前世の恋人
──誰だっけ……?
発車まであと10分。乗り込んだ急行電車で、隣に立つ女性に何か引っかかるものを覚えた。しかし、いつどこで会ったのか思い出せない。
徐々に増え始める乗客に押されて彼女との距離が縮まる。
会ったことあるような気ぃするんだけど。
ぼんやり記憶をたどっていると、尻のポケットで携帯がぶるっと震えた。先ほど途中駅まで送ってきたばかりの恋人からのメールに、自然と表情がゆるむ。
『いま家についたよ。遠回りさせちゃってごめんね』
『こっちは発車待ち。なんか見たことある人が同じ電車に乗ってんだけど、こないだ会ったお前の友だちとか?』
先日デート中に偶然遭遇した彼女の友だち。4、5人いた中の誰か──そんなあたりではないかと勘をつけたのだ。
『そっちの沿線にはいないはずだけどなあ…よく行くコンビニの店員さんとかそんなんじゃない?』
『あーそんなんかも。それにしとくわ。じゃ電車混んできたからケータイしまうな。おやすみ』
『了解ーおやすみなさい。
P.S.』
……彼女からの返信に苦笑してしまう。
P.S.前世の恋人なんての、どう?
何も急に突拍子もないことを言い出したわけではなくて。たまたま今日見た映画が──古い映画のリバイバル作が──前世の恋人と再び恋に落ちる、みたいなやつだったのだ。
生まれ変わりとかってないよね、というのが2人の一致した意見だったので、今日はすっかり「悪い、来世で返すからちょっと金貸して」「ねえそれ前世の仕返し?」などと──まあ映画自体は面白かったんだけど──「前世」で遊んでしまった。
前世の恋人、ねえ……。
苦笑いしながら携帯をしまおうとして、吊革から手を離した一瞬──。
ガタッ
タイミング悪く電車が発車して、大きく揺れた。
咄嗟に目の前の吊革をつかむ。そして、
そして。
心臓がはねる。
カッと頭に血が上る。いや
手、だ。血が一気に集中したのは。
ゆっくりと自分の左手に視線をやり──その手を凝視する。隣に立っていた女性の手が、自分よりわずかに早くその吊革をつかんだらしく、彼女の手の上から握りしめる形になっていた。
そして気づいてしまった。触れた彼女の手によって。
この人を、知っている。いや、知って、いた。
信じてなかったのに。
前世とか、そんなの。
なあ、予想、当たっちゃったよ……?
==========
吊革を離し、手すりに持ち替える。彼女の唇が「すみません」の形に動くのが見えた。視線を窓のほうに外しながら、濁流のように押し寄せる記憶に負けまいと──手すりを握る手に力を入れた。
この人に会うのは、初めてだ。
けれど、この人を知っている。
いや、知っているのはこの人じゃなくて。生まれるずっと前、違う顔と名前で生きていた頃の──だから信じてなかったってのに!
彼女は、前世で、心から愛した人だった。
ガラス窓に映る彼女のうつむく顔を見ながら、胸がどんどん湿っていく。水をたっぷりと吸い込んだスポンジのように、何か少しでも振動があれば滴り落ちてしまいそうだった。
号泣したのはいつだっけ。しゃくりあげて。そう、あれは──動かなくなった彼女の手を握りしめながら。
2人が出会ったのは高校生のときだった。入学して同じクラスになり、少しずつひかれていって、つきあってほしいと告げたのは2年生の秋。お互い一年間も片思いをしていたと知って、その時間がもったいなかった、と笑い合ったのは、大学に入り遠距離恋愛が始まってから。でも就職してまた一緒にいられるようになって。そろそろ2人で暮らそうか。そんな話が持ち上がるのも自然な年齢になって。引っ越しを目前に、別々の家へ帰る最後のデートで、映画を見たんだ。
恋人たちが、何度生まれ変わっても前世の恋人とまた恋に落ちる。そんな映画の余韻と、もうすぐ一緒に暮らせる自分たち。彼女が甘やかな気持ちになるのも当然で、だからふだんなら口にしないようなあんなことを言い出したのだ。
もし生まれ変わったら──と。
「もし生まれ変わったら、ちゃんと私を見つけてくれる?」
「いやあ、犬とかクワガタとかになられてたら自信ねえなあ」
すぐそういうこと言う!と怒る彼女がかわいくて。
「ほんと甘さが足りない男だよ」
「無理です。自分、無糖ですから」
絶対同じ種に生まれてやるからね!と珍しく粘ったのは、何か予感していた? ほんとは来世なんてものがあるのならそれに嫉妬できるくらい、彼女に惚れていた。だから次なんか考える必要ないだろ、今全力で愛されてんだから。とか──いや、やっぱ無理だ。そんな恥ずかしい台詞。
でも、まあ今度の誕生日あたりにそんなようなことを言ってやるかな。なんて考えていた。
まさかその日が最後になるなんて思っていなかったから。
==========
動かなくなった彼女の手を握りしめながら、号泣していた。
生まれ変わりとか来世だとか。なんでも信じるから! どんな姿をしていても必ず見つけるから。だからまだ行くな。必ずきみだと気づいてみせるから。次もその次の世も、何度でも。何度でも。何度でも。だから今はまだ──。
──ああ、たしか。そんなことを叫んでいた。一気に甦った記憶にぼんやりとする頭で、隣に立つ彼女を見つめる。きみなんだね。会いにきてくれたんだね。
どう告げようか。いや彼女はまだ気づいてないかもしれない。驚かせてはいけない。待とう。もし彼女が顔を上げたら。こちらを向いたら。目と目が合ったら。そしたら──
そしたら?
どうするって?
……我に返った。それでいったい自分はどうするというのだ。前世で叶わなかったぶん、隣の彼女と一緒になる? まさか!
そもそも今、この胸のスポンジを浸しているのは誰の涙だ? 自分? それとも違う顔と名前で生きていた頃の自分?──それはもう自分じゃない。
あのとき誓ったのは、生まれ変わりを果たした彼女を必ず見つけるということ。その約束が守られた、その奇跡だけでも十分じゃないか。第一、
第一。
前世の恋人に会っただなんて、ヤキモチやきの彼女──今の自分が心から愛する人、が怒る。怒るだけならいい。1人で泣くんだよあいつ。
大切な人を悲しませることはもうできない。それでいいよな? 前世のオレ。
空いた席に彼女が座る。それをちらりと見てから電車を降りる。たぶん、これでいい。
ホームをゆっくりと歩きながら、駅を去る電車を見たとき、少しだけ──
ほんの少しだけ。
痛んだのは、間違いなく自分の胸だった。
==========
……思い出せない。
土曜日のくせに意外と混んでいた急行電車。大きく揺れてあわてて吊革をつかんだら、隣の男性と手が重なってしまった。
吊革を譲ってくれた男性に口の動きだけで「すみません」と告げる。ちらりと見えたその顔に見覚えがあるような気がして──窓ガラスに映る姿を見ようとしたら、目が合いそうになってあわてて逸らした。
どこかで会ったような気がするんだけど。
もともと他人の顔を覚えるのは得意じゃない。少し考えてもやっぱり思い出せなくて、考えるのをやめた。
かわりに今日見た映画の余韻に浸る。古い映画のリバイバルで、結ばれない恋人たちが次の世でもまた出会い、また恋に落ちながらもやはり結ばれることを許されず、生まれ変わったらまた会おうと約束を交わして次の世を待つ。そんな話だった。
生まれ変わったら、かあ。
……ん?
……ウマレカワッタラ?
なんだろう。何かが引っかかる。
何気なく顔を上げ、窓ガラスに映る車内を見て。
どきり
と、した。
先ほど手が触れてしまった男性が左のほうをじっと見ていて──それはつまり。
私のことを見ていた。
とても優しい、愛しいものを見つめる目で。
目を合わせてしまったら何かが溢れてきそうで、窓ごしに見ることしかできなかったけれど、その横顔から目が逸らせなくなる。
──生まれ変わったら?
温かな手。
生まれ変わったら?
私を包んだ大きな手。
生まれ変わったら?
まなざし。
生まれ変わったら──?
ああ。
どうして忘れていたんだろう。忘れることなんてできたのだろう。あんなにも大切だった人を。
心から愛していた、この人を。
==========
あのとき私の頭に浮かんでいたのは、「余計なこと言っちゃった」という反省だった。
あれは確か、そう、車だ。車にぶつかって、痛いとか怖いとかをもう超えてしまって、ああ、余計なことを言って彼を困らせてしまったなあ……と、そんなことを思っていたんだ。
「もし生まれ変わったら、ちゃんと私を見つけてくれる?」
生まれ変わったら、だなんて。タイミングよすぎ。いや悪すぎ。彼「気にしい」なタチだから、答えをはぐらかしたことできっと自分を責める。いいのに、そんなの。
人一倍照れ屋な彼がそんな甘い台詞を言えるわけないこと、知ってたもの。
冗談を言うのも照れ隠しだって知ってたもの。
けど、言葉がなくてもちゃんと伝わっていたよ。態度で表情でまなざしで温もりで。あなたの愛情をちゃんと感じていたよ。
それでもたまに言葉が欲しくなっちゃうのが女子ってもんで──その日に限って粘ってしまった。だってつきあい始めてちょうど10年の記念日だったし。あなたは忘れていただろうけど。
だからほら、案の定彼が泣いている。自分を責めて。いいの。言葉なんていらないの。
そんな意味をこめて彼の手を握り返したけれど、伝わっていたかしら。もう力が入らなくて。だけどあなたも知ってたでしょう? 言葉なんかなくたってちゃんと私は幸せだったって。だから泣かないで。苦しまないで。
そして私は彼の嗚咽を聞きながら、前の生を終えたんだ。
空いた席に座ると、先ほどの男性が戸口に移ったことに気づく。
降りちゃうのか。
そうか。
ほんとに生まれ変わってくれたんだね。同じ時代に同じ人間として。そして同じ電車に乗って。こんな奇跡起こすなんて、よっぽど思い詰めたんじゃない?
これで十分。ありがとう。
電車を降りていく彼に心の中でそう言って──
言おうとして。
違う──
息が止まる。
待って──
扉のほうを見る。
言わなきゃいけないことがあるの──
席を立つ。
伝えたいことがあるの──
気づいたら、彼を追って電車から飛び降りていた。
==========
たくさんの偶然を重ねてもう一度あなたに会えた。
私がその記憶を思い出したのは、伝えたいことがあったから。
あのとき言えなかった言葉を、彼女のかわりに伝えるため──そう。それはもう自分ではなくて。だからこそ使命感というか──あの人に言わなくちゃ、と、ホームを駆けたんだ。
速度を上げる電車の走行音に消えて、私の声は彼に届かない。
待って。待って。待って。
──と、駅を出て行く電車を見送るように、彼が立ち止まった。
「あの!」
彼がこちらを振り向く。少し驚いたような、待っていてくれたような。
声の届く距離まで進み、息を整えて──初めて彼の目を見た。
──ああ…。
胸にたくさんの想いが流れ込んでくる。この気持ちが私のものなのか、彼女のものなのか。それはわからない。そもそも境界線なんてあるの?
激しい流れに負けないように自分の手をぎゅっと握りしめて。私は彼に伝えた。
あの日彼女が言えなかったことを。
「さよなら!」
さよなら。もう苦しまないで。
一瞬大きく目を見開いて、少しだけ切ない目をして、それから2人分の優しい笑顔で、彼がさよなら、と返してくれた。
「……さよなら」
小さくもう一度言った。これは私の分。
さよなら、とまた返してくれる。
そして私たち──そう「私たち」は、手を振って別れたんだ。
帰っていく彼。次の電車を待つ私。
よかった。
会えてよかったね。
ね、前世の私?
私も、これから出会う恋を大切にしよう。今はまだそんな兆しないけれど──あの人カッコよかったな。でも彼女いるっぽかったな、残念。なんてね。
そんなことを考えながら。
さよなら、
もう一度そっとつぶやいたら──
少しだけ泣けた。
それはたぶん。
うん、これは私の涙。
さようなら、あなた。