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正しい悪魔の飼い方 作者:庚 真守
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地獄巡りのこと

「いや、遠慮する。放して」
「では、わしがそなたに触ってやろう」
「触ってやるとは何よ。いらないわよ。触らないでよ」
「なぜじゃ」
 不思議そうな顔をして言う。
 大きく見開いた金色の目が、底から光を放って輝いているようだ。
 大人の美しい女が子供じみた表情をするものは、妙なギャップがあって可愛い。
 完璧すぎる造作。
 ほっそりとした身体を包む漆黒の甲冑が、むき出しにされた豊満な乳房とくびれた細腰をいっそう強調する。
 妖しいほどの美しさは、やはり魔性か。


「自分の胸、触っときなさいよ。こんなに立派なんだから!!」
「そなたのがよい。わが手の中におさまる。まことによい塩梅ゆえ」
 確かにあたしの胸は小さい。
 むっとして、そっぽを向くと目の前の美女は柳眉を顰める。
「判らぬ。そなたも触られたほうがよかろう?」
 どうも、真剣に言っているらしい。
 彼女とは短い付き合いでしかないが、悪魔に人間の理屈は通らないのは身に沁みている。もしかしたら単に彼女が天然なだけかもしれないが。

「どこで、触ったほうがいいって発想になるのよ」
「揉めば大きくなるぞ」
「どうせ、悪かったわね。小さくって!」
「わしはそうは思わんが、そなたが気にしているようであったからな」
 ぴきっと、こめかみが引きつるのを感じた。
 それはこいつが、見せつけなければ気にならないことだ。
「そういうことは、恋人にしてもらうもんなのよ」
「恋人?」
 不思議そうに公爵は、あたしの言葉を繰り返した。
 女にしては低すぎる声だ。
 だが、よく通る。まるで岩清水のように冷たく染み入るような声音だった。
「好きな人ってことよ」
「わしのことであろうが」
 ぬめぬめとした爬虫類のような目で、あたしより頭ひとつ分高い位置から斜めに見下ろす。
 その目つきが彼女の美貌とあいまって、同性でありながら、ぞくりとするほどの色香があった。
 こちらは服を着ているはずなのに、まるで裸を見られているような気分だ。
 慌てて首を振った。
「断じて違う。あたしにそっちの趣味はないんだから!!」
「あれやこれやと、そなたはうるさい」
 ようやく飽きたのか、公爵はあたしの手を放して、面白くなさそうに肩にまつわる黒髪を後ろに払った。
 髪の先が鼻先をかすめると、ほのかに没薬(ミルラ)の香りがただよう。
 甘くて、ほんのり苦い香り。
 その香りを嗅いでいるうちに、なんだか鼻がむずむずしてきた。



「へぷっし!」
「どうした、風邪か」
 公爵が真剣にこちらの様子を伺っている。
 雑な扱いをするわりに、彼女はいつもわたしを気遣っている。
 ぐずっと洟を啜り上げると、闇に溶け込んでしまいそうな黒髪が揺れて近づく。
 日差しが苦手なわりに浅黒い手が伸びて、わたしの額に触れる。
「熱はなさそうじゃな」
「あるわけないでしょ?」
 ぱしっと手を払いのけると、やつはひどく傷つけられたような表情をする。
 見上げるような長身なのに、ちょっと冷たい態度をとると、こんな顔をするのだから笑ってしまう。



 なぜだろう。
 この美しい悪魔の前であたしは、恐れるより前に笑いがこみあげてくる。
 初めてあたしが、この悪魔と出逢った時、これは夢を見ているのではないかと思った。
 獰猛な獣のようでもあり、その反面、優雅で美しい女そのものだ。
 これが悪魔というものなのだろうか。
 現実離れして、憎ったらしいほど圧倒的に奇麗だった。
 その悪魔があたしを“主”だと言う。
“主”とは何のことだろうか。判らないまま、彼女はあたしのそばにいる。
 いつの間にか、それは当たり前のことのように思えていた。


 ――アスタロト。地獄の大公爵。

 それは配下の魔王たちにそう呼ばれていた。
 魔王たちは、アスタロトとは違って確かにそれらしい怪異な容貌をしている。
 側近だというサルガタナスは羊の頭部に、身体は人間の男だった。
 羊の口が開いて普通に日本語を話す。
 まるでSFX映画やファンタジー系のゲームなどでお馴染みのクリーチャー だ。作り物が喋っているかのようだが、妙に生々しく口は動く。
 どういう発声をしているのか。動物なら、人間と同じ声帯をもつはずもない。
 重そうなねじれた角を蠢かす。
 ひどくそれが不気味に見えて、あたしはアスタロトの黒衣に隠れた。

 また別の悪魔ネビロスは四つの耳と四つの目を持ち、顔の半分ほどを髭で覆われている。
 黒々とした髭の中には真っ赤な口があり、そこからは炎が噴き出す。
 その炎には熱さは感じないものの、恐ろしくあたしは膝ががくがくと笑ってしまうのが止められなかった。
 まともに立っていることさえできない。
 踏みしめる大地の感覚すら危うい。
 ぐっしょりとした苔を踏んでいるようでもあり、時おり乾いた枝を踏みしだくようでもあった。
 よく見れば、それは獣の骨で、それらはもろく簡単に崩れる。
 時おり、足をとられてつまずきそうになるのは、丸い人の頭蓋骨だった。
 あたしは恐ろしさに公爵にしがみつきながら悲鳴をあげ続けるしかない。
 喉が嗄れるほど叫び、それでも恐怖は大きくなるばかりで、眩暈がしそうだった。
 いっそ気絶でもできれば、楽になっただろう。
 今、あたしのいる世界のほかにも死後の世界というものがあるのだとアスタロトは言う。
 キリスト教徒や仏教徒でなくても、そんなことは小さいころから聞かされる。

 ――悪いことをしたら地獄に堕ちるよ。

 そんなこと本気になど、したことはなかった。
 しかし、あたしが連れていかれたのは、まるでダンテの神曲のような世界だった。
 煮えたぎる血で真っ赤な川の岸におぼれる魂がある。
 自殺者の魂は古木になり手折られれば、その枝から血を流す。
 火の雨が降る中を皮膚を焼かれながら、逃げ惑う魂もいた。
 自らの肢体をむさぼる魂……。
 魂魄となったその身に現世であったのと同じ肉と持ち、彼らは自分の腕を噛み千切り、その痛みに泣き叫びながら、なおも喰い続ける。
 鼻がもげそうなほどの悪臭を放つ排泄物の中にのたうつ魂。
 そこは悪の嚢<(マレボルジャ)と呼ばれていた。
 黒いタールのような粘つく液体が、やはり人の魂とともに煮られている。邪悪の尾(マラコーダ)という悪魔があたしに向かって何か言ったが、よく聞き取れなかった。
 おそらくは何か下卑た冗談だったのかもしれない。
 すぐにアスタロトは、マラコーダに罰を与えた。

 その権限が大公爵にはあるらしい。
 地獄を取り仕切るのは閻魔大王だと思っていたが、それは東洋の話だけなのか。
 公爵が何をしたのかは判らない。
 アスタロトは、あたしを連れてその場を立ち去ったからだ。
 ただマラコーダのほうは、慌てふためいて煮炊きのための大きな匙を投げ捨てて、その場にひれ伏しているのが、視界の隅に見えた。
 あたしが認識したのはそこまでで、後に引き裂くような物音と同時に甲高い悲鳴が聞こえた。
 振り返ろうとするのを、公爵は強い力で抱き寄せられて顔を彼女の柔らかな胸にぶつける。
 いつもなら文句のひとつも言ってやるところだが、今はそれどころではない。
 奇妙なびちゃびちゃという水音が聞こえてくる。
 あれは何。
 そう訊ねたいのに、言葉は咽喉の奥に張り付いて声にならない。
 悪魔にも心臓はあるのだろうか。その豊かな二つの胸の間から規則正しい鼓動が聞こえる。
 その音を聞いていると不思議な安心感があって、あたしはそのまま彼女の胸に顔をうずめてしまう。
 断末魔のような悲鳴は、いつまでも耳に残った。

 聖金曜日の夜に詩人ウェルギリウスに案内され、地獄の門をくぐったダンテのように、死後の罰を受ける罪人たちの間を遍歴していく。
 薄い闇の世界で、亡者たちの怨嗟の声が響き渡り、あたしはあまりの恐怖に泣きながらアスタロトにしがみついた。
 だがそれは、地獄のほんのとば口にすぎない。
 彼女は笑って言うのだ。
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