7月の爽やかな暑さの中、放課後のグラウンドには野球部やらサッカー部やらの活気に満ちた声が響いている。
ここ、私立明光学園は県内有数の文武両道校であり、特に運動部は数多くのインターハイ選手を輩出している。もちろん陸上部も例外ではない。
「あっちー」
グラウンドの隅にある水道の蛇口をひねって、たった今陸上部の練習を終えたばかりの植草陽太は熱で火照った頭に勢いよく冷たい水をかけた。
「あ〜気持ち〜!」
練習の後の水浴びはいつのまにか陽太のお楽しみの一つになっていた。
「またやってる」
声を掛けられて陽太は顔をあげた。そこには毎度お馴染みのマネージャー亜希子がタオルを持って立っていた。
「はい、早くふきなさいよ。」
「サンキュ」
「こんな離れた所の水道なんて使わずに部用の給水使えばいいのに」
亜希子は呆れたように陽太を見ながら言った。シートにはちゃんと給水が揃っているし他の部員は皆それを利用している。
「俺はここがいいの」
「ふーん。ま、あたしはどっちでもいいけどね」
亜希子は
「コーチが呼んでるわよ」と言い残してスタスタと戻っていった。
亜希子とは小学校からの腐れ縁。家も近いことからよく遊んでいた。陽太が中学に上がってから陸上部に入ると亜希子も負けじと陸上部に入ったが、才能に恵まれた陽太と違い運動の苦手だった亜希子は高校では選手を支えるマネージャーを選んだ。本人も自分にはマネージャーの方が合っていると自覚しているようだ。
「100mのタイムが10”49!凄いじゃないか陽太!この調子なら優勝を充分に狙える。」
男子短距離のコーチ長谷川は陽太の先程の練習の記録を見て意気揚々と言った。
「去年は惜しくも6位入賞に終わったが、この一年でお前は急激に成長したからな。
このまま記録が伸び続ければ必ず優勝できるタイムだぞ!」
「はい!コーチ、俺頑張ります!!」
陽太はコーチにガッツポーズをしてみせた。
もともと陽太は全国でも通用するそれなりの好タイムを持っていたが、この一年で記録を伸ばし続けて今では二年生ながらにして男子短距離のエースにまで上り詰めた。
「だが気を抜くなよ。上には上がいるもんだ。京帝の中原や仙崎学園の志賀は必ず優勝争いに絡んでくる。」
陽太は長谷川の口にした名を聞いてゴクリと唾を飲んだ。
立英館高校の中原裕太。そして、栄徳学園の志賀幹久。特に志賀は去年のインターハイ100m・200mの2冠を成している。さらに100mに関しては三連覇がかかっていた。
「2人とも先日の大会で共に近畿と九州の大会新記録をだしているし、それはお前の関東大会の記録を上回っている。」
「コーチ大丈夫です!インハイまでもう少し時間があるんだし、きっともっと努力すれば優勝だって夢じゃない。人生先のことなんて何があるか分かんないっしょ。」
陽太は重圧を己の力に変えることの出来る奴だった。勝てなければ勝てるように努力すればいい。常にそういう前向きな姿勢であったし、何よりも長谷川は陽太の他にはない天性の才能を感じていた。
―風に愛された少年
根拠はないが陽太の走りはいつも軽く速くスムーズなまるで風だった。
「お前ならやれるさ。風に愛されてる。」
長谷川は軽く陽太の肩を叩いて励ました。
7月下旬。インターハイまであと残り二週間になったある日、陽太の元に予期せぬ訃報が届いた。それは陽太の祖母が死去したという知らせだった。
其れからというもの、陽太の記録は全く伸びなくなった。
「……陽太、大丈夫…?」
亜希子は俯いたままの陽太を気遣いながら慎重に言葉を選ぶ。だが、何て声を掛けたらいいのかが分からずに自分に苛立つ。
陽太とは幼なじみで小学校の頃はよく家にも出入りしていたから、もちろん陽太の祖母のことはよく知っていたし、祖母が陽太をとても可愛がっていたのも知っていた。高校は全寮制でもう二年、陽太は一度も実家に帰ってない。
「あぁ……」
「………」
訃報が届いて今日で3日。先生やコーチは陽太に実家に帰るように促したが、本人はそれを拒否した。どうしても帰れない理由があると陽太は言っていた。
亜希子にはそれがかなり気がかりになっていた。
「ねぇ陽太。家に帰れない理由って…?」
亜希子は思い切って陽太に尋ねてみた。
陽太は暫く黙っていたが、ひとつ大きく息を吐いてその理由を話してくれた。
「俺さ、婆ちゃんと約束したんだ。必ずインハイで優勝して金メダル持って帰るって。」
「うん。」
「それまでは絶対家には帰らないって決めてた。婆ちゃんも金メダル取るまで帰ってくんなって言ってた。」
「…うん。」
「それまでは絶対元気で待ってるって言ってたのにな……婆ちゃん。こんなに早くに逝くなんて思ってもみなかった。」
「………」
陽太は頭を軽くかきながら悲しそうに笑った。亜希子はその顔を見ていると、胸が締め付けられる思いで思わず叫んでいた。
「だったら絶対優勝しよう!金メダル取って早くお婆ちゃんを安心させてあげなきゃ。あたし頑張るから、一生懸命サポートするから、陽太元気だしてよ!!」
思ってもみなかった亜希子からの喝を受けて、陽太にも元気が湧いてきた。
「亜希子に言われなくてもそのつもりだ」
陽太は亜希子の頭をこついて笑った。陽太の顔に先程の悲しげな色はもうどこにもみあたらなかった。
インターハイまでの残りの時間陽太は今まで以上に気合いを入れて練習に打ち込んだ。陽太の気迫に後押しされるように他の選手達も本番に向けて最終調整に入った。
陽太の自己ベストタイムは日に日に縮まっていき、試合前最後のレペテーションでは9”52というインターハイの100m大会記録を超える記録をたたきだした。
もはや陽太は誰にも負ける気がしなかった。
走れば走るほど吸い込まれるように、風と一体化していくのが分かった。こんなにも走ることが気持ち良いなんて、力をだしてもだしてもまだ体力が有り余っているなんて初めての感覚だった。周りの誰もが陽太の優勝を確信していた。今の陽太が負けるはずがないと。他のライバル達を大きく引き離して優勝するに違いないと。
8月の茹だるような暑さの中、その出来事はあまりにも突然のことだった。
陽太が死んだ。
インターハイを明日に控えて、突然の交通事故に遭った。陽太は約束を果たすことも出来ずに短すぎる生涯に終わりを告げた。
彼に勝利の女神が微笑むことは無かった………。
亜希子は陽太のお墓に花と線香をお供えして手を合わせた。周囲は夏特有のセミの声と線香の香りが漂っている。暫くそのままで目を閉じていた。
「陽太がいなくなってからもう6年経つのね。なんだかまだ信じらんないな。」
忘れもしないあの日。
陽太は居眠り運転の大型トラックに跳ねられ病院に搬送されたのだけれど、数時間後にそのまま息を引き取った。あたしはただ静かに眠る陽太の横で泣きじゃくることしかできなかった。どうして陽太なの?陽太は何も悪くないのにどうして…。あの頃はずっとそればかりが頭の中をぐるぐると掛け巡っていた。
先生やコーチは大会欠場を考えていたらしいけど、陽太の両親の希望でインターハイには出場した。きっと陽太もそれを望んでいるだろうからって。だけどあたしの心にはポカンと大きな穴が空いたようだった。
「ずるいよ…陽太。あたしを置いてかないでよ…」
スタンドから、もうじき始まるであろう100mのスタートラインを眺めながらいるはずのない陽太の姿を捜した。だんだんと視界が涙で滲んでぼやけるのもおかまいなしにひたすら捜した。本当だったら陽太はあそこにいる筈だったのに、そう思えば思うほど悔しくて涙があふれた。
試合が終わり、誰もいなくなったスタンドからあたしはぼんやりと赤と緑のトラックフィールドを眺めていた。
目線の先はいまだに100mのスタート位置。昼過ぎまでの騒々しさとはうって変わって今はなんだか淋しい風景。夕日がトラックを暁色に染めて余計に淋しさがこみ上げてくる。
ふと、風が吹いた。
気がつくと周りには大勢の観衆。トラックには陽太がいた。陽太は軽やかに風のように100mを走り抜けるとくるりとあたしの方を振り向いて得意そうに笑顔でVサインをした。
「陽太……」
はっと我に返ると辺りは元の静かな淋しい競技場に戻っていた。
「そっか…、陽太は風になったんだね。」
あたしは目をつむった。風を体でより感じるために。競技場には心地よい風が吹いていた。
あたしは高校を卒業するとカメラマンの道に進んだ。競技場でシャッターを押す度に、今でも陽太のことを思い出す。私は写真の選手に陽太を重ねているのかもしれない。陽太はもういないけど、あたしの心の中で生き続けているから。
「よし。あたしも前向きに生きなきゃね!」
あたしはカバンから一枚の写真を取り出して線香の横にそっと置いた。
「さてと、それじゃあね陽太。」
いつまでも過去を引きずっていてはいけない。ちゃんと前を向いて歩いていかないと。
亜希子が去った後には線香の香りと一枚の競技場の写真が残っていた。
そよ風は青々とした木の葉を揺らしながら吹いていた。
END
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