kiss.08 キミの名前
ハンマーで頭を殴られたような衝撃の余韻に未だ解放されることなく、脳内真っ白で何にも考えられなくなったあたし。
情けないやら腰を抜かして身動きの取れなくなった音楽室、悔し涙で滲んだ視界に突然開かれた扉。その向こうに姿を現したのは。
「り……時任! 大丈夫? 泣くほど痛む?」
眉を寄せて心配そうに気遣う橘くんだった。
「どうして橘くん……? 紗枝、保健のセンセ呼びに行くって言ってたのに」
「途中で時任の友達に会ってさ。“音楽室で腰抜かしてる”っていうから、見にきたんだよ」
「そっか……あたしこんなの初めてでさ、情けないよね、あはは」
笑ってごまかす声もカラカラに乾いて不自然な筈なのに、
「そんなことない。大丈夫だよ」
橘くんは大きなその手をあたしの頭に乗せると安心させるように言って、軽々と抱き上げた。
「わわっ、い、いいってば橘くん! あたし結構重いんだってば!」
「動けないんでしょ? それにオレ、自分抱えられるくらいの腕力はあるつもりだし」
どこまでも紳士的な彼の言葉に素直に甘えることにしたあたしは、お姫様抱っこを経験するのも初めてなら、抱きあげられた高い位置からの景色もまた初めて。
「たっか……」
普段からこんな高い位置から見下ろしてたら、あたしなんてよっぽどチビに思えるんだろうな。
「こんなに高くてクラクラしない?」
「り……時任は小柄だから、必要以上にそう感じるだけだよ」
階段を降りながら、くすくす笑う。
154cmしかないあたしは、確かに小柄。180を超える橘くんと並ぶと、いや、こうしてるのだって大人と子どもみたいに見えるのかもしれない。
「もう、痛まない?」
「え?」
「泣いてないから」
「……うん。もう平気」
橘くんの大きな手が頭に乗った瞬間に、もの凄くほっとして。
なんだか少し懐かしいような気にもなって。
いつの間にか涙が引いていた。
「橘くんさ、髪、縛らないの?」
肩につくかつかないかくらいに伸びた、緩いクセのある黒髪。彫の深い顔立ちをしている橘くんには、そんな長髪が良く似合っている。部活のときには一本に纏めるその髪も、今は解かれた状態で。
「ん? あぁ、あれは運動する時だけ」
「あんまりいないよね、これくらいの長さの髪が似合う男の子って」
「それって誉められてる?」
照れ臭そうに笑う顔が、子供みたいだ。
「うん、誉めてる」
「オレはり……時任の短い髪の方が、良く似合ってると思うけどな」
――また。
橘くんは出会ったときから、何故か下の名前で呼ぼうとする。その度に言い直されることに疑問を持ったまま、理由を訊けずにいた。
「ね、何であたしの下の名前知ってたの?」
「えっ? ……あー、実はオレ、キミのファンなんだよね」
「は……?」
「中学の時、全国大会で時任の試合観たんだよ。小さい体で勇ましく立ち向かう姿に感動してさ。すっげー強かったし」
中三で出場した剣道の全国大会。決勝で負けて日本一を逃した試合は、あたしの中で忘れられない記憶の一部。
あれを、観ていてくれた人が、ここにいるんだ。なんだか…不思議な感じ。
「で、その時に名前を覚えたんだけど」
「だけどフツー、初対面で下の名前で呼んだりする? 毎回言い直すくらい定着してるみたいだし」
おかしいよね? 疑うように彼を見ると、困ったような表情を作る。
「りお、って可愛い名前じゃん? だから……かな」
それもなんだか怪しい感じだけど、この際まあいっか。
「言い直される方が気になるから、梨緒でもいいよ?」
「え? ホント!?」
ぱっと彼の顔が明るくなる。
「そんな……喜ぶようなこと?」
「うん、嬉しいよ。ありがと、りお」
思わずあたしは首を捻る。橘くんがいうと「りお」の「お」が「を」に近い発音になるから。
「りお、じゃないよ。梨・緒」
「梨・緒、これでいい?」
丁寧に発音しながらあたしに確認する。
指でOKサインを作ると、橘くんは再び子供みたいな笑顔になる。
「梨緒」
子供が“おかあさん”って初めて言えるようになった時みたいに。何度も何度も口に出して確認してた。
――その時だった。
カツ、カツ、カツ。
耳に慣れたこの靴音。心臓にまで刺激を与えるこの足音は。
「熱烈なのは結構だが、耳障りだ。橘」
階段の踊り場から保健室まで最後の下りにかかる途中、逆から上がって来た諏訪と鉢合わせた。
「保健室へ彼女を運ぼうと思っていたところです」
「別に説明しろなんて言ってない」
その声が、どことなく怖い。
橘くんの首にしがみついていた腕に、思わず力が入った。
「授業に遅れるな」
それだけを言って、諏訪は階段を昇っていく。
一瞬背中に視線を感じた気がして上を見たけど、そこにはもう諏訪の姿はなかった。
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