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kiss.06 嘘

 悔しくて眠れなかった昨夜。いつまでも唇に残る感触が、今朝になっても離れない。

 一度ならず二度までも許してしまった唇に触れるのが、クセみたいになっていた。
 触れて、思い返せば落ち込んで、の繰り返し。

「朝からずっと凹んでるようだけど、どうしたの」

 4時限目は体育の授業。普段は基本2クラス合同で男女別に行われているけれど、今日は女子の先生がお休みってことでサッカーをしている男子を観戦中。
 キャアキャアと賑やかな群れに、一人どんよりと背負った空気の重いあたしに。朝から放置しててくれた紗枝さえも、いよいよ気になりだして聞いてきた。

「嘘のようなホントの出来事を、あたしはウソだと思いたいんだけどね……」
「あのね梨緒りお……何言ってんのか、さっぱり分かんないんだけど」
「だよね……いいの、ほっといて。今日はあたし一日こんなんだから」

 言えないよ。
 センセに―――キス、されたなんて。
 よりによって諏訪だよ? いや、よりによらなくても、教師にキスされるのってどうかと思うけどさ。

『お前竹刀持ってないと、隙だらけだな』

 細めた瞳。耳に響く甘い声。近づいてくる、諏訪の顔。
 柔らかな、唇の感触。

「ああああ~~~っ、もーーーっ!!」

 記憶から消したくて思わず叫んで、現実に引き戻された。

「ちょっと、梨緒ってば!」

 紗枝にシャツを引っ張られて、女子達の視線の的に上がっていることに気づく。

「あ……ごめん。紗枝、あたしちょっと水飲んでくる」

 グラウンドから一番近い校舎側の水飲み場へと向かう。
 するとそこに待っていたのは。
 くっくっくっ、と肩を震わせながら笑う諏訪だった。

「今のは牛か? オンナどころか人間の欠片も感じなかったぞ。お前の声は防犯ブザー並みだな、時任」
「う……うっさいなぁ。センセがこんなとこでサボってていいんですかっ」
「休憩時間に何しようが勝手だろ」
「あーそー」

 何も今タイミング良く現れなくたっていいじゃん。
 諏訪が寄り掛かった場所から一番遠い壁際を選んで水を飲む。

「忘れ物」
「……わっ」

 音もなく忍び寄られ、蛇口から顔を上げる前に囁く諏訪の声が耳元に。カエルばりに飛び退いて壁に張り付いた。
 目の前に差し出された手に乗っていたのは、あたしが携帯につけていたアクセサリーだった。車に落としてきたらしい。

「あ、ありがとーございました」

 指でつまみ上げようとした瞬間、諏訪の手に捕らえられた。

「ちょっとっ」
「目が赤いな、寝不足か? 徹夜で追試の勉強をしていたとも思えないけどな」

 顔を近づけてきて、覗きこまれる。
 眼鏡越しの瞳が、昨日のそれとダブって見えてあたしは目を逸らした。

「気のせいですっ」
「それとも……何かに興奮して眠れなったとか?」

 無理矢理してきたキスのことを、含みを持たせるようにわざと言う。
 口の両端を上げて笑う諏訪が、からかって楽しんでいるのが分かった。

(こ…こいつわぁぁ!)

「違いますっ!」

 きっぱり断言すると、あっさりと掴まれていたあたしの手は解放された。

「だよな、お前がそんなに繊細とも思えない」

 同時に。つまみ上げたはずの携帯アクセサリーが消えている。

「あれ……?」
「やはりこれは、もうしばらく預かっとく」

 さっさと背中を向けて歩きだした諏訪が、指で挟んでひらひらと。
 翳して見せるそれは、紛れもないあたしの――忘れ物。

 ***

「ねー梨緒? あの背の高い男の子が隣の転入生なのよね。すでに取り巻きが出来てるのね」

 目の前では“橘くーん!!”と熱気のこもった声援が飛んでいた。

「でも、あれで結構天然なとこあるよ」
「あら、そ?」

 自分の名前確認してきたり、突然水浴びしてみたり。

(そういえば何であたしの名前知ってたんだろ……)

 ゴタゴタ続きですっかり忘れてた、そんなこと。
 授業終了のチャイムが鳴り始めると、あたしと紗枝はグラウンドへ向けて一斉に走り出す女子達とは反対に歩き出す。

「り……時任!」

 勢い良く叫ぶ時までいちいち訂正しないで欲しいんですケド。
 ……そんなに下の名前が浸透してるのって、やっぱり疑問。
 振り向けば、橘くんが駆け寄る女子達をかわしながらこっちへ走って来るところだった。
 スルーされた女子達の殺気は物凄い。視線に刺し殺されそうになって思わずあたしは紗枝を盾にした。

「……? どうしたの?」

 きょとんとした顔で聞いてくる橘くんに、背後の状況を“う・し・ろ”と口パクで伝える。
 ちょっとだけ後方を振り返っただけで、ああ気にしないで、なんて笑顔を向けてくるけどさ。

 ムリだってー! 気になりますから!!

 だから気にならないように、彼女たちには背を向けて。出来るだけ早足で先を急いだ。

「昨日、平気だった?」

 突き放しているはずなのに未だ背中へ伝わる鋭い視線を出来るだけ無視しながら、平静を装っていたあたしはその一言に思い切り動揺してしまった。

「えっ!? き、昨日って……」
「オレ先に帰されたからさ、どうしたかなって心配だったんだよ」

 ああ、そういう意味……って……

「先に帰された!? 帰ったんじゃなくて?」
「違うよ。諏訪先生に“時任は心配ないから”って言われたけど、彼女を家まで送るんで、って言ったらすっげー睨まれた」
「に……睨まれた?」

 こっくりと、橘くんは頷いた。
 つまり、昨日『とっくに帰った』という橘くんは、センセが追い出したとそういうことか。
 薄情モノだなんて思ったりして、ゴメン橘くん。

「でもなんで睨み効かせてまで、帰さなきゃいけないの?」
「さあ?」

 彼もまた首を傾げる。

「ねえ。じゃあなに? 梨緒は諏訪にでも送ってもらったワケ?」

 隣で話を聞いていた紗枝が意味深に呟いた。
 ……どきっ。

「へえ。ふうぅーん。そう」

 絶対、絶対何か気付いてる紗枝ってば。すっごい勘が鋭いんだよなぁ。

「時任の友達はなにか知ってるの?」
「いや知らない……」

 はずなんだけど……と言おうとしたあたしを遮って、

「諏訪先生のことだから? きっと駅まで送り届けて、家に連絡いれるように言ったんじゃないかと思って」

 それっぽいことが、スラスラ口をついてくる紗枝を感心しながら眺めていると、あたしにウィンクする。

(―――え?)

「違った?」

 口裏を合わせなさい、と。
 そう訴えていたんだ。

「あ、うん、そうなんだ。だから全然大丈夫だったよ!」

 橘くんへ笑顔を向ける。

 ―――――あたしがついた小さなウソ。

 笑った顔は、ひきつっていなかっただろうか……。
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