〔第一章 はじまり〕Contatto〜出会い
Ristorante Delizioso――。
イタリア語で〈美味しい・とても楽しい〉という意味を持つこのお店に初めて連れて行かれたのは、私がまだ5歳の桜が舞う季節だった。
青と白を基調にしたそのお店は、郊外の高台に建っていて眼下には果てしなく広がる紺碧の海を望むことができた。
「さあ 入ってごらん」
父は私の手を引くと、青銅でできている重厚な門を開いた。
キ――――ッ
公園にある古くなったブランコが軋むような甲高い音をたてて門が開く。
「わあ……」
店の敷地内に入ると、私は感嘆の声をあげた。
店の庭にはローズマリーやセイジやミント等色々なハーブが所狭しと植えられていて、春の麗らかな微風に乗って私の小さな鼻を清々しい薫りが刺激する。
ローズマリーに咲く小さな白い花は軟らかい太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
レストランの入り口迄は、天然の岩をそのまま刳り貫いて上部だけを丁寧に研磨した橙色の石畳が続いていて、私は父にしっかりと手を繋がれながら心躍らせてその上を歩いていった。
カランカラン……
木目調のシンプルな扉を開くと、入口のドアに取り付けられていた鐘が鳴り響いた。
「Buonasera!!」
明朗で爽やかな声が私の耳に入る。
突然の歓迎の声に思わず息が止まりそうになった。
驚いて顔を上げるとそこには漆黒の髪を短く切りそろえた、線の細い優しそうな眼鏡を掛けた男性が立っていて温かい笑顔で私達を迎えてくれた。
しかし人見知りが激しかった私は、驚きと恐れで父の手を力強く握ってその背後に隠れてしまった。
「クニヒコ!」
入口の右手奥の調理場から、白いコックローブに青色のスカーフをした大柄の男が弾けんばかりの笑顔で飛び出してきた。そして父に抱き付くと、両方の頬へ交互にキスをして骨が折れる程強く抱き締めた。
(!!!)
その男同士の濃厚な抱擁を目撃してしまい、まだ愛だの恋だのが未知の世界であった私は、思わず左手に抱えていた熊のヌイグルミを足元に落としてしまった。
人目も気にせず嬉しそうに抱きついているそのガタイが良い金髪の男性は、父の肩越しに私を見付けると父に尋ねた。
「figlia?」
「Si」
父はコックローブの彼に頷く。
「コンニチハ」
彼は驚きのあまり大きく目を見開いて瞬きをしている私に片言の日本語で挨拶をして優しく微笑むと、軽々と抱き上げた。そして先程彼が父にしていたように今度は私の両頬にキスの嵐をお見舞いしてきた。
案の定 私は恐怖で凍りついてしまった。
目には薄らと涙が滲む……。
「ニコっ!輪が恐がっているよ」
その様子に気づいた父は、ニコと呼ばれた大男から私を救出すると足元に落ちていたヌイグルミを拾って私に『はい』と渡してくれた。
私は瞳に溜まって溢れそうになっていた雫を右腕で擦って拭うと、力一杯 お友達のテディを抱き締めた。
「Mi scusi!クニヒコ ノ figlia とても amorinoネ!」
大男は膝を折り、姿勢を低くすると私の高さに目線を合わせた。そして申し訳なさそうにこう言った。
「Scusi」
彼は体付きとは反する繊細な掌で私の頭を優しく撫でると屈託なく笑った。
その子供のような笑顔と、暖かい手の平の温もりに、いつしか私の強張っていた体は解きほぐされていた。
私の頭をなで終わると彼は父へ向き直り口を開いた。
「クニヒコ。スタッフ キマッタ」
そう言うと、二コは父の腕を取り奥にある広いフロアへと引っ張っていってしまった。
「輪ちゃんも行こうか」
寂しく1人置き去りにされた私に、先程の眼鏡の男性が優しく手を差し伸べてきた。
「うん……」
人見知りが激しかった私だったが、何故かその時は素直にその手を握りしめると彼と一緒に父の後を追った。
◇◇◇◇
店の奥のフロアまで来ると私は彼の手を握ったまま立ち尽くしてしまった。
扇状に広がる広いフロアには、真っ白い椅子とテーブルがホテルの披露宴会場のように規則性を持って並べられており、そのテーブル上には深い海の色をしたクロスが敷いてあった。
そして海色をしたその上にはくすみ一つ無い真っ白なソーサー(皿)と貝を形どった清潔そうな純白のナフキンが置かれていた。
「はぁ……」
私は一つ溜息を漏らすとぐるりと辺りを見回してみた。
扇をかたどるそのフロアの壁の一番膨らんだ場所だけ、窓枠に青いペイントが施されている大きな硝子が嵌め込まれていてそこから外の様子が伺えるようだった。
そしてそれ以外の場所には汚れ一つない真っ白い壁が続いており、その壁にはカラフルな模様や絵が描かれた大きなお皿が飾ってある。
それはまるで南イタリアやエーゲ海の港町を思わせた。
そのまま壁の先迄目を走らせると、左右一ヶ所ずつにだけ丁度人が一人通れるくらいの大きさの青い扉が付いていて、そこから海の見える外のテラスへと出られるようだった。
テラスにも、店内と同じテーブルと椅子が窓硝子添いに設置されていて、恐らく温かい季節になると多くのお客さんがそこで紺碧の海を見ながら寛ぐのだろう。
私はその光景を目にしてふと思った。
(ここはまるで、お母さんとお父さんと三人で旅行した、あの真っ白な島みたいだ……)
と。
(あそこ……なんて言ったっけ?)
「輪ちゃん?」
突然大きな声で名前を呼ばれて驚いて顔を上げる。
すると、そこには私を覗きこむ、眼鏡をかけた不思議そうな表情をした、綺麗な顔があった。
「あっ、」
「どうしたの?」
私は我に返ると彼に向かって小さな声で言った。
「何でもない……です」
そして彼の手をギュっと握り直すと、今度は自分が彼を先へ促すように歩きだした。
◇◇◇◇◇
父と先程の大きなオジサンがいる場所まで来ると、そこには数人の黒ずくめの男性が立っていた。
皆同じ格好をしている。
上から下まで黒でシックに統一されている彼らは、長身の身体にパリッとしたスラックスを履き、膝下丈ほどもあるエプロンをお腹の前でしっかりと締めている。上半身にはお揃いのベストを着込みその胸元にはデフォルメされた魚の刺繍が入っていた。
(かっこいいっ!!)
その瞬間、見事にその黒服スタイルを着こなしているお兄さん達と、そしてそのスタイルに私は憧れてしまった。
(こんなお洋服私も着たいなぁ……)
幼い私は彼らを見てフゥと一つ溜息を吐いた。
ふと気付くと、私をここまで連れて来てくれた、優しい眼鏡の男性の姿が隣から消えていた。
「あれ?」
不思議に思って首を左右に振って探していると、その男性は静かに黒服のお兄さん達の列の中へと混ざっていた。
「輪 改めて紹介しよう。私の友人のニコだよ」
父は自分の隣に立っている先程の大男を私に紹介した。
「リンチャン、ヨロシク ネ!」
彼はバツが悪そうに頭を掻きながら、私に手を差し伸ばしてきた。
どうやら仲直りの握手をしたいらしい。
「彼はイタリア人なんだよ。お父さんと一緒にこのお店を開いたんだ」
私はテディとギュっと力強く両手で握り締め、恐る恐るニコを見上げる。
「二コハcuocoネ!二コノツクルモノ トテモbuonoヨ!」
そう言うと目の前の大男は豪快に笑った。
その後ニコはお店のオープニングスタッフを一通り父に紹介した。
先程私をここまで連れてきてくれた男性も紹介された。
彼の名前は 名波恵一
このお店のカメリエーレ(ウエイター)長だった。
「宜しくおねがいします」
彼は優しげな眼差しを湛えて、私達に丁寧に挨拶をした。
カランカランカラン……
再びドアベルがけたたましい音で店内に響き渡った。走ってくる足音に顔を向けると、フロアの入口に一人の小学生くらいの男の子が立っていた。
その彼は輝くばかりに眩ゆいブロンドの髪をしていて、透き通った藍の瞳を持っていた。オーバーオールにスニーカーを履いていた彼は、右手にローラーボードを抱えている。
「レオ!Sbrigati!」
二コはその少年に気付くと鋭く少年に言い放った。
彼はニコに怒鳴られると、慌てて二コの傍まで走ってきて、そしてニコの隣に立つ。
少年が自分の隣に立つと、ニコは彼の髪の毛をかき回しながら私達に紹介してくれた。
「 カレハ レオ !二コ ノ figlio《息子》ネ。 アイサツ シナサイ」
そう言って自分の息子を私の前に押し出した。
しかし言われた彼はただそっぽを向いて不貞腐れたように突っ立っているだけで、私の顔を見ようとはしない。
「レオ!」
再度二コが怒鳴る。
「チェッ、なんだよ……」
少年は面倒くさそうに舌打ちをすると、『ほら』と片手を私の前へと突きだした。
「えっ……」
その態度に一瞬躊躇するが、
「輪」
父に促されて、ゆっくりと少年の手をとった。
「瑞森 レオ《みずもり れお》」
彼はぶっきら棒に言う。
「で、お前は?」
斜に構えながらも、私の顔を真っ直ぐに見つめる少年。その整った顔立ちに見惚れてしまう。
(綺麗な男の子。髪の毛はクルクルしてるし、ビー玉みたいな真っ青な目してるし、顔だってお人形さんみたいに睫毛長いし……まるで絵本の中の王子様みたい……)
まだ若干5歳だったにも関わらず、生まれて初めてみるこの美しい造形美に私は心を奪われてしまう。
「おい名前」
王子様が鋭く言い放つ。
「えっ?」
「だから、お前の名前」
「あ、輪……です」
「りん……ふぅ~ん」
「?」
「変な名前」
グサッ!
瞬時にして私の心が傷を負った。しかしそれでも、王子様はまだ何か言いたそうに私をじろじろと見ている。
「な、なに?」
「お前さぁ……」
「うん……」
次に王子様から発せられた言葉に、私の頭はスパークした。
「もう生理きたか?」
「!?」
(せ、せいり?)
その意味をまだ詳しくは理解していなかった私だったが、何故かとても卑猥な言葉を投げ付けられたような気がして、顔が瞬間沸騰湯沸かし器になる。
「レオっ!!」
その言葉を耳にしたニコが、烈火の如く怒り鉄拳をヤツにお見舞いしようと拳を振り上げた。
しかしその刹那、
ぱぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!
ニコの鉄拳が打ち下ろされるよりも速く、私の平手打ちが奴のキメ細かい白い頬にジャストミートした。
「!!!」
フロアにいた全員が息を呑んで見つめる。その静寂を奴の叫び声が切り裂く。
「んあにすんだよ~っ!!!」
私はその言葉を背後に聞きながら、限界まで空気がはいった風船の如く両頬をパンパンに膨らませてゆでダコの顔をしたまま店を飛び出してしまった。