?」
「誰でもいいからって。誰でもいいなら私でもいいでしょ?私はあなたの味方だよ」
そう言って花子さんはニコリと笑った。少女は目の前にいる存在が不思議と恐ろしくなく、そしてはっきりと味方だと言ってくれたことを嬉しく感じていた。
「………味方?花子さんが、私の?」
「うん。味方だよ」
「本当に?本当に味方なの?」
「本当だよ。君だけの味方」
「じゃ、じゃあ!私のお願い聞いてくれる!?」
「うん、何?」
「呪ってほしい奴がいるの」
霊ならば人を呪い殺すぐらい容易だろう。そう信じて疑わなかった少女のお願いだったが、対する花子さんは困ったように苦笑いを浮かべるだけだった。
「………ごめんね。私、そういう霊じゃないんだ」
「そういう霊じゃないって………殺すパターンもあるじゃない!」
「それって基本的に死ぬのって向こうから来た奴でしょ。まぁ、仮に来たとしても私はトイレに引きずり込んだりするタイプじゃないし」
「………そっ、か。うん、そうだよね。ごめん、軽はずみな発言をして。贅沢は言える立場じゃないのに」
「大丈夫、気にしてないよ。代わりって言ったら変だけど相談になら乗るよ。愚痴も聞く。私に出来ることは少ないけど、何があっても私は味方。あなたは一人じゃないよ」
「………ありがとう」
少女が久しぶりに笑顔を見せながら礼を言うと、花子さんも霊とは思えない満面の笑みを返してきた。人間ではないが、少女にとって花子さんは初めての友人なのだ。あまりの嬉しさに少女は先ほどとは真逆の涙が溢れてきた。
翌日。少女にとっては憂鬱な学校生活がまた始まる。だが、この日からはいつもとは少し違う。花子さんという味方がいるのだ。3階の女子トイレでしか会うことはできないが、それでも少女には大きな心の支えなのだ。
「今日も来たよ、このクソ女」
教室に入るなり羽元の悪口も気にならないわけではないが、いつもより気が楽だった。少女の気持ちの変化が外に出ていたのか、羽元が不機嫌そうに顔を歪める。そして、周りをキョロキョロと見渡し始めた。いつもより、悪口の手応えがなかったから親玉である霧矢を頼ろうと思ったのだろうが、いくら探しても霧矢の姿は見つからなかった。
「玲ー!」
代わりにもう1人の取り巻きを呼ぶと、中林がこちらに気付きニヤニヤしながらやって来る。
「何?」
「蒼、知らない?」
「蒼?………そういえばいないね。そろそろ遅刻になるのに」
「寝坊かな?」
「サボりかもよ」
そんな会話をしてると先生が入ってきたので、いそいそと席に戻り、じきに教室が静まった。少女は会話する相手もいないので入ってきた先生をいつも眺めているため、僅かの変化に気づくことができる。今日の先生はいつもより顔が険しく、このような顔をしてる時はたいてい良くない知らせがある時だ。だが、少女にはどうでもいいことだった。担任の持ってくる良くない知らせというのはクラスにとってのだ。クラスの一員でありながら爪弾きにされてる少女には関心のないことが多い。
「………えー、朝のホームルームを始めるが、えっと、今日はな…その前に重要な知らせがある」
ここでようやく少女以外のクラスメイトも担任の違和感に気付き、真剣に担任の話に耳を傾け始める。
「実は、昨日の夜から霧矢の行方がわからない」
担任がそう言った瞬間に教室がざわつき始める。皆が思い思いのことを好き勝手に言う中で意外にも霧矢と仲が良かった4人は静かだった。いや、静かというより呆気に取られているが近い。いち早く我に返ったのは霧矢と付き合っている伊野だった。携帯を取り出して電話をかけ始めるがしばらくすると舌打ちをして携帯をしまった。そして、次に我に返った羽元が勢い良く立ち上がり担任に噛み付く。
「ゆ、行方がわからないってどういうことですか!?」
「そのままの意味だ。学校が終わってから家に帰ってこないそうだ。携帯にも出ないそうだ」
「警察は!?」
「連絡した。女子中学生が1日いなくなることなんてよくあると言ってまともに相手をしてくれない」
「蒼はそんな娘じゃない!」
「わかってる、わかってる。とりあえず何か思い当たることやわかったことがあれば知らせてくれ」
教室が騒がしい中で少女だけが静かに黙っていた。そんなのは、いつものことだが、いつもと違うのは少女も心中ではクラスメイトと負けず劣らず騒がしくしているということだ。
(霧矢さんが…行方不明?まさか、呪い?いや、そんなわけない!花子さんは呪いなんてできないって言ってたじゃん!いやでも、あまりにもタイミングが良すぎる………もし、呪いだとしたら霧矢さんはどうなるの?死んだなんてことも…いやいや!呪いって言ったって色々な種類がある!必ず死ぬというわけでは………でも、死んでたら?それは、私のせい?私が殺したってこと!?)
少女の頭の中は色々なことが巡り巡っていた。そして、自然と手が震える。もしかしたら、自分が霧矢の命を奪ったかもしれない。そう思うと少女は手の震えを止めることができなかった。
その日の学校生活は今までにはないぐらい平穏だった。いつもいじめてくる霧矢以外の4人も霧矢が心配なのか主犯がいないからか少女の元にくることはなく放課後になる。放課後になると同時に少女は教室を飛び出し、トイレに向かった。トイレに入るなり少女は3番目の個室のドアの前まで駆け寄るとドンドンと強めにノックをする。
「花子さん、花子さん!」
少女が呼びかけてから個室のドアを開けると、そこには昨日と同じようにポツンと立っている幼い女の子がいた。
「こんにちは。昨日ぶり」
「花子さん、その、霧矢さんのことで聞きたいことが」
「霧矢さん?」
「私を…いじめてた人」
「あぁ、あいつね………呪ったよ」
「の、呪っ!」
「あなたが頼んだことじゃない」
「そう、だけど…昨日は呪えないって言ってたのに」
「やってみたらできた。それじゃあ、ダメ?」
「そ、そんな軽い感じで人を呪ったって言うの?」
「別にいいじゃない。あんなクズは消えた方がいい。あなたがいつも思ってたことでしょ?それとも何?まさか、あのクズを呪ったことを後悔してるの?」
「い、いや、えっと」
「正直になりなさいよ。清々してるんでしょ?ざまあみろって思ってるんでしょ?この調子で残りの奴らも殺っちまおうって思ってるんでしょ!?」
「ダ、ダメ!」
「………何で?」
「も、もう大丈夫だから。き、霧矢さんがいなくなって落ち着いたというか、とりあえず大丈夫だから。もう呪わなくていいよ」
「………まぁ、そう言うなら」
「でも、私のためにやってくれたんだよね。ありがとう」
そう言うと、少女は花子さんの頭に手を置いて、優しく撫で始めた。触った感触が薄いが、どうやら触れることはできるようだ。一方の花子さんは急に頭を撫でられて困惑しているようだが、手を振り払うことはせずに少女の手の平をどこか嬉しそうに受け入れていた。
霧矢が行方不明になるという知らせから翌日。学校に来たクラスメイトは何食わぬ顔で登校した霧矢とその仲間達が少女をいじめているだろうと心のどこかで考えていた。だが、待ち受けていたのは真逆の知らせだった。霧矢と仲が良かった羽元の行方もわからなくなったのだ。霧矢の行方不明を家出か何かだろうと考えていたクラスメイトも2日続けて行方不明者が出ると流石に事件に巻き込まれたと疑い出す。そして、疑いの矛先は当然のように少女に向いた。面と向かって少女を問いただす者はいなかったが、遠巻きにヒソヒソと噂話をしており、少女はいつもとは違う居心地の悪さを感じている。そんな中で最も少女に疑いの眼差しを向けていたのは伊野だった。いつもなら暴力をふるってくる伊野が黙って、恨みのこもった眼光で睨みつけてくる。少女も気が気でなかった。さらに、少女には2人の行方不明の原因に心当たりがあり、それに少女は罪悪感を感じ、居心地の悪さを強めていた。
そのまま何事もなく放課後になることを期待していた少女だったが、その淡い期待は儚くも裏切られことになる。動き出したのは伊野ではなく、中林だった。中林は皆が給食を食べる中で急に立ち上がり伊野の元に向かう。
「伊野君。あんた、みかんが好きだったよね?」
「………そうだけど」
「なら、私のみかんあげる」
「………くれるって言うなら貰うけど」
「その代わり牛乳ちょうだい」
伊野は急な中林の行動を不思議に思いつつも断る理由もなかったので素直に牛乳を差し出した。牛乳を受け取った中林はみかんを伊野の近くに置くと、牛乳を持って自分の席ではなく少女の元に向かう。騒がしかった教室も中林が少女の元に向うと示し合わせたかのように静まりだす。少女が給食の時間にいじめられることなど珍しくないが、今日は事情が違う。教室中が固唾を呑んで中林と少女の動向を見守る中で隅っこで人目を避けるように給食を食べていた少女は自分の元にやってきた中林を黙って見返すことしかできない。平静を装っているが少女は心中では穏やかではなかった。そんな少女の焦りを知ってか知らず中林は無表情のまま少女の傍に佇んでいる。
「………な、何?」
少女がやっとの思いで声を絞り出すと、中林は黙ったまま伊野から受け取った牛乳を少女の頭上に掲げた。そして、牛乳を少女の頭にかけ始める。少女の頭に牛乳が流れ落ちるが中林は手を止めることもなく、少女もそれを甘んじて受け入れていた。中林は全ての牛乳をかけ終わるとぐいと顔を少女の方に寄せる。
「あんたさ…蒼と美恵のこと、なんか知ってるでしょ?」
「えっ、いや、その………ごめん、ちょっと意味が」
「知ってるでしょ?」
「知って、えっと、あれ?」
「昨日からずっと様子おかしかったよね?」
「そ、そんなことない」
「ある。いっつもあんたに絡んでたからさ、案外わかるんだよね。絶対に変だった」
「ち、違!………違う。普通、でしたよ」
その時、脈絡もなくバンッという机を叩く音が教室に響いた。少女はその音にビクリと肩を震わせ、中林は驚いた様子を見せずに音のした方にお互いに顔を向ける。音源には伊野がおり、俯いてプルプルと体を小刻みに震わせていた。少女は中林とのやり取りに怒りで震えているのかと思ったが、どうも伊野の様子がおかしい。その様子のおかしさに隣で給食を食べていた安道も心配そうに声をかける。
「おい、伊野?どうした?」
「ゲホッ、ガッ、ゴホッ」
咳き込み出した伊野に安道は狼狽えることしかできない。伊野は苦しそうにしていると、ついに口から大量の血が吐き出されて、教室中から悲鳴があがる。
「伊野!おい、伊野!しっかりしろ!」
安道が必死に声をかけるが伊野は苦しそうに胸を掻きむしり、回復する気配はない。さらに、伊野は机を巻き込みながら椅子から派手に倒れてしまう。響いていた悲鳴がより一層強まり、教室は阿鼻叫喚と化す。安道が駆け寄り伊野を抱える声をかけ続けるが伊野の様子は一向に良くならず、血走った目をぎょろぎょろと動かし悶え苦しんでいた。そして、ついに伊野は力が抜けたように掻きむしっていた腕がポトリと地面に落ちる。
「伊野!?おい、起きろ!」
「だ、誰か保健室に」
「バカ!そんなレベルじゃねぇよ」
「きゅ、救急車!救急車呼べ!」
騒がしい教室の隅で少女は震えが止められなかった。目の前で起きた出来事を花子さんの呪いだと確信しているのだ。今までとは違い呪いの瞬間をその目で見せつけられた。今まで見たことないような苦しそうな表情に少女は湧き上がる恐怖を押さえることができない。慌てて立ち上がりトイレに向かうため教室を出てようとする。今の教室で少女の事を気にする者などいないので簡単に出られるはずだ。そう思い、教室の扉に向かって青ざめた顔で駆け出した。
「どこいくの?」
そんな、教室を出ようとする少女の腕を掴み、行く手を遮る手が現れたのだ。振り返るとそこには中林が伊野ではなく少女を見据えて立っていた。
「ど、どこでも…いい、でしょ」
「逃げるき?」
「逃げる、とか、そんなんじゃ」
「だったら席。席につきなさいよ」
「………う、うん」
少女が中林に言われるがまま自分の席に戻り、大人しく座った。だが、騒ぎの中心である伊野の方にはどうしても顔を向けることができない。少女はスカートの裾をぎゅっと握り締めてただただ時間が経つのを震えて待っていた。
「先ほど病院の方から連絡があった………伊野は残念ながら病院についた頃には亡くなっていたそうだ」
給食での騒ぎからしばらくしてから担任から知らされた伊野の死亡報告は教室の者達に恐怖を与えた。その中でも目に見えて怯えているのは安道だ。伊野が死ぬのを目の当たりしたせいか、恐怖に震え歯を鳴らしている。
「とりあえず今日の午後の授業は休みだ。真っ直ぐ家に帰れよ。警察の人が何か聞いてくるかもしれないが、正直に答えろ。今のところマスコミはいないが、マスコミが来るようなことがあっても余計なことは言うな。わかったな。じゃあ、解散だ。寄り道などは絶対にするなよ」
担任が言い終えると少女はこっそりと教室を出ようとする。いつもとは違う種類の視線が至る所から突き刺さる中、教室を出た少女はそのまま3階の女子トイレに向かった。トイレに入るなり3番目の個室のドアを乱暴にノックしてから扉を開けると、そこにはいつも通りの幼い女の子がにこやかな笑みを携えて立っている。
「気にいった?」
花子さんは開口一番そう言うと、少女の表情が曇る。
「やっ、やっぱり…あなたが?」
「そうよ。あなたがクソど低能女の霧矢だけでいいとかふざけたこと言うから目の前で殺ってあげたの。どう?実際にあのバカが死ぬ様は?愉快だったでしょ?ものすごく苦しそうにしてた。でも、私の方が苦しかった。罰が当たったんだ。そう思ったでしょ?あいつが殴るのが一番痛かった。死んで当然。この調子で残りの2人も、いやクラスの連中も先生も皆殺しにしよう!そう思ってるんでしょ!?」
「ち、違う!違う違う違う!」
「違くない!私にはわかる!あなたは私を望んでいる!呪いを望んでいる!」
「そんなことない!辛かったけど、死んでもいいなんて思ってない!」
「思ってる!死んで当然!死すら生温い!あんたはずっとそう思ってた!」
「………何なのよ、あなた?」
「だから、トイレの花子さん。あなたの味方で最大で唯一の理解者」
この時、少女は初めて花子さんを恐れた。初めて花子さんを見た時は驚いたものの恐れはなかった。霊を見たというのに恐くないというのはおかしいが何故か一切の恐怖はなかったのだ。だが、今の花子さんに少女は怖気ついている。それは、霊に感じるような恐怖とは全く別物の恐怖だった。
「安道君」
「ひッ!あっ…んだよ、お前かよ。ビビらせんなよ」
安道は自分の家に帰る途中に背後から声をかけられた。すると、おもしろいぐらい体を跳ねさせて物凄い勢いで振り返り、声をかけた人物を見た瞬間に安堵のため息を吐く。一方の声をかけた中林は安道の驚きっぷりに逆に驚いていた。
「何もそんなに驚かなくても」
「無理言うなよ………命狙われてるかもしんねぇだぞ!」
「………誰に?」
「決まってんだろ!あの女だよ!お前だって同じだぞ!何を悠長にしてるんだ!殺されるかもしんないだぞ!」
「へぇー」
「へぇって、おま!」
「いや、私もちょうどその件で話があって」
「え?その件で?どういうことだ?」
「簡単な話。殺られる前に殺らないかって話」
少女は夜の街を走っている。花子さんに恐怖を感じた少女は逃げるように家に帰り、帰るなり自室のベットに潜り込んで震えていた。花子さんの話を聞かずに逃げてきたのははたして正解なのか。花子さんには呪いがある。何かやり返されるのではないか。そんなことを考えていると少女は母親に呼ばれベットから這い出た。そして、母親の要件を聞いた瞬間に少女は家を飛び出した。妹が帰ってこない。そう母親から聞いた途端に少女は直感的に花子さんのせいだと思った。それから、少女は今まで出したことないようなスピードで街を駆け、閉まった学校の門をよじ登り、急いで3階まで駆け上がった。そして、女子トイレに入るなり3番目の個室のドアに拳を叩きつけるようにノックをする。
「花子おおおおぉぉぉぉぉぉぉ!出て来いいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
そう叫んでから乱暴にドアを開けると、相変わらず花子さんがポツンとそこに立っていた。
「妹は!?妹をどうした!?」
「………まさか、呪いに何の代償がないとでも?自分は手を下さずに高みの見物できるとでも?」
「か、勝手に殺って勝手に代償とか言うな!だいたいあんなゴミ共と妹の価値を一緒にするな!」
「ゴミとはヒドイ言われようね」
唐突に第三者の声が割り込み、少女が声のしたトイレの入り口の方を向くと中林がニヤニヤとした笑みを浮かべて立っている。
「中林?お前、ここで何してる?」
「あれ?あなた、そんなにいきいき喋れたのね?それにここで何してるって私の方が先にここにいたんだけど」
「先に?」
「そう。ここであなたのこと待ってたわけ」
「………何を意味のわからないことを。花子!このゴミを殺せ!妹を犠牲にして今さらできないなんて言うなよ!」
「アハハハ。無理よ、その花子さんとやらに私は殺せない」
「お前は黙ってろ、中林!お前は知らないが、花子は霧矢と羽元と伊野を殺してるんだよ!」
「アハハハハ!これは傑作!そろそろ気付くかと思ったけど、全然だ」
「気付く!?何に!?」
「その3人を殺したのは私。呪いなんかじゃない」
いきなりの告白に流石の少女の表情が曇る。言っている意味がわからない、そう思いながら縋るように横にいるはずの花子さんを見るが、何故か花子さんの姿がない。
「私ね…人を殺してみたかったんだ」
少女が花子さんを探し、トイレを見渡していると中林が語りだした。
「あなたのことを殺そうって何度も言ってたでしょ?あれ、本気だったんだ。本気で殺そうと思ってた。未成年の今しかない。いじめの主犯は蒼だから捕まっても罪はそこまで重くないはず。だから、今じゃなきゃダメだった。でも、蒼も美恵も冗談だと思って相手にしてくれない。いじめるくせに殺す勇気はないチキンだった。このままじゃ、マズイ。そう思ってた。ヘタしたら自殺されてしまう。私は自分で殺したいのに」
中林の言葉に少女は思い当たる節があった。確かに中林はことある事に殺そうと言っていた。だが、いじめられてる本人ですら本気だと思っていなかったのだ、本気にしろというのは無理な話だ。
「そんな時にたまたま聞いちゃったわけ。トイレの前に置き忘れたバックを取りに戻ったらトイレの中から声がするから覗いてみたらあなたが個室に向かって話してるの。最初は個室の中に誰かいるのかと思った。でも、相手の声は聞こえない。次に気でも狂ったかと思ったけど、話を聞いてみたら、それは半分正解で半分間違いだった」
「………どういうこと?」
「あなたは味方のいない状況で頭の中で味方を作り上げたのよ。花子さんという妄想を」
少女は声を大にして違うと叫びたかった。だが、できない。少女にも思い当たる節があるからだ。呪いについて二転三転する花子さん。最初からやたら友好的な花子さん。そして、何より自分の心を見透かしたような発言をする花子さん。少女は花子さんが自分の妄想だと言われ、むしろ納得していた。
「そして、いいことを思いついたわけ。今あいつらを殺せばあなたは呪いのせいだと思い込む。動機もたっぷりあるし、警察もあなたを疑う。その内、罪の意識で警察に自首したあなたが呪いだの何だの言って精神病院にでも入れられて事件は解決。それが私の考えたシナリオだったんだけど、そんなに上手くはいかないものね」
「………上手くいかない?あなたがここに来なければシナリオ通りに私は自首したかもよ」
「違う。そこじゃない。殺し足りないのよ、私が。生きたまま焼き死ぬのも見た。ゆっくりと出血多量で弱って死ぬ様を見届けた。毒で苦しんで死ぬ様も見た。人が人を殺すのも見た。でも、足りない。当初の計画じゃ、これで終わりなのに物足りない。でもすぐに理由がわかった。今まで見ただけだった。この手で殺した奴が誰もいない。そうか、だからだよ。私はまだ手に命を奪った感触がないんだ!だから、足りないんだ!そうだ!まだ1人殺せるのがいる!あの女を殺そう!絞殺しよう!死体は自殺あたりにすればいい!殺そう!………これが、私がここに来た理由。わかった?」
すると、中林はどこからかロープを取り出した。あれで少女の首を絞めるつもりなのだろう。しかし、少女にはそれよりも気になることがあった。それを聞くまでは死ぬわけにはいかない。
「………人が人を殺すって…誰が誰を?」
1人多いのだ。中林を除けば少女をいじめたのは4人だけなのに、中林の話の中にも現実にも1人多かった。それを聞いた、中林は待ってましたと言わんばかりに人の悪い笑顔になる。
「安道があんたの妹をよ」
「き、貴様あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
少女は中林に飛び掛かるがバチバチという音と共に少女の体から力が抜けてその場に倒れ落ちてしまう。少女が眼球だけを動かして中林を見ると手にはスタンガンが握られている。
「よかった、気絶しなかった。つまんなくなっちゃうもん」
「き、キィ…さ」
少女は喋ろうとしても上手く言葉がでない。そんな様子の少女に中林は楽しそうに近づく。
「安道もバカよね。森の中で待たせて私が連れてきた黒いビニールに入った人を確かめもせずにバットでボコボコ。どう見てもサイズが小さいし、華奢な私が軽々と持ち上げてる時点で気付けぇての。あんたの妹も大概だけど。お姉ちゃんの友達だよーって言ったらホイホイ付いて来て。安道の奴、まだ殴ってんのかな?もう原型留めてないだろうね、あんたの妹」
そう言いながら中林は少女の首にロープを回す。少女はもう睨みつけるしかすることはない。だが、同時に諦めていた。もう、生きる気力が沸かない。そして、中林がロープを左右から引っ張ると少女の首が絞まった。急に呼吸ができなくなった少女はバタバタと痺れて動きにくくなった体を限界まで動かし、それが中林を楽しませる。このまま死ぬんだ。少女がそう思った時、ロープが緩み再び呼吸ができるようになった。
「ゲホッ、ゴホッ、ハァハァ」
少女は助かった事に疑問を抱きつつ中林の方を見ると、中林は少女に目もくれず一点を見つめていた。少女が中林の視線を追うとそこにはトイレの個室がある。少女の妄想の花子さんが出てくる個室だった。
「な、なわけない!あれはこいつの妄想!」
中林が個室を見ながらブツブツ何か言ってるが少女の目には見慣れた個室があるだけで、当たり前だが花子さんはいない。
「えっ?遊び?ち、違う!これは遊びじゃない!首絞めごっこなんてしてない!ヒッ、待て待て待て!来るな!止まれ!」
中林が怯えたような声を出すが、少女には何も見えない。そして、唐突に中林は持っていたロープで自分の首を絞めはじめた。
「アッ、ギィ、ガハッ」
中林が苦しそうな声を上げるが、首を絞めるのを止めようとはしない。そして、中林は自分の首を絞めたまま立ち上がり走り出した。そのまま廊下に飛び出すと目の前にあった窓を突き破り校舎の外に飛び出す。少し遅れて地面に何かがぶつかる音を聞くと同時に少女はプツンとその意識を手放した。
少女が目を覚ますとそこは病院だった。何が起きたか理解できなかった少女だったが、家族や警察から事の顛末を聞くことができた。中林は3階から飛び降り、地面に頭から落ちて死んだらしい。即死ではなかったのであまり良い死に様とは言えない。安道は途中で違和感に気付いたのかビニールを開き、中から別人が出てきたことに驚き、警察に逃げるように自首してきたらしい。もっとも精神的にかなり不安定なので今は精神病院に入院してるようだ。霧矢は焼死体で羽元は全身の血を失った状態で森の中から発見された。この2人の死体と伊野が食べた毒が中林が渡したみかんからもでてきたことなどから警察は一連の殺人の犯人を中林と断定。少女は襲われた被害者という形になった。そして、少女の妹だが何とか一命を取り留めることができたが意識不明の重体で入院している。少女は妹と違い軽傷だったのですぐに退院して学校に通うことができた。学校ではいじめられることはなくなったが、恐れられ誰も近寄らなくなっている。恐らくこのまま少女は卒業まで孤独に過ごすのだろう。そして、少女は何度か例のトイレに足を運び花子さんを呼んでみたが、あれ以来花子さんが姿を現すことはなかった。少女はあの花子さんが自分の妄想だと理解していたが、それだと中林の最期の奇行が説明できない。本当にあそこに花子さんがいたかどうかは少女には永遠にわからいことだ。だが、1つだけ確かなことがある。あの場で少女が花子さんに呪いを依頼したことだ。それを聞き届けたのは妄想の花子さんではなく本物の花子さんだったのではないか。今回の出来事は一種の呪いだったのではないか。そう、少女は考えていた。どちらにせよ、全ての始まりは少女が呪いを花子さんに頼んだことからだ。呪いというのが本当にあるかどうかはわからないが簡単に口に出していい言葉ではないのだろう。少女は2度と呪いという言葉を口にしないことを誓い、今日も妹の回復を願いながら孤独に過ごしていた。