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(1)オレンジとみかん
「暑っいなぁ~もぉ…」
8月のお盆を過ぎた頃、恭子はスーパーで買った食材と果物屋で買ったオレンジ10個をぶら下げて自宅マンションに続く坂道を登っていた。
「あ~、もうダメだ。暑いぃ」

「うわっ、やだぁ」 
恭子の手からオレンジの入った袋がツルッと外れ、オレンジ10個は、袋からこぼれ登ってきた坂道を転がり落ちていった。

―――さ、最悪…どうしよー。
恭子が慌てていると5mほど恭子の後ろを歩いていた大柄な男が、急に手足を伸ばし地面に寝そべった。

「……」
恭子の目が点になる。
コロコロと転がるオレンジは、その男の体に当たると順番に止まっていき、男は体を張って
オレンジの転がりを阻止した。

「……」  
恭子が、おずおずと男の所に近づくと、「早く拾え…」男は寝そべったまま、恭子に言った。
ボーゼンと立ちすくむ恭子は、口を開いたまま男を見ていた。
「…なにやってんだよ、早く拾え」
男の声に我に返った恭子は、「は、はい!」 と、男の体のところでストップされている
オレンジを急いで拾いあげた。

「す、すみません。ありがとうございます」
恭子が礼を言うと、ヨレヨレの白いTシャツにヨレヨレの紐パンにサンダル姿の男は、
「それ一個でいいよ」と、オレンジを指差した。
「…へっ?」 
恭子は意味がわからず首をかしげる。

「お礼、そのみかんくれ」 
男は手を出した。
「え?あっ、は、はい」 
恭子が男の手の上にオレンジを一つ乗せると男はポケットにオレンジを突っ込み歩きだした。

ドサッと、音がし、男が振り返ると今度は恭子が地面に寝そべっている。
暑さのあまり貧血で倒れたのだ。

この日の気温は36度まで上がっていた。


*****************


―――ん、なんか冷やりとして気持ちいい…
恭子は頬にぶつかる風と頭の下に感じる冷たさで目を開けた。

「おっ。気がついたか?」
―――へっ?ええーー。
恭子は驚き、起き上がろうとしたがまだ体に力が入らない。

頭の下には保冷剤があり、目の前にはオレンジを拾ってくれた男がウチワを持って恭子を扇いでいた。

「おまえの荷物とおまえで俺の方が倒れそうになったよ。ったく!」
「でも、おまえ、そんな色白でヒョロヒョロでちゃんと飯くってんのか?だからぶっ倒れんだぜ」
男は貧血で倒れた恭子と荷物を担いで、木造アパートの二階、六畳の自分の家に運んでいた。

「あ、あのぅ…私…」 
「みかん一つじゃ、足んねーよなぁ、お礼。二個…三個くれ、みかん!」 
男はウチワを扇ぎ続けながら言った。

少し楽になった恭子は起き上がり、男と向い合うように座った。
男は何も言わず、恭子の顔の前でウチワを扇ぎ続けている。
恭子が少し体を右に傾けるとウチワも右に付いて来て、左に傾けるとウチワも左に付いてきた。
一生懸命扇いでいるウチワの風が恭子の顔にバンバン当たっている。

「も、もぉ…大丈夫ですので…ウチワ…いいですので」
「え?あ、そう?」
恭子が軽く頭を下げ、そう言うと、男は自分を扇ぎだした。

この部屋にはクーラーはおろか扇風機もない。
風鈴の音がチリンチリン~と、きれいな音を鳴らし、恭子が音の方を見ると窓の外はすでに夕焼け空になっていた。
「やっと、少し風が出てきたな。今日はすんげー暑かったもんな」
男は真向いに座っている恭子に言った。

恭子がやっと自分を取り戻した。
「キャ、キャア!」
「な、なんだよ!急に!」 
男は体を後ろにのけぞり驚いた。
「ご、ごめんなさい!私ったら助けていただいたのにお礼も言わず、ボーっとしちゃって!」
「なんだ、そんなことか。別にいいよ。びっくりした…」
「本当にすみません!ありがとうございました」 
恭子は深々と頭を下げた。

「あっ、水飲むか?」

男は立ち上がり、蛇口から直接コップに水を入れ、恭子に渡した。
―――ミ、ミネラルウォーターじゃないのね…

恭子は、いつも決まったミネラルウォーターを飲んでいたが、喉が渇いていたので仕方なくコップを受け取り水を飲み干した。

ふと、ちゃぶ台の上を見ると、ガスか水道の領収書が置かれてあり、住人の名前がカタカナで書かれていた。

(スガノマサル)

「スガノマ…サル?」 
恭子は呟いた。
男は恭子を見た。

「スガノマ…サルさん?」 
恭子がもう一度、男の名前を読んだ。
「あのさ、なんでそこで切るんだよ!」 
男はムッとして言った。
「え?す、すみません…」
「スガノ マサル だよ…、サルじゃねーよ」 
マサルはブツブツ言った。
「ごめんなさい!スガノさん…」


「体も楽になったので、そろそろ帰ります。本当にありがとうございました」
そう言うと、恭子はオレンジの袋を持って立ち上がった。
「おい、みかん三個置いてけよ」 
みかんにこだわるマサルである。

「あっ、ご、ごめんなさい」
―――なんか、あやまってばっかじゃない、私…。
    それにみかんじゃなくてオレンジだし…。

恭子はそう思いながらも、言われた通りオレンジを三個ちゃぶ台に乗せた。

「あっ!そうだ!」
―――えっ、まだ何かあるんですかぁ…
マサルの声に恭子は不安になった。

「スーパーの袋、なにが入ってるかわからなかったから冷蔵庫にぶっこんどいた」
マサルはそう言い、冷蔵庫を指さした。
自分で勝手に出して持って帰れということだ。
「…はぁ、すみません」 
恭子はまた謝り、冷蔵庫を開けた。

食材の入った袋は、そのまま小さめの冷蔵庫に押し込められている。
恭子がそれを取り出すと、冷蔵庫の中にはキャベツが四分の一とポン酢とビールだけがポツンと残った。
―――へっ?この冷蔵庫なんにも入っていない…

恭子が冷蔵庫の中をボケッと見ていると、「涼んでんじゃねーよ、電気代もったいねーだろ」マサルに言われ、恭子はすぐさま閉め、謝った。
「ご、ごめんなさい」

グゥ~~~~キュルキュルゥゥゥゥ。

マサルの腹から鳴ったその音は狭い部屋に響き、「……」「……」二人は顔を見合わせた。

「あっ…も、もぅ夕食の時間ですよね。私!お礼に何か作ります。食材もあるし」 
恭子は自分のスーパーの袋を持ち上げて見せた。
「マ、マジィィィ?!」 
マサルの目が輝きはじめる。
「俺さ、ここ一週間キャベツと賄い食だけだったんだよなぁ、助かりぃ。じゃ、早く作れ」

―――な、なんでこんなに上から目線なの!この人。

恭子は怪訝な顔をしながらも、小さい流し台に立った。
が、包丁とまな板、鍋と茶碗が二つとフライパンしかない。

「あのぉ、お皿は?」
「ない!」
「調味料、えーっと、塩とか砂糖は…」
「ない!」
「ええー?!」
―――これで何を作れと…どうしよう…

「あっ!冷蔵庫のキャベツは使うなよ、明日俺が食うんだから」
「は、はい…」
とりあえず、恭子はステーキ用に買った霜降り肉をあまり切れない包丁でスライスし、野菜を適当に切った。

30分ほどして、ちゃぶ台に鍋だけが置かれた。
出汁も何も無いので鍋に水を張り肉と野菜をぶち込んだ、ただの水鍋だ。

「うおぉぉぉ、すげー、肉じゃん!何ヶ月ぶりだ!」
マサルは嬉しそうにハシャイでいる。
「ポ、ポン酢は使ってもいいですか?」 
恭子は恐る恐る聞くと「ぁあ?あぁ、いいよ~」マサルはご機嫌に言った。

二人は、8月のただいま夏真っ盛りの中、クーラーも扇風機もない畳の部屋で鍋を囲った。
具材は、鍋に合わない野菜も入っていたが、マサルは汗を掻きながら久しぶりの肉をうれしそうに食べた。
一膳しかない箸はマサルが使い、、恭子はフォークを手にしている。

「うんめぇ!肉!暑い時に鍋っていうのもいいよな!おまえも早く食えよ。俺みんな食っちまうぞ」
―――っていうか、もうお肉ないし。

恭子はおいしそうに食べるマサルを見て、可笑しいのか楽しいのかわからない気持ちになっていた。

「おまえさぁ」 
「あっ、坂井です。坂井恭子といいます」 
まだ名前を言っていなかった恭子が名乗った。

「恭子さぁ」
―――い、いきなり呼び捨てーー?!
マサルはサラリと恭子の名を呼んだ。

「は、はい。なんですか?」
「恭子さぁ、何やってる人?何歳?どこに住んでんの?」
「え?」 
「だってさぁ、若そうなのに、いい食材買いこんでんじゃん。肉だって霜降りだしさぁ」 
マサルが鍋を見ながら恭子に言った。
「ふ、普通のOLです。24歳で、住まいは4丁目…」
「ふ~ん、OLって結構いい生活してんだぁ。いいなぁ~俺もOLになろうかな」
―――いやいや、なれないから…

「スガノさんは?」
「ん?あっ、マサルでいいよ。サルとか呼ぶなよ」
―――呼ばないって…

「俺は29歳、住まいはここ!」
―――住まいは、わかってますって…
恭子は一人突っ込みを入れながら聞いた。

「マサルさんの仕事は…?」
「俺?俺は居酒屋でバイトしながら、物書きしてる」
「物書き?」
「小説家!一応、出版もされてんだけど、あんま売れてねーな。なんでみんな俺の才能がわかんねーのか、わかんねー」

マサルは、大学生のころから小説を書いていて4冊ほど出版しているがどれもあまりパッとしていない。
一応今は月刊誌に連載を二本書かせてもらっているだけで、週5回の居酒屋でのアルバイトが主な収入源だ。

「へぇ、小説家なんだぁ!すごい~!」 
「す、すごくはないよ…売れてねーし」 
マサルは恭子の素直な驚きに照れながら言った。
「小説家の人って、本とか…他の小説家の本とか読むんじゃないんですか?というか、テレビも…?マサルさんのとこ…」

この六畳の部屋を見渡す限り、テレビもコンポも本棚もなく、あるのはちゃぶ台と恭子が寝かされていた万年寝床のような布団だけだ。

「何にもないよ、俺んとこ。テレビ見ないし、人の小説なんて読まないし、他のヤツが書いた小説なんて読んだら、余計なもの頭に入っちゃうからな」

マサルは、そう答えながら、普通は鍋に入っているわけがないズッキーニを食べた。
―――鍋にキュウリってーのも合うんだ。



食事を終え、恭子が後片付けをし終わる頃には9時を回っていた。

「もうこんな時間…遅くまでお邪魔しちゃってごめんなさい」
恭子がオレンジの入ったエコバックを持った。

「ん?もう帰る?こっちこそ、ありがとな!久しぶりに美味いもん食わせてもらって元気が出た」
「いえ、私こそ助けてもらって、ありがとうございました。あっ、残りのお野菜置いていきますので食べてください」
恭子は鍋に使わなかった野菜を冷蔵庫に入れておいた。
「うぉ~、いいの?助かるぜ!」 マサルはガッツポーズをした。
「…じゃ、私はこれで…」
「あっ、俺も風呂に行くから下まで一緒に降りようぜ」 
マサルはタオルと石鹸が入った洗面器を冷蔵庫の上から取ると、玄関で靴を履いている恭子の所に来た。

「この辺りに銭湯ってあるんですか?」
ここは住宅地なので一番近くの銭湯は、歩いて行っても30分はかかる。
「銭湯なんてないよ。このアパートの敷地内奥に水道があるんだ。ホースもついてるし便利だぜ!ちゃんと大家のバァちゃんにも許可もらってるし」」
「…ホ、ホース…?」

マサルの住むアパートは部屋数が6戸あるが、マサル以外に学生が二人住んでいるだけで残り3部屋は空室だ。
地主の大家が好意で貸してくれているため、アパートはボロボロだが家賃は2万円と、この辺りの地価を考えると格安というよりありえない家賃だった。

階段を下り、
「俺んちの風呂こっちだから。じゃ!」 
「あっ、今日はありがとうございました」
マサルはアパートの奥へ、恭子は自宅に向かい歩き始めた。


二人は連絡先の交換もしないまま別れた。



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