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kiss.58 カノジョの香り

 館林先生の研修期間は残り1週間。
 黙っていてもあの人はいなくなるというのに、気になるのには理由があった。
 大会前に諏訪から手渡された【御守】を取り上げられてから、見えないところで色々とあの人はあたしに牽制をしてくるようになったから。

「ブサイクに磨きがかかってるな」

 ぷっと小さく噴き出した諏訪が視線だけを向けて、余程のブサイク顔をしていたらしいあたしを確認すると手元の資料に意識を向けた。

(……だってさ。あんなの目の前で見せつけられたら、その気がなくても平気じゃいられないと思うけど?)

 つい先程までこの部屋にいた人物が残していったフローラルの甘い香り。夢でもなければ見間違いでもなかったのだと、鼻につく匂いが知らしめる。
 それが嫌で、あたしは鼻を摘まんで匂いを遮断した。

 ――それは授業の最後のお決まりだった。

『時任、荷物運んでおけよ』

 授業で使用した資料の大量コピーの残骸を例の場所へ運んでおけと、鬼教師はそう言った。何かとそうやってモノを運ばせては、ついでにその部屋の片づけをあたしに命じるのは日常的。

『はぁい』

 自分はさっさと研修生の館林先生と教室から姿を消していくクセに。
 面白くないのは仕事を命じられたことだけじゃなくて、教壇の上の資料を取りに向かう途中で目が合った、館林先生の意味深な眼差しだとか。出ていく二人の距離がいつになく近いような気がしたりだとか。
 気に障ることが他にもあったから。

 教室を出てからも向かう先が同じ方向である為に、結果二人の後ろをついていくような形になったあたしは。時々触れる肩だとか、嬉しそうな顔をして諏訪を見上げるその人の横顔だとかを嫌でも目にする羽目になって。
 職員室へ向かう二人と別れてから、一人になった廊下を睨みつけながら歩いていた。

『なんか、ムカつく』

 諏訪があの人を相手にしていないと分かっていても、過去の二人は恋人だった時期があったわけで。
 おまけに彼女は今でも諏訪に未練があるようだから、態度にはそういった意図も含まれていたりして。
 無駄に予備知識を持っているせいで、ちょっとしたことでも勘ぐってしまう自分がホント嫌だった。

『ったくさぁ! なんであたしがこんなこと考えなきゃいけないの!』

 入ってすぐのラック群を抜けて置かれた諏訪の机の上、半ば八つ当たり気味に叩き付けた資料の山が雪崩を起こして広がった。几帳面に整えられた机の上で、それだけが乱れていた。

 ――まるであたしのココロみたい。
 
 オトナの二人は平然としているのに、コドモのあたし一人だけが荒れている。

『まさか色仕掛けで迫られたわけじゃないんでしょう? あの程度の子に落されたなんて思っていないけど』

 ぴくっと、頬が引き攣った。入口の方から聞こえてくる館林先生の声。

『ねぇ、伊織先輩』
『呼び方に気をつけろと、始めに言ってあるよな』
『二人でいる時くらい、いいでしょう?』
『例外は認めない。戻れ』

 甘えるような猫撫で声に突き放すような冷めた声。資料準備室前の廊下から教室へ入って来る気配。もう一つの耳慣れた足音と低い声は、諏訪のモノだとすぐに分かる。
 丁度あたしの場所からは、ラックの隙間から二人の様子が見て取れた。
 諏訪の首に絡めた細い腕には高級ブランドの時計が光る。館林先生が体を密着させて少しずつ顔を近づけていく。動かない諏訪の唇に触れそうになる、別の唇。

 ――ヤダ。

 咄嗟に湧き上がった不快感。気付いたら目を逸らして唇を噛みしめていた。

『職員室へ戻れ、と言ってる。午後まで授業はない。それまで教えることもない』

 低く響いた諏訪の声に怒りが籠っていたのが救いで、「分かりました」とあの人が渋々部屋から出て扉が閉じられた音で、完全に安心した。
 ほうっと、大きく一つ息を吐き出す。

『覗きの趣味もあったのか』

 ラックの陰から姿を見せた諏訪が口元に笑みを浮かべながらソファに座って、今に至る―――。


(最後まで見なかったけど。センセってばキスされたのかな)

 机の上に散乱した資料をかき集めながら、垂直に配置したソファに座り資料に目を通している諏訪の顔に証拠が残っていないかと視線を送る。
 横顔だけでは判断し兼ねた。

(あの距離じゃしててもおかしくないよね)

 半ば諦めにも似た気持で手元に紙を積み重ねていって。

「戻らなくなるぞ、そのカオ」

 “ブサイク”と言われた顔に戻っていたあたしを見て、また笑う。
 資料をテーブルに投げ出して近づいてくる諏訪からは、密着していたあの人の香水の匂い。

「うっさいなぁ」

 匂いに呼び覚まされた苛立ちが態度に出てしまう。諏訪はそんなあたしに余裕の笑みで返しただけだった。

「なんですか」

 机の正面から回り込んで背後に回った諏訪の顔が、あたしの顔のすぐ横にある。

「キスしたの? って訊きたそうな顔してる、お前」
「ちょ、近いから!」

 背後から衝立た腕に挟まれて、耳の後ろから囁かれると背筋がぴくんと反応する。耳まで真っ赤になったあたしなどお構いなしで、

「目を逸らすから気になるんだろ。バカなヤツ」
「っ!」

 ちゅぅっと。耳のすぐ下の首筋に吸いつく。
 ぞくぞくと背中を走る感覚に肩を竦めて、ちょっとだけ体の位置をずらした。

「センセ香水くさい」

 においが移っていることをさり気なく指摘して、離れるようにアピールしたつもりだったのに。

「なら、気にならないようにしてやる」
「え?」

 諏訪の手が強引に顎を捉えて後ろを向かせると、深く入り込んでくるキスがやって来た。
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