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kiss.09 キスで鎮めてお仕置きを

 ―――梨緒……梨緒……
 
 何度もあたしの名前を呼ぶ声が、遠くの方で聞こえる。
 さっきの橘くんの声が、まだ残ってるのかな。でも、なんだか声の感じが違う。
 もっと低くて、切なげな声。それは優しく響いて心地よかった。
 目を開ければ、視界に広がる白い天井。薬品の臭いがする。ここは、橘くんが連れて来てくれた保健室だ。

 頬に触れる冷たい手。

 さっきまでそんな感じがあった気がするのにカーテンで仕切られたベッドの周りには、誰もいない。パイプ椅子が一つ置かれているだけだった。

「さすがに寝過ぎ……」

 いつの間に眠ったのか、枕もとの携帯に表示された時刻は5時を過ぎていた。
 昨夜の寝不足を十分に解消したおかげで、頭がスッキリ冴えている。
 ゆっくり体を起してみると、まだ腰のあたりに違和感を感じた。

(これじゃ、部活に参加出来そうにないなー)

 部活どころか、帰宅するのも困難のような気がする。

「どうしよ……」

 共働きの我が家。家族はまだ誰も帰っていない時刻。タクシーを呼ぶにもお金が足らない。
 うーんと、腕組みをして考える。

「仮病か」
「うわっ」

 いきなり目の前のカーテンが勢いよく開かれて、声とともに諏訪が顔を出してきた。
 あたしがこんな羽目になった諸悪の根源、今イチバン見たくない顔。
 いなくなって欲しいという願いも届かず、諏訪はベッドの横に置いてあるパイプ椅子に落ち着いてしまった。

「お前が倒れたと聞いたぞ、俺は」

 不機嫌そうな声で言って腕を組む。

「倒れたっていうか腰が抜けただけで……」
「年寄りか!」

 ひいいいいっ。
 なんで怒鳴られなくちゃいけないんだよー。

「行ってみれば橘に抱えられて、へらへらと元気そうだったしな」
「へ……へらへらなんて、してないですから」

 ――とそこまで言って、あれ? と思う。

「センセ……ひょっとして、心配してくれてたりしました?」

 図々しいかなとも思いつつ訊いてみると、眉間に眉を寄せて睨まれる。
 うううっ。

「心配? 授業の邪魔になるだろうから、回収しに行こうとしただけだ」
「か、回収って、人のこと粗大ゴミみたいに!」

 身を乗り出して叫ぶと、痺れるような痛みが走った。

「~~~~っ!! ったぁ……」
「つくづく学習能力のない奴だな」

 痛みに悶絶してシーツに顔を埋めたあたしに、労わるどころか容赦ない言葉が降ってくる。

「うっさい!」

 誰のせいよ、あたしがこんな思いしてるのは!

「送ってやるから少し待て」

 伏せたままのあたしの髪を、諏訪の手がくしゃくしゃと撫でた。
 手が触れた瞬間、紗枝の話が蘇って咄嗟に振り払う。

「触んないで!!」

 そんな汚い手で触らないで。あたしはセンセの“遊び相手”じゃない。
 自分の体を諏訪から守るように抱きしめて、拒絶した。頭近くに浮いていた手が、離れていくのを気配で感じる。

「威勢が良くても身動き取れないんじゃ、格好もつかないな」
「大きなお世話っ」

 口の減らない諏訪を相手にしなければいいものを、いちいち反論してしまうあたしもバカだ。

 ふわり。
 突然背中を布が覆った。
 包まれる香りが男物の香水で、それが諏訪のスーツの上着なのだと気がついて。

「こんなの、いらないから!」

 反射的に体を起こし、顔を上げる。
 痛みに顔を歪めながらも背中にのったそれを剥ぎ取って、目の前の諏訪に突き返そうとした。
 その手をあっさりと捕まえられ、強い力で抑え込まれて動けなくなって。
 寄って来るいつも以上に冷ややかな諏訪の顔に、あたしは思わず息を詰めた。

「大人しく捕獲されてろ」

 低い声で静かに。
 言い聞かせるように言って、シーツの上に落ちた上着をもう一度肩に掛けてくる。
 迫力に飲み込まれそうになるのを振り払うように、あたしは諏訪を睨み返した。

「タクシー代貸して下さい、あたし、それで帰りますから。センセの車はいろんな意味でキケンだし。…前科あるから、送ってもらうのはイヤです」

 きっぱり言うと、クールなアッシュグレーの瞳がレンズの向こうで細められる。

「却下」

 短く言って、諏訪はベッドの横に置いてあったあたしの荷物一式を、指にかけて持ち上げた。

「お前に選択権はない。教師を捕まえて危険人物呼ばわりするような失礼な生徒は、お仕置きだ」

 実際そうだから在りのままを言ったまでで、お仕置きされる理由も言われもないんですけど!?
 余りに呆れて言葉が出てこない目の前で、諏訪が背中を向けて立ち去ろうとしていた。

「それ、あたしの荷物!」

 叫ぶあたしに振りかえった諏訪が、小さく舌を出した。
 
 ***

「は……放してぇぇぇっ!!」

 荷物を人質に取られた迫力に気圧され、保健室待機を余儀なくされた諏訪の戻り大人しく待たねばならない屈辱的な時間といったら。
 逃げようにも、体が言うことを利いてくれなくて、心と体が反比例している状況が歯痒くて仕方ない。
 だから、道場の施錠を終えてやって来た諏訪に横抱きにされた瞬間。
 帰宅する唯一の方法だから致し方ないと分かっていても、あたしは叫ばずにはいられなかった。

「耳元で叫ぶな、お前の声は凶器だ。マジで鼓膜が破れる」
「だってっ!!!」

 触って欲しくないのに。
 体温だとか匂いだとかを嫌でも感じるこの体勢から、早く解放されたいのに。
 ジタバタと無駄な抵抗を止めようとしないあたしに、諏訪が小さくため息をついた。

「お仕置きだと言ったろうが」
 あたしを抱き上げたまま、近くなったその位置から。
 
 ちゅっ……と、音を立ててキスをしてくる。
 すぐに離れてまた。
 僅かに瞳を伏せて、あたしを見ながら何度も何度も。強弱をつけて啄ばむように、吸いつくように。
 繰り返される諏訪の【お仕置き】
 
 あたしの両手は諏訪の頬を張り飛ばすことも簡単に出来るのに、それをしないのは彼にキスをされると何故か力が入らなくなるから――正確には“出来ず”にいた。

 静まり返った保健室内に響くその音に聴覚からも刺激されて、抵抗できないばかりか目を閉じることすらできない状態。
 まだ、キスを止めない諏訪と視線が交わる。
 ぼんやり眺めるのが、傍から見たら見つめ合っている状態だったのだと気づいたのは、その唇がようやく離れていった後だった。

「お前を鎮めるには、これが一番効果的だな」

 くすっと笑うその声は、最近聴いた甘いそれと同じだった。
 キスをされたのはこれで3度目。
 昨日、あたしのファーストキスを奪った目の前のキス魔な教師に、二日続けて捕まった。

「何すんの……センセのバカ」

 長い間キスをされていたせいで、言った言葉にも力が入らない。
 あんなに触れて欲しくないと拒絶していた心が、あっさり折れてしまう。
 
 まんまと鎮められて運ばれる、人気のない廊下に響いた諏訪の足音。
 ゆったりとした歩幅をあたしは体で感じている。

“落されたくなければ首に掴まれ”

 保健室から出る時に言われて、素直に従ったのはキスをされた直後で放心状態だったからと言い聞かせながら、俯いたままで唇を噛むあたしに。

「車の中でそんな顔してみろ、お望み通り襲うからな」
「イミ分かんないし! 望んでないし!!」

 ただの脅しじゃ済まないだろうセリフを投げかけられて、疑問に思う。

(そんな顔って、今あたしどんな顔してるって……)

 それから間もなく。
 昇降口付近の壁にかかった鏡に映る“そんな顔”をした自分と対面した。
 
 真っ赤な顔、泣きそうに潤んだ目。
 映った顔はあたしの知らない別人だった。
 
 鏡越しにニヤリと笑った諏訪と眼が合う。

「あれ……梨緒? 諏訪先生……」

 息の上がった橘くんが、荷物を抱えて駆け込んできた。呼吸を整えながらあたしと諏訪をじっと見る。

「大丈夫? オレ送って行こうと思ったんだけど……熱でも出た? 顔が赤いね」

 顔色を指摘されて、鏡に映った自分の顔を思い出す。
 恥ずかしくなってまともに橘くんを見返すことができなかった。

「ううん平気――」
「平気じゃないから、こうして俺が重労働を強いられてるんだ」

 誰も頼んでいないのに勝手にヒトのこと運んで“重労働”だなんて。カチンときたけどぐっと堪えた。

「……先生が、送ってくんですか?」
「電車で送るより、確実且つ安全でスマートだろ?」

 見下されたような言い方に、橘くんが少し拗ねたような顔になる。
 あらかじめ脱いでおいたらしい靴を片方ずつ器用に履いた諏訪は、

「ここはコドモが出る幕じゃない」

 だなんて、あたしにだって最上級の嫌味と分かるような捨て台詞を吐いた。
 それきり一度も彼を振り返らなかった。
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