浮かれた男の初めての恋
――まぁ、何と美しいお人でしょう。
男は稀代の美丈夫であった。人々は口々にそう言った。だがそれは、男にとって、大変にありがたくない殺し文句であった。
いろんな意味で。
これはそんな男の、初恋の物語。
男にはたった一つ、欠点があった。その欠点のせいで男は今、とんでもない危機にさらされていた。
「やぁ、色男くん」
そう声を掛けられ、俺はあわてて椅子にしがみついた。ふっと笑う声が近い。
「おっ前、わざとだろう」
そう言ってやると、今しがた部屋に入って来た友人アレトスは黒い笑みを浮かべた。
「まぁね」
俺は自分の足にちゃんとおもりがついていることを確認し、顔を上げた。
「ご苦労だねぇ。いっつもおもりつけて」
「軍人だからな。体を鍛えておくに越したことはない」
強気に返してはみるが、俺の秘密を知るアレトスからしてみればそんなの何の意味もないのだろう。
「そのおもりはそれだけのためにつけてるわけじゃないけどね」
「うるさい」
「リリア……」
男がその名を口にした瞬間、ふわりと体の浮くような感覚に襲われ、慌てて椅子に捕まる手に力を込めた。
「いやぁ、可愛いよねぇ。リリアちゃん」
「や、やめろ……」
「今日、見に来ていたじゃない。弁当っぽいバスケットを持ってさぁ。君に渡したくてたまらないそぶりを見せてたのに、彼女を見つけた瞬間君が壁にしがみつくようにして去って行ったから、泣きそうだったよ。かわいそうに」
「く、くそ!」
椅子にしがみつく手に力をこめる。しがみつくというよりも、椅子につかまって自分の体を地面に押し付けるような感覚だ。
「デートくらいしてあげたらいいのに。もたもたしてると、傷心のリリアちゃんを僕がおいしくいただいちゃうよ?」
「や、やめろ……!」
「じゃあ、誘ってあげなよ」
「できない」
「デートしたことないだろう? もしかしたら、うまくいくかも」
「できっこない」
「好きなのに?」
「好きだから、だ……」
自分には、デートなんて荷が重すぎる。
いや、軽すぎる、の間違いか。
人には誰しも心が浮き上がるような瞬間があるはずだ。
誰かに褒められたり、好きな人と話したり。
そういうとき、心だけでなく体が軽くなるような感覚を覚えることがあるだろう。
人はそれを「浮かれる」という。
そして俺は、
「浮かれる人はいるけど、それで本当に体が浮いちゃう人なんて聞いたことないよねぇ、君以外」
という友人の言葉にため息しか出てこない。
そう、俺は心が浮くと体も浮く。それを防ぐため、いつだって体にはおもりをつけている。多少褒められて心が浮ついたくらいでは体が浮き上がらないように。
これまでは、それで何とかなっていた。
かっこいいと言われても、軍で最強と言われても、足首と腕につけたおもりで何とかなる。
ところが最近になって、何とかならない事態に見舞われていた。
それが、リリア――
「うわっ」
体がぐらりと傾いで、ついに地面から足が離れた。
「今、リリアちゃんのこと考えたでしょう」
アレトスはそういってさも可笑しそうな顔をするが、俺にとっては何も面白くない。
浮いた体でアレトスを見下ろしながら、何とか「部屋の鍵をかけてくれ」とだけ言った。
アレトスがすすっと移動して鍵をかけ、他の人にこの状況を見られないようにしてくれる。
リリア・メルン。
名さえも可愛い。
本人ももちろん可憐で、いつだって俯いて頬を染めている。
彼女のことを考えると、どうしても体が浮いてしまう。
おもりを増やしてみたりもしたが、それでも浮いてしまうのを止めることはできない。
「さらに増やすしかないんじゃない? おもり」
アレトスはそう言うが、事態はそんなに単純ではない。
リリアに会っている時に浮かない程度のおもりを普段から装着しようとすると、リリアが居なくなった瞬間俺はあまりの重さに動けなくなるだろう。
つまり、どうしようもない。
そしてそれは、俺の恋が決して実らないことを意味している。
だって、見たことがあるだろうか? デート中に浮いて空に消えて行った男を。
俺は、ない。
「まぁ君はきっと、キスとかできないよね。たぶん唇が触れる前に雲の上でしょう」
「くそっ」
どうしたって俺は、リリア・メルンと恋人になることはできないのだ。
「まぁだからやっぱり、僕がリリアちゃんをいただいてだねぇ……」
アレトスの言葉に体がふんと沈み込み、床に降り立った。
「あ、降りてきた」
くすくすと楽しそうに笑う男。
「お前、本気で言っているんじゃないだろうな」
「わかんないよ?」
「ふざけるな。お前にはアーシャ嬢やメリルダ嬢やカミラ嬢……たくさんいるはずだ。敢えてリリアに手を出すような真似はするな」
アレトスはなおもくすくすと笑う。
「君はさぁ、寡黙とか冷静とか言われるけど、全然そんなことないよね、実は」
言うまでもない。
心を浮つかせないため、褒め言葉にもほとんど無表情で返し、ヤバい時には椅子につかまるという生活を続けてきたのだ。
その結果、「美丈夫だとか褒められても調子に乗るようなことのない、冷静な人」という印象が広まってしまった。
また、「浮いた噂ひとつなく、普段からおもりをつけて体を鍛えるようなストイックな人」という印象も広まった。浮いた噂がないのは噂より先に自分が浮いてしまうからだ。
リリア・メルンからの熱い視線には気付いている。だが、リリアも噂を信じているのかもしれない。寡黙とか冷静とか、そういう噂を。
だとしたらそれは俺ではない。
それも、俺が積極的になれない理由の一つだった。
「まぁしかし、何とかして状況を打開しないと、君はこの先ずっと、ずーっと、結婚はおろか女の子と付き合うことさえできないまま死んでいくことになるよ」
死んでいく。
せめて、生きていくという表現にしてくれないものか。意味するところは同じでも、死んでいくと言われると絶望的な気持ちになる。
「それは友人として忍びないからさぁ、誕生日に君にとっておきのプレゼントをあげることにしたんだ」
「なんだ」
また、おもりか。
「デート」
「は?」
「リリアちゃんとのデート」
「意味がわからない」
「誘っといた。君の名前で。手紙を預かったって言って」
「手紙?」
「僕が書いた。君の名前で」
「おまっ」
それは犯罪だろう。
「だってそれくらいしないとさぁ、どうしようもなさそうだったから。あ、お礼はいらないよ」
誰が礼なんか言うか。
「何て余計なことを……」
俺が怒りに打ち震えていると、アレトスは「頑張ってね。愛しいリリアちゃんとのデート。キスとか、できちゃうかもよ?」と言った。
くそっ体が浮いて…
目の前の友人を絞め殺してやりたいのに、浮き始めた体を床に押さえつけるのに精いっぱいでアレトスに指一本触れることができず、面と向かってデートの約束を取り消すと言う(物理的な意味で)浮ついたこともできぬままデートの日を迎えることになった。
デートの日、アレトスに指定された大木の下で待っているとリリア・メルンが息を切らせてやって来た。
「ごめんなさい、お待たせしました」
「いや、待っていない」
この時点で既に内臓が口から飛び出しそうなほどの浮遊感を感じているが、いつもの3倍ものおもりを付けてきたおかげで何とか地面に足をつけたまま持ちこたえた。
「あの、今日はどこへ?」
当たり前の質問だが、首を傾げながらそれを言われると、踵が浮いてしまう。
くそっ可愛いな。
「こ、ここだ」
動揺を悟られぬよう冷静に告げようとしたが、少し声が詰まってしまった。
つ、つま先だけは何とか……
「あの、どうかしましたか?」
「いやっ大丈夫だ……」
「でも、具合がとても悪そうです」
心配してくれるのか、この俺を。
なんて優しいんだ。
そう思った瞬間、足の裏が完全に地面から離脱した。
「くそっ」
つい、口に出てしまった。
「え?」
「あ、いや、なんでもない」
あわてて誤魔化すが、リリアは困ったような表情でこちらを見つめてくる。顔を見つめているおかげか、俺の体がわずかに浮いていることには気づいていないようだ。
「本当に、大丈夫ですか? あの……お顔が真っ青で……」
何が引き金だったのかわからない。
心配げに俺の顔を覗き込むその表情か。
少し潤んだその瞳か。
俺の熱をはかろうとでもしたのか、額に伸ばされた小さな手か。
その手が触れた一瞬のぬくもりか。
とにかくその一瞬で、俺の理性は消し飛んだ。
そして、リリアの視界からも、俺の姿は消え飛んだ。
「やぁ、色男くん」
アレトスがまたやって来た。
俺は机につっぷしたまま顔を上げることすらできない。
「上空から見るリリアちゃんはどうだった?」
正直、豆粒のようだった。
だが、答える気にはならなかった。
「浮いちゃったらしいね」
「ああ」
浮いちゃったどころの騒ぎではない。
戦場で使う巨大な投石器の石よろしく上空へと飛びあがったのだ。
ものすごいスピードで。
「なんていうか、あれだよね。結構な武器になりそうな早さだったよね」
ぶふぅと吹き出しながらアレトスが言った。
「見てたのか」
「まぁ、もちろんだよね。何のためにあそこを待ち合わせ場所にしたと思ってるの。あの木が目印になって遠くから覗きやすいからじゃない」
いけしゃあしゃあと言う友人を絞め殺してやりたくなったが、そんな気力は沸いてこない。
「それで? 今、リリアちゃんの話をしても浮かないのはなぜ?」
友人の言葉に、俺はふと自分の今の姿を思い返してみた。
机に突っ伏したまま、友人と話をしている。
リリアの名を聞いても、体が浮きあがる感覚がない。
「それってやっぱり、心が浮かないから?」
「そうみたいだな」
浮くどころか、リリアの名を聞くと胸が痛くてたまらなくなる。
「心が浮かれると体も浮くけど、凹んだからって地面に沈んだりはしないんだね。よかったね」
友人は妙に嬉しそうだが、そんなことを知ったところで俺は嬉しくもなんともない。
「まぁ、地面に降りてこれたんだし、よかったじゃない」
浮かなければ降りてくる必要もないのだ。
それにあれは降りたんじゃない、落ちたんだ。
急に打ちあがった上空から豆粒のようなリリアを見て、ああ俺の初恋は終わったと思った瞬間に、内臓を全部引っ張られるような感覚を覚えてまっさかさま。運よく大木にひっかかったからよかったものの、他の場所なら死んでいたかもしれない。
「でもさぁ、リリアちゃんのこと、好きなんでしょう?」
当たり前だ。
だからこんなに落ち込んでいるのだ。
「そしてリリアちゃんも、そうなんだよね」
「……は?」
「リリアちゃんに聞いて来たんだ。上空に飛び出して行っちゃった君をどう思うか。そしたら、それでも好きだって。むしろ、手を握ってくれていたら一緒に空中散歩ができたのにって」
その言葉を聞き終わる頃には、俺は天井に穴の開いたゴミのような兵舎を見下ろしていた。
「心配しなくても、恋愛で心が浮つくのなんて本当に短い間だけだ。それを通り過ぎたら、もっとしっとりとした安堵感が心を落ち着けてくれるんだ。気持ちは形を変えて、でも心の中にずっと残り続けるんだよ。だから今は、楽しむと良い。空中散歩もできるし、慣れてくれば好きに上下できるようになる」
俺は娘にそう言った。
俺の体質をすっかり受け継いでしまった娘が初めての恋に悩んでいたから。
「大丈夫だ。父さんと母さんを見てみろ。こうして今も手をつないでいるけど、空中に飛び出したりはしないだろう?」
そう言ったら娘は瞳を輝かせた。
リリアと結婚してから15年が経った今でも時折ふたりで空中散歩を楽しんでいることは、娘には内緒だ。
アレトスくんが大木の下を待ち合わせ場所にしたのは覗き見のためでなく、落ちても木に引っ掛かるようにという配慮だったりして…
お楽しみいただけましたら幸いです。