見知らぬ誰か
梅雨とテストが同時に明けた。久しぶりの晴れ晴れとした良い天気だ。県大会をもうすぐ迎える野球部のかけ声や、バットに球が当たる音がグラウンドには響いている。美術部の女生徒はほとんど野球部のエース目的に、部をサボって外で観戦している。それだというのに、一人、美術室にこもりきって黙々と鉛筆を走らせている部員がいた。
冷房もついていないのに、教室の窓は全部閉め切ってある。蒸し暑さのためか、彼女の額にうっすらと汗が浮かびはじめていた。
ひんやり。涼しげな風を感じて、山崎は顔をあげた。
「うあ。びっくりした」
「……」
山崎の座る前の机に、幸嶋が寄りかかって、どこから持ってきたのだろう、うちわを扇いでいた。
「あっついね」
幸嶋のうちわの余り風にあたりながら、彼女は言う。そして幸嶋が言葉を返してくれるのを待つが、彼はぱたぱたとうちわを扇ぎ続けるだけでいる。今までに何度も経験した類の沈黙。彼女は溜息一つついてから、もう一度紙に向かった。
真っ白だった画用紙が、鉛筆で少しずつ黒っぽくなっていく。段々と輪郭を表す絵。空と海の境目。その風景画を彼女は描いているのだった。伸びをしようとして腕をかかげると、利き手の左手が真っ黒になっていることに気付いた。鉛筆の粉だ。軽く払ってから、また書き始めたとき、
「そうだな」
と幸嶋が言った。
しばらく、山崎は紙に向かった状態のまま、唐突な幸嶋の言葉をすんなりと理解できなかった。数秒時間が経過して、さっきの自分の言葉に相槌をうっているのだとわかると、「遅いよ」と苦笑いして幸嶋を見上げる。
幸嶋はもう、山崎を見ていなかった。先ほどと同じくうちわを扇ぎつつ、机に寄りかかったままの体勢で、窓の外を見ていた。彼も同じように暑いのか、汗が浮かんでいる。そのうちの一粒が、つーっと頬をつたって首筋を流れていく。
それを見ていた山崎は、どきっとした。どうしてなのかは、わからなかった。そんな自分がますますわからなくなって、苦し紛れに再び机に突っ伏した。
ガタッ
いきなり立ちあがると、幸嶋は何も告げずにふらっと美術室を出て行った。やっといなくなった、と山崎は思っていたのだが、しばらくすると幸嶋は戻ってきた。缶ジュースを二本持って。
「冷えてるから」
とだけ言うと、山崎に缶を一本渡し、あたかもそこが自分の指定席であるかのように、机の上に座る。
「ありがと」
飲むと、ひんやり冷たかった。清涼飲料水だ。喉が乾いていた山崎は、缶ジュースを一気に飲み干した。幸嶋はそのタイミングをはかっていたのだろう、言葉をきりだした。
「俺、今日は帰り遅くなる」
「そう。生徒会?」
幸嶋はホーム代表なのだった。それに関わることなのだろう、と山崎は思った。
「違う。伊藤に呼び出しくらった」
「いとう? ……あ、真由美先輩か」
伊藤真由美、とは美術部の三年生、副部長だ。とても繊細な絵を描く人で、山崎が今最も尊敬する先輩である。彼女が美術部に入部したのも、その人の影響が強い。
「学園祭近いから、その話だろ。だから今日は先帰ってろ。いいな」
「そっか、学園祭近いんだ……」
「聞いてるか。人の話」
外はすっかり暗くなっていた。
先輩を待つと言う幸嶋と美術室で別れて、山崎はぼんやりと考えながら正面玄関を出た。去年の美術部の企画は、たしか作品の出展をしていた。今年もきっと同じ事を企画をするだろう。そうして、ただ何気なく、美術室のある棟を見上げた。もちろん美術室は電気がついていた。しかし、次に山崎の視界に入っていたものは、
立ち入り禁止になっているはずの屋上のフェンス。
誰かが、それを乗り越えようとしていた。
(ウソっ、わたし幸嶋じゃないのに!!)
幸嶋や、他の誰かを呼ぶ時間はない、と山崎は思った。急いで校内にもどり、もつれる足で屋上への階段を上る。階段が途切れる。必死で足元を見ていた山崎が、顔をあげると、屋上の扉の鍵は開いていて、扉の外では人がフェンスを既に乗り越えていた。
「待って!!」
その人は男だった。肩よりも長い髪を風に触らせている。フェンスの網に両手を絡めながら、彼は足元のずっと下の地面を見下ろしていた。うちの制服じゃない、と山崎は思った。
(……誰?)
少年は振り向く。
「キミ、誰?」
妖しくその眼を光らせて。