kiss.03 濡れ髪にドキドキ
「……え? ……あれ?……」
橘くんはぽかんと口を開けて、不思議そうに目をまん丸く見開いた。
間抜け面をしていても、男前だ。体格のがっちりした長身に、一本に纏めた黒い髪。彫の深い整った顔立ちに長い睫毛が縁取るのは綺麗な黒い瞳。
ここぞとばかりに至近距離からまじまじと観察してしまった。
「ひょっとして、そうなんだ? そっかぁ……だよね……ん~~」
小気味よく一人で疑問・納得が終了したらしい彼が、襟をあたしに取られ前屈みの体勢ままで自分の首筋に手を遣った。
「うーんと……」
しばらく唸って視線が宙を仰いでから、
「オレって、“橘くん”?」
なんて首を傾げて自分を指さして訊いてくる。
「は? あなたは……橘くんでしょ? さっき自己紹介してたじゃん。センセが呼んでた“橘”ってキミのことじゃないの?」
「いや……オレのコト……あははは」
あははは、じゃない! 頭おかしくなったんじゃないかと、真剣に心配しそうになったじゃん。
不可解な彼の言動に気味が悪くなって、掴んでいた襟から手が離れた。
(このヒト、大丈夫???)
諏訪の説教が相当効いて。橘くんは思考回路がショートしてしまったんだと思う。
……だから、こんな5月のまだ肌寒い時期にも関わらず。突然、再び蛇口を捻って水道水を頭から被ったりするような、突拍子もない行動に出たのだと。
「ちょっと! カゼひくってば!」
「大丈夫。オレ平熱高いからさ、熱とか出ても割と平気だし」
「いや……そういう問題じゃないよ??」
溜息と共に呆れるあたしの視線の先で、ジャバジャバと派手な音を立てながら地面を打ち付ける水は橘くんの足元にあっという間に水溜りを作った。
「つめてー」
……今さらなにを。
橘くんは栓を閉じて、髪を結っていたゴムを外して口に加える。
肩につくくらいまで伸びた彼の髪はびっしょりで、触れた部分の道着が色濃くなっていた。両手で絞った先からはボタボタと水滴が垂れて、見ているこっちの背筋が寒くなる。
「一枚じゃ間に合わないでしょ」
持っていたタオルを差し出すと、いいよ、なんてカッコつけて突き返してくるから、彼の道着の襟元を再び掴んで引き寄せた。
あたしよりも随分と背の高い、ずぶ濡れになった頭に無理矢理タオルをかぶせ、ゴシゴシ拭いてやる。
「もうちょっと優しくお願い」
「うっさい! 拭いてもらってるだけありがたいと思って」
「そだね」
少しは拭えただろうかと思った頃。不意に橘くんがあたしを見る。
黙ったままでじっと見つめてくるから、急に恥ずかしさを覚えたあたしは咄嗟にタオルから手を離した。
「こ……これ、あげるから! あとは自分でちゃんと拭いてねっ!」
さっきはあたしもまじまじ眺めてたけど……ガン見されてこっちがドキドキしちゃったじゃん。
「いい匂いするね、このタオル」
かぶったままのタオルの端を鼻に近付けて、視線だけをこちらに向けるその目が。
濡れ髪なのも手伝って、色っぽいこと艶っぽいこと。
瞳を細めて首を傾げる様子は自分を魅せる術を知っての技なのか、それとも単なるド天然なのか。
とにもかくにも、初めて同級生の男の子に色気、なんてものを感じてしまった。
あたしの心臓は素直だ。
ドキドキが、さっきからずっと止まらない。
「楽しそうだな? 俺も混ぜてもらおうか」
威圧感のあるその声に。今度はドキリ、と心臓が恐怖の反応を示した。
あたしの目の前、橘くんでさえもタオルを乗せたままはっとした顔になって、二人で同時に恐る恐る声のする方を見た。
道場の開け放たれた扉の枠に背を凭れて、腕組みをしたまま視線だけをこちらへ向ける諏訪がいる。
「……なんか、先生の背後にドロドロとした黒いオーラが見えるんだけど……気のせいかな」
「やっぱり? あたしもー」
ひそひそと、隣を歩く橘くんと言葉を交わしながら諏訪の目の前を横切って中へ足を踏み入れた時。
「お前ら居残って道場の掃除!」
びしっと鋭い声が放たれた。
道場内が一瞬静まり返って注目を浴びたあたしと橘くんは、その場にいた全ての人間にすいません、と頭を下げた。
(このオニ~~~っ!!!!)
そう、心の中で叫びながら。
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