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世界で一番愚かな英雄の話





 これは、世界で一番愚かな英雄のお話。



  ****



『人間が見てみたいわ』

 それは、彼女の単なる暇つぶしでしかなかった。
 彼女はとにかく暇だった。毎日毎日暇で暇で飽き飽きしていたのだ。彼女がするべきことと言えば、隔離された塔で食事を摂って、眠ることくらいのものだ。時々持ってきてもらえる、読めもしない人間の絵本とか、窓から見える空とか、そうしたものを眺めるくらいしか、娯楽はなかった。

 だから彼女は人間に興味を持ってみたのだ。彼女の所有者とも言える存在が毛嫌いし、その矮小さを蔑み、それでいてしぶとく生き続ける『人間』に。
 ちょっとした好奇心だ。ついでに言えば、あの慇懃無礼な所有者の不愉快そうな顔の一つでも拝めれば、面白いだろう、その程度の悪戯心。

 そうして彼女の我儘はさしたる問題なく叶えられた。

 けれど、彼女の期待とは裏腹に、人間の見た目にはそれほど面白味はなかった。
 四肢は彼女とよく似ている。手足がそれぞれ二本ずつと、てっぺんには一つの頭。顔の表面には形は違えど、同じものがくっついており、眉、目、鼻、口がそれぞれ似通った位置に並んでいた。
 しなやかな体躯の彼女に対し、人間はまだ子どもであるらしく、横幅も立幅も小さい。よくよく見れば人間には彼女のような牙も角も尖った爪もなく、随分柔そうだ。そのくせ、彼女を見つめる視線は冷たく、鋭い。青空を閉じ込めた氷のような色をしていた。

 綺麗だな、と彼女は思った。彼女は青い色も、キラキラしたものも好きだった。

「私、これ欲しいな」

 それが、彼女の次の我儘だった。



  ****



 彼女は背の高い塔のてっぺんに、隔離されて生活していた。そこを訪れるのは彼女を『保護』しているのだと言い張る所有者と、給仕係だけだった。どちらも用だけ済ませれば塔に長居することはない。誰とも関わることのない彼女が、彼という人間を手に入れると、その生活に多少の変化をもたらした。

 彼は愛玩物として彼女に与えられたが、じっとしていられない性分なのかなんなのか、彼女の使用人のように忙しなく働いた。部屋の片づけをし、給仕係が運んでくる彼女の食事を塔の一階部分で受け取り、彼女のもとまで運ぶのも彼の仕事になった。

 と言っても、彼女の居住空間はそう広くもない。彼の仕事はいつも早々に終わり、そうなると彼は部屋の隅で小さくなって座り込んでいた。彼はとにかく無口で、静かで、大人しかった。彼女はそんな彼を一瞥こそするものの、それ以上の興味はなく、いつものように絵本や窓の外を眺めていた。

 彼女は根っから気ままな性質で、彼の行動を気に掛けることもなければ制限することもない。しかし、一つだけ厳しく言い含めていることがあった。

「絶対に私に指一本触れないでちょうだいね」

 彼は怪訝そうな目をしたが、従順に頷いた。彼女は誰であれ、自身に触れられることを極端に嫌った。何もかも他人任せで、与えられるものだけで生きていながら、身支度だけは必ず自分自身で整えていた。普段の彼女の態度を思えば、髪を梳かすのさえ人任せにするのが似合いそうなのに。彼女がそれを彼に許すことはなかった。

 彼女の暮らす塔こそ古ぼけたものだったが、彼女が身につけるものは贅の限りを尽くされていた。肌触りのいい黒のドレスに、レースで出来た黒のヴェールをかぶっていた。慣れているとはいえ、一人で身に付けるのは困難だと察せられる。座れば地面に流れるほど長い黒髪も、櫛を通すだけで苦労するだろう。

 それでも彼女は、その一切を彼に手伝わせることをしなかった。適当で気ままな性格の彼女だが、そのことに関しては妙に神経質だったのだ。



  ****



 彼女の我儘で彼は彼女のものとなったが、彼女以外の誰も、より正確に言えば彼女の所有者はまるでいい顔をしなかった。不愉快、というよりも理解ができない、という様子だ。
 彼女の言いつけにより、彼の分の食事も用意されていたが、彼女のそれに比べると随分粗末で量も少ない。彼は文句一つ口にしなければ、表情を変えることもなかった。

 彼女がそんな彼を気にかけたのは、やっぱりただの気まぐれだった。彼女は彼の粗末で少量の食事を一瞥し、自身の皿から果物を選り分けた。果物を選んだのは、手で簡単に掴めるため、万一触れ合う心配もないだろうと思ったからだ。

「食べる?」

 聞けば、無口な彼はやっぱり返事をすることはなかった。ただ、彼女の顔をぼんやりと見上げ、それから果物に視線を落とす。彼は、小さく頷き、無言で果物に手を伸ばした。



  ****



 彼女はよく鼻歌を歌った。それは彼女が気分によって歌うもので、なんの規則性もなければ、歌としての体裁も保てていない、ただの音だった。それでも彼女はそんな細かいことなど分かりようがないから、ただ気分によって、楽しそうに鼻歌を紡いだ。

 その日も彼女は手元の絵本を見ながら鼻歌を歌っていた。淡く明るい色ばかり使われたその絵本は、彼女のお気に入りだった。特に花畑を描いた一枚は、こんなところが本当にあるのだろうか、と思えば心が躍った。

「――――幸せになりましたとさ、」

 すると、突然声が聞こえ、彼女は驚いて顔を上げる。そこには、彼女以上に驚いた様子で目を瞠る彼がいた。この場には、二人しか声を発する者はいない。彼の声を聞いたことがなかったけれど、先程の声は彼以外にあり得ない。高くて、けれど彼女よりも落ち着いた声だった。それなのに、彼はまるで自分以外のどこかから声が聞こえたかのように、目に見えて狼狽えている。

「おまえ、もしかして文字が読めるの?」

 彼はぎこちなく首を横に振った。それから、視線を彷徨わせて、唇を震わせる。

「読めない、けど、それは知ってる。たぶん、人間ならみんな知ってる」

 彼は居心地悪そうにしていたが、対照的に彼女は途端にわくわくと心が湧きたつのを感じた。彼女は彼以外の人間を見たことがない。それどころか、ろくに外出したこともなかった。自然と彼の言葉に好奇心が疼いた。

「どういうお話なの?」

 彼はまたもや視線を彷徨わせ、一旦口を噤む。口が利けないのかと思わせていた彼は、喋るのが下手なのかもしれない。もったいぶるような彼の口調が、彼女には少しもどかしかった。

「…………魔物にさらわれたお姫様を、王子様が助ける話」

 それを聞いて、彼女は彼が口ごもった理由を悟った。なるほど確かに、彼女に向かって堂々と口にする物語ではないだろう。けれど彼女は自身の身の置き場にもさしたるこだわりや誇りを持っている訳ではなかったので、彼女は彼の躊躇の意図を解さず、ただ物語への好奇心のみで彼への要求を口にした。

「おまえ、話は全部分かる? 分かるなら聞かせてちょうだい」

 彼は、相変わらず鋭い目で一度彼女をじっと見つめ、それからたぶん、と小さく呟いた。彼女から本を受け取り、彼は一番表の絵をめくると、訥々と語り始めた。彼の感情のこもらない淡々とした声が、穏やかに塔の中で響く。

「……むかしむかし、あるところに、心優しいお姫様がいました――――」



  ****



 それから、ずっと暇を持て余していた彼女に、一つの楽しみができた。彼の聞かせてくれる物語に、耳を傾けることだ。抑揚のない彼の声に耳を傾け、絵を眺めたり、空を見上げたり、微睡んだりすることが彼女の新しい楽しみになった。
 ずっと目での楽しみしか持たなかったので、耳が満たされることは彼女にとってとても新鮮だった。

「楽しいのか」

 彼は一度怪訝そうに尋ねたことがある。彼女にとっては大層楽しい遊びだったのだが、彼にとってはそうでもなかったのかもしれない。

「楽しい! おまえは楽しくない?」
「……別に」

 けれど、だからと言って問い掛ければ、そんな煮え切らない返答ばかり。嫌と言うことはなく、態度に好悪を混ぜることもなく、彼は大人しく彼女の要求に応えるのが常だった。
 彼女は彼をそばまで呼び寄せるが、それでもやはり、けして彼に触れることはない。その寝台に広がる長く艶やかな髪の一本すら、彼に触れさせようとはしなかった。

「私はね、えらいのよ」

 あるとき、彼女はそんなことを呟いた。彼は意図を察しかねたようで、彼女をじっと見つめる。相変わらず言葉少なで視線だけで訴えるようなところはあったが、彼は以前とは違い、必要最低限の言葉は口にするようになっていた。

「だからね、おまえなんかが触れてはいけないのよ」

 人間で言えば、彼女は少女と女性の間のような容姿をしていた。肌は抜けるように白く滑らかで、切れ長の目の長い睫毛が頬に影を落とす。ツンと高い鼻も彼女の魅力を引き立てる一要素と成り得ていた。赤く瑞々しい唇は蠱惑的で、人間であったならば傾国の美姫と称されても違和感はなかっただろう。
 どちらかと言えば、大人びた印象の顔立ちだ。けれど、彼女の振る舞いも言葉も、幼子のように無邪気で明け透けだった。そんな彼女が、珍しくその容姿に見合う妖艶さで口にした。

「おまえが触れていい存在ではないのよ」

 まるで、高慢な女王陛下のような言葉に、彼は頷くでもなく彼女をじっと見つめていた。彼はこれまで彼女の言いつけを破ったことはない。彼にとって、彼女はある意味で女王陛下と言っても遜色ない存在だった。彼がその塔に住んでいるのは、彼女の気まぐれという一存が理由なのだから。



  ****



 その日、彼女は悪い夢を見た。悪い、というよりは嫌な、というべきか。彼女にとって思い出したくない過去を夢に見ていた。
 この塔に移る前、彼女の身の回りの世話をする者がいた。その世話係はいつも彼女に怯えていた。顔を青ざめ、身体を緊張させ、時にぶるぶると震えながら彼女に傅いた。
 彼女はその態度を、さして気にすることはなかった。あの、彼女の所有者以外の存在は、給仕係も含めて皆そんな態度だったからだ。彼女にとっては至極普通のことだった。

 何にも知らない彼女は、世話係と親しく接していたつもりだった。何かと話しかけ、自身の好きな絵本や、気に入りの雲の形を教えようとした。彼女はかつての場所でも閉じこもりきりで、他者と接することもほとんどない。そのため、世話係たちが、自身に対して怯えていることもよく分からなかった。
 だから、まさか、そんな簡単に。

「おい」

 声に反応して、一気に彼女の意識は浮上した。
 星明りだけが頼りのいつもの塔の部屋、そこで彼女は寝台に横たわって休息を取っていた。その視界に飛び込むのは、彼の顔。彼女よりも余程小さくて細くて、脆そうな体躯。
 彼女の言いつけ通り、彼は彼女の髪の一筋にすら触れていなかった。ただ、相変わらず表情一つ浮かばない顔で、けれどどこか気難しそうに彼女を覗き込んでいた。

 息を呑んだ。
 叫んだのは、その一瞬あとだった。

「離れなさいっ!」

 ただ、それだけ。それだけで彼の身体は浮き上がるようにして、背中側の壁に叩きつけられた。彼女は腕一本動かしておらず、ただ叫んだだけである。
 彼女はその様を、まるで自分とは全く関係のない超常的な力が彼を傷つけたのだと言わんばかりの目で見つめた。それから現状を理解して叫ぶ。彼は彼女に触れていなかったけれど、今にも触れそうな距離にいたことで、彼女を感情的にさせた。

「触るなって言ったじゃない!」

 だから、だから彼女は何度も言ったのだ。何度も何度も『忠告』したのだ。彼のために、繰り返した。指が触れただけで弾け飛んだ、世話係のようにさせるつもりはなかった。

「何をやってるの! おまえのせいよ! おまえが悪いのっ。何度も何度も言ったのに!」

 感情が昂り、彼女は大粒の涙を次から次へと流し続けた。ぼろぼろ、ぼろぼろと、美しい顔をぐしゃぐしゃにして。年端も行かぬ幼子のように泣き続けた。
 彼女は、生まれつき膨大な魔力を有していた。けれど、膨大であるが故に制御することができなかった。世話係のことがあってからこの塔に隔離され、この塔に出入りする者は最小限に抑えられている。

 彼女が『誤って』殺してしまわないように。

 彼女に望んで近づく者なんていない。誰だって命は惜しいのだ。彼女だって誰も近づけさせない。どんな拍子に力加減を間違えるか分からないからだ。
 人間なんてもっての外だ。あんな魔力も少なくて脆い存在、撫でるつもりで触れても、きっとぺしゃんこにしてしまうだろう。

「誰も私に触れてはいけないのっ! おまえが触れていい訳がない!」

 声に魔力を込めないようにして、それでも泣き叫ぶような声は止まらなかった。夜目の利く彼女には、部屋の隅で、うずくまったまま身じろぎする彼の姿が見える。そのあまりにも脆弱な姿が、余計に彼女の神経を逆なでた。

「弱いくせに! 魔力なんて全然ないくせに! 私に触れていいものなんていないのっ、わた、私は、えらいんだから、だから…………」

 彼女の叫び声は次第に勢いをなくし、最後はただ嗚咽だけを漏らして泣きじゃくるようになった。糾弾の言葉を飲み込んで、今にも吐き出しそうな勢いで泣く彼女は、

「…………さみしい」

 空の彼方に消えていく、星屑のような声だった。尻すぼみで、頼りなく、心細そうな声だった。

「さみしい、さみしい、さみしい。さみしいよぉ……っ」

 彼が語り聞かせてくれる絵本の中で、お姫様が王子様に会えないことを寂しい、と嘆く場面があった。彼女にはそれがよく、分からなかった。だって彼女には、会いたい人などいないのだから。けれど、なんとなく、吐き気さえしそうなこの胸の空虚さが、彼女にその言葉を吐き出させた。
 足りないのだ、きっと。彼女には足りないものがあって、埋まらないその不自由さをきっと『寂しい』と呼ぶのだと思った。

 そうして彼女はその足りないものを埋めようがないことに気付き、絶望した。何度も何度も声を上げて泣き、寂しいと繰り返した。だって、他者は誰も彼も、彼女が触れるだけで弾け飛ぶような、脆い脆い存在なのだから。

「いるよ」

 彼女の泣き声を遮るように、夜闇の中で声が響いた。高いけれど落ち着いた声はよく響く。咳き込みながら体を起こした彼は、もう一度同じ言葉を繰り返した。

「いるよ。おれがいる。ずっとここにいる。どこにもいかない。触れないから、ずっとここに置いて」

 しっかりと自分の足で立ち上がった彼は、先程自身を吹き飛ばした彼女に向かって、躊躇いなく足を進めた。泣き濡れた顔を上げた彼女は怯えるように彼を見つめるが、けしてまた感情的に怒鳴り散らすことはしなかった。

「おれ、いるよ」

 寝台の隣に膝をついて、彼は上体を起こす彼女を見つめる。

「いたら、いや?」

 昼間の空を、氷で包んだような目が彼女を見つめた。星明りで影を落とす目は、けれどやっぱりキラキラしていて彼女の目を惹きつけた。冷たくて、鋭くて、まっすぐで迷いのない目に見えた。

「…………いなきゃやだぁ……」

 彼女はまた、声を上げて泣いた。うわあんうわあん、と一晩中泣いた。彼を引き留めるように、引き留めることが叶ったことを喜ぶように、ずっと泣き続けた。
 彼は約束通りけして彼女に触れることはなく、それでもずっとそばに居続けた。

 朝が来て、塔にも光が差し込んで、お互いの顔がよく見えるようになった頃、彼女はようやく声を上げて笑った。いつも難しい無表情ばかりだった彼が、初めて困ったように眉を下げていたからだ。



  ****



 それから二人はそれまで以上に同じ時間を過ごした。彼は彼女に触れない範囲でもっと近くに座るようになったし、部屋の片隅でうずくまって眠っていたのが、彼女の寝台のすぐそばで眠るようになった。
 彼は相変わらず口数が少なく、彼女が話しかけるか絵本の語り聞かせをねだらなければ滅多に口を開かなかったが、それでもずっと彼女のそばにいてくれた。

 楽しい、と言えばそうか、と相槌を打ち、腹が立つ、と怒ればそうか、と首を傾げ、寂しい、と嘆けばここにいる、と言う。彼はあの夜に言った通り、いつだって彼女のそばにいた。

 こんな風にそばにいてくれる存在を得たのは初めてだったから、彼女はそれだけでたまらなく嬉しくなってしまう。自然と彼は、窓から見上げる青空やお気に入りの絵本よりも大事な存在になっていた。

 少しだけ大きくなった、けれど未だ彼女よりは小さな身体で、彼は変わらずそこにあり続ける。

「おれがいる。だから、ずっとここにおいて」

 願ってもない彼の要望に、彼女はいつだって嬉しそうに微笑むのだ。



  ****



「人間ってどんな生き物なの?」

 彼と過ごす時間が増えれば増えるほど、彼女には人間全体への興味も湧くようになった。
 彼のような子どもが多いのか、それとも彼とは違った大きな身体のものがいるのか。何を考え、何を望み、何をして一日を過ごすのだろう。

 そんな彼女のある種無邪気な問いに、彼は珍しく表情を変えた。眉間に皺を寄せ、唇を噛むその顔は、隠すこともなく不快だと告げていた。

「あんな奴ら、死ねばいい」

 彼らしくもない感情的な言葉に、彼女は目を丸くする。

「どうして?」
「救いようのないやつらだよ。他人を貶めて、踏みにじることしか考えてない。奴らは他人の尊厳を踏みにじるのが大好きなんだ」

 死ねばいいのに、と奥歯から絞り出すような声で彼はもう一度呟いた。攻撃的な声だった。その言葉だけで呪うような、その言葉だけで首を絞めるような。
 彼女には、彼の語る人間を上手く想像できなかった。彼女の知る人間は、そう語る彼自身のみで、彼はけして彼女を踏みにじろうとも傷つけようともしない。ただ、そばにいてくれるだけだ。当たり前みたいな顔で、そばにいてくれるだけだ。

「みんなそうなの? そうじゃない人間はいないの?」

 彼女がまっすぐに見つめて問い掛ければ、氷が溶けるように彼の瞳が揺れた。強い感情で顔を歪めていた彼は、途端に眉尻を下げ、彼女の視線から逃れるように目を逸らす。

「…………分からない。けど、おれはそういう奴しか知らない」

 その顔が何だかとても心細そうで、彼女は胸の中をひっくり返されるような気持ちになった。不安で、気持ち悪くて、息苦しい。無意識の内に彼に手を伸ばしそうになって、彼女は慌てて反対の手でその手を抑えた。

「でも、おまえは優しいよ。私はとても、すごく、たくさん……ええと、いっぱい、好きよ」

 だからせめてと思って口にしたのはそんな言葉。彼女は言葉を呑み込むことを知らなかったから、ただ正直に想いを告げた。
 すると彼はますます眉尻を下げ、そうしてとうとう俯いた。どうしたの、と彼女が問い掛けても、彼は何でもない、としか答えなかった。



  ****



 彼女はその頃、寝たふりをよくするようになっていた。本当は微睡んでいるだけで起きているけれど、眠ったふりをして目をつむり、寝具に顔を押し付ける。
 そうしたとき、彼が掛けてくれるシーツの慎重さが好きだった。彼女が目を覚ましてしまわないように、ゆっくり丁寧にシーツを掛ける。するとなんだか胸がくすぐったくて、足りないものの場所が温められるような心地がした。

 彼女はその時間が、また一等好きだった。彼のことはもっと好きだ。その時間をくれるのも、足りない部分を温めてくれるのも、いつも彼だった。
 彼女は彼とずっといたかった。彼といる時間を守りたかった。けれど、何にも知らない彼女でも、それが困難であることはよく知っていた。

 彼は、人間だから、彼女とは生きる時間が違う。
 人間は脆くて、弱くて、短命だと彼女の所有者が言っていた。

 どうしたら一緒にいられるだろう。彼はだんだん、身体が大きくなってきた。それを、成長と言うらしい。成長が終われば老いがきて、何もせずともいずれは死に至る。
 彼女はそんなの、嫌だった。絶対に絶対に、許容することはできなかった。

「いかないで」

 そう言っては、彼女は泣いた。彼がいなくなることが、何よりも恐ろしくて寂しかった。泣きながら、けれど彼に手を伸ばして縋ることもできない彼女は、ただ膝を抱えて泣く。彼もまた、彼女に触れることは叶わず、ただそばに座り、泣く彼女を眺めていた。

「いかないよ。おれはどこにもいかない。ここに置いてくれないと嫌だ」

 彼はそう言ってくれるけれど、脆弱な人間である彼の意思など簡単に吹き飛ばされてしまうことは自明だった。
 彼女は考えた。ただ、彼といるために必死で必死で考えた。

 そして、あることに思い至ったのだ。
 魔力は、血を巡っているらしい。

 人間は魔力が足りない。だから、扱える魔法も少なく、肉体も脆く、短命だ。では、魔力があればどうだろう。沢山の魔力を手に入れたなら、それは命さえ引き延ばすのではないだろうか。
 そう閃いた彼女は無知だった。魔力に関して、人の身体に関して、世界の常識に関して。だからこそ、あまりにも軽率にその手段を取った。

 彼に空の皿を持ってこさせた彼女は、それを受け取って自身の尖った爪で反対の手の前腕部に傷を付けた。彼が慌てる間もなく、深く傷つけた一筋の線から血が浮かび上がり、見る間に滴り始める。

「何をっ」

 彼が焦ったような声を出すけれど、彼女はそれに返事をしなかった。傷口を上に向け、手首を逸らし、滴る血は小指の先から皿の上に落ちた。血の出る勢いが弱く、まどろっこしくなって傷口を抉れば、結局気を付けていたのにシーツの上に数滴の血が落ちた。

「飲みなさい」

 彼女が皿を渡せば、彼は驚きに目を瞠った。何を言っているのかと言いたげに彼女を見つめるものの、口に出すことはなく、しばらく思案していた彼はやがて息を呑んでその皿を受け取った。
 聖杯を受け取った、敬虔なる神の信徒のように厳かに口を付ける。

 魔力を分け与えるような考えだった。彼の身体の中を自身の血が巡れば、彼の魔力も高まるのではないかと思ったのだ。そうすればきっと、もっとずっと、そばにいられると思って。

 けれど、そんな何の根拠もない浅はかな願いが叶うはずはなかった。
 彼女の――――後に魔族の『旗印』とされる彼女の魔力は、人間にとって毒にしかならなかったのだ。



  ****



 彼は体内に入り込んだ異物にのたうち回って苦しんだ。脂汗を掻き、時折唸りと叫び声を上げながら、彼女の前で苦しみ続けた。
 彼女は何もできなかった。彼に触れることもできず、何がいけなかったのかも理解していない彼女に、できることなどなかった。

 ただ、自分の血こそが彼を殺そうとしていることだけはよく分かった。
 そうして彼女はようやく理解する。彼女の所有者が何度も繰り返し、忌々し気に口にした言葉の意味を。

『人間は脆弱で、けして相容れない存在』

 そばにいてほしい、と願ったことが間違いだった。

 所有者は頼れない。おもちゃとして彼女に与えることはあっても、人間を救うことなどするはずがない。仮に所有者がそれを認めたところで、彼女らの領域に人間のための医療の知識や道具など存在しない。

 だから、彼女は給仕係を呼びつけた。給仕係は彼女に怯えている。目を合わせるだけで震えあがるほどだ。彼女は給仕係を脅しつけた。彼を人間の住処まで連れていくようにと。失敗の代償は給仕係の命だと告げた。

 彼に触れず、この世界の地理も分からない彼女には何も分からない。本当はずっと付いていたかったけれど、給仕係に託すしかなかった。付いていけば、彼女の不在に気付いた所有者は彼女が塔を出る要因となった彼を許さないだろう、と分かっていた。

「ごめんね、ごめんね。苦しめてごめんね」

 彼女は最後にただ、謝り続けた。彼女の存在は彼をおびやかすことしかできない。目の前でもがく彼は、今にも死んでしまいそうなくらい苦しげだった。
 そんな苦しみを与えた彼女を、どうして許してくれるだろう。怯えるだろうか、それとも憎まれるのか。嫌悪の目を向けられることが恐ろしくて、彼女はもう会えないと思った。

「元気でね。頑張ってね。ごめんね。ありがとう」

 彼は人間を救いようがないと言った。けれど、彼女は彼に救われた。寂しいと泣く彼女のそばに、彼はずっと付いていてくれた。他にも彼のように優しい人間がいると、信じるしかなかった。
 永遠の別れのつもりの言葉は、苦しむ彼に正しく届いたのだろうか。彼女の言葉を受けた彼は、必死に息を吸って呼吸を整えようとする。しかし、呼吸はやはり落ち着くことはなく、呼吸の合間に絞り出すような声で彼女に何かを告げようとしていた。

 触れないように気を付けて、彼女は彼に耳を寄せる。

「……っさ、な…………ゆ、る……ない」

 それでも、好きよ。彼女は彼を見送って、生まれて初めて声を殺して泣いた。



  ****



 戻ってきた給仕係は、人間の住処にしか咲かないという花を、証拠として持ち帰った。彼女は花の種類なんて分からなかったので、給仕係の言葉を信じるしかなかった。
 薄紅色の花は絵本に出てくるお花畑の色に似ていて、彼女は彼の無事の象徴のつもりでその花を受け取った。

 水にも差されなかった花は、五日ともたずに枯れた。



  ****



 それから、彼女はずっと一人きりで過ごした。
 彼と過ごした日々を知る今では、彼と出会う前よりもずっとずっと寂しかった。けれど、彼と過ごした日々を思い返せば、あの頃よりもずっとずっと楽しかった。

 彼を人間の住処に返してから、彼が子どもから青年になるほどの時を重ね、彼女は長い塔での生活を終えることとなる。彼女が所有者に『管理』されていた理由を果たすときがきたのだ。

 彼女は所有者の先導によって『旗印』として名乗りを上げることとなる。
 彼女は人間と敵対し、争い続ける魔族の王の血を引く唯一の存在だった。

 ちょうど同じ頃、人間側にも動きがあった。魔族に対抗するための力を持つ者に『勇者』の称号を与え、人間の国の王の命令により魔族の討伐隊が旅立ったのだ。
 魔族染みているとさえ言える魔力を持つ『勇者』は、冷たい空のような瞳の色をしているらしい。



  ****



 彼女はまさしく『旗印』であった。魔族の本拠に閉じこもっているのが仕事である。これでは、塔にいたころと相違ない。
 彼女は膨大な魔力を持っていた。けれどそれを操る術はあまりにも未熟で、制御しきれない力など邪魔でしかなかったのだ。

 彼女を『旗印』とするために所有し続けていた魔族は、それを教えることはなかった。彼女に求めることはあくまで象徴であることだけで、血統とその魔力さえあれば、力など振るえない方が御しやすいと考えていたのだ。
 また、この人間との戦いに、彼女の力など不要だと考えていたのも一つの理由である。人間など取るに足らない存在というのが魔族にとっての常識で、勇者の足が止まらずに進み続けることの危険性と、正しく向き合える者はいなかった。

 だから、彼女は人間の勇者との戦況も知らず、塔にいた頃と同じように空を見上げ、絵本を眺めて過ごしていた。彼のことを思い浮かべては、時々その白い頬に涙を滑らせ、ぽつりと零す。

「あいたい」

 叶わなくていいと、言い聞かせている夢だった。



  ****



 勇者は、どんな難敵を相手にしても倒れることはなかった。人間とは思えないほどの魔力を操り、繰り出す剣技は容易く魔族の体を裂いた。
 魔族の本拠でも不穏な空気は流れ始めていたが、彼女はさして興味がなかった。

 他の魔族と深く関わることがなかった。塔を下りてからも、力を持ちながら操る術を持たない自身を嘲弄されるばかりで、彼女自身は同族に愛着はなく、無関心だった。

 彼女の心を揺らすのは、いつだって思い出の中の難しい顔をした彼だけ。彼のいた時間を知ってしまえば、彼のいない孤独な生にすら執着を持てず、彼女は全部が全部どうでもよかった。



  ****



 勇者一行がついに魔族の本拠へ辿り着いたと聞いても、彼女はさして焦ることもなかった。逃げようと思わなければ、返り討とうとも思わない。
 いつものように本拠の奥深くで、怒号を遠くに感じながら、彼女はもうすっかりくたびれてしまったいつもの絵本を見ていた。

 その部屋の扉を蹴破られ、図体の大きな男に剣を向けられても、彼女はさして動揺することもなく居住まいを正した。絵本が汚れるのは嫌だったから、それだけは少し遠くに追いやって。
 男は一人だった。背が高く、立派な大剣を軽々構えている。

「みんな死んだの?」
「…………死んだ。あとはあなたを殺せば、人間側の勝利だ」
「そう」

 思った以上に心は揺れなかった。死ぬことも怖いとは思わなかった。彼女は死んだことがなかったから、死の恐怖が分からない。寂しさの方が、よっぽど怖かった。
 痛くなければいいな、と思った。痛くなりそうだったら、自分で死んだ方がいいのかもしれない。

「命乞いは」
「しないわ」
「死んでもいいのか」
「よくはないけど、生きたい理由もないわ」

 彼以外の人間を見るのは初めてだった。彼はとても小さかったけれど、こんなに大きな男もいるのだ、と感心する。成長すれば、彼もこのくらい大きくなるのだろうか。そうすれば次は老いを待つのか。彼の老いがあんなに怖かったのに、その姿を見られないことを、不思議と残念に思った。

「どうして……っ」

 男は、剣を彼女へ突きつけたまま、絞り出すような声でそう訴えかけた。早くその剣を振るえばいいのに、男のまどろっこしさの理由が彼女には理解できない。

「どうして、死にたくないと言ってくれない。そうしたら俺は、同情してほだされて仕方がなく、と言い訳ができるのに」

 そんなことを言われても、彼女には関係ないことだった。男の心境を慮る必要など、彼女の方にある訳がない。
 困惑する彼女に対し、男は地面にその大剣を突き立てると、何の未練もなくそれから離れ、彼女の座る寝台のすぐそばに座り込んだ。

「俺は強くなった。死ななかった。死ねなかった、絶対に。許せなかったから。今生の別れのような顔をされることが許せなかった。ここに来るためだけに、剣を取った」

 間近で見る男の顔は当然知るはずのないものだった。けれど、どうにも既視感を与えるのは、彼女をまっすぐに見つめるその目、で。

「それなのに、いつの間にか本気で人間を救いたいと思った。誰かを想い、誰かを愛して、誰かのために生きる人たちの自由と喜びを、守りたいと思った。それを奪う魔族が憎らしくなった。あなたの言う通りだったんだ」

 瞳の色は青だった。空のように澄んだ色で、けれどそれを氷で包んだように鋭く輝く。男は笑った。彼女の知らない顔で。一度も見せたことがない、困ったような微笑みを彼女へ向ける。

「人間は、嫌な奴ばかりじゃなかったよ」

 あ、と声が漏れた。喉の奥から、勝手に零れ落ちるような声だった。
 彼女は知っていた。その氷でくるんだような瞳が、揺れる瞬間を。青い色がほどけるように、彼女を映すのだ。絵本の内容を語り聞かせる声は高いけど落ち着いていた。微睡む彼女にかけてくれたシーツの温かさを、ずっとずっと覚えていた。
 身体の大きさも、声の低さも、何もかもが変わっていた。けれど、その瞳の色だけは、あの頃と全く変わらなかった。

「俺にあなたは殺せない。裏切者と謗られても、傷一つ付けることはできない。だって俺は、ずっと」

 男の手が彼女に伸びる。彼女は咄嗟に逃げようとして身をよじった。彼女は誰かに触れることがずっと怖かった。魔力の制御に自信はなく、また誰かを吹き飛ばしてしまうのではないかと怯えていた。
 逃げようとした彼女の細い腕を、男が大きな手で掴み、強引に引き寄せた。もがく彼女を押さえつけるように、その両腕で男は強く抱え込む。

「寂しいと泣いていた女の子を、ずっと抱きしめてあげたかったんだ」

 彼女の魔力は、男を吹き飛ばすことはなかった。男の魔力で抑え込まれていることが分かった。腕の中にすっぽりと納まって、彼女は言われずとも理解した。きっとすごく頑張ってくれたのだ。こうして抱きしめるために、身体を鍛え、魔力を研鑽し、ようやく会いに来てくれたのだ。彼女のことを忘れずにいてくれた。ずっと、ずっと。

「…………ぃ、たかった……」

 必死に絞り出した声は、随分聞き取りづらいものだっただろう。けれど、男はきちんと聞こえていると伝えるように、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。

 彼女はずっと会いたかった。
 それまでの生活も、自身の命も、同族の安寧もいらないから、ただ彼ともう一度会いたかった。会えるだけでよかったのに、男は強く彼女を抱きしめて、けして放しはしなかった。

 生まれて初めてまともに触れた他者の体温は、どれだけ涙を流しても言葉にできなかった。



  ****



 人間の国で、勇者による魔王討伐の一報は瞬く間に広がった。
 誰もが歓喜し、訪れた平穏な日々に感謝し、偉業を成し遂げた勇者を称えた。
 勇者には、あらゆる栄誉と報奨が待っていた。しかし、勇者はその一つも受け取ることはなく、間もなく姿を消した。
 勇者は誰かに、一番欲しいものを手に入れてしまったから、と漏らしていたらしい。

 ちょうど時を同じくして、入り組んだ辺境の森に、一組の夫婦が住み着いた。
 妻は美しい黒髪を覗かせるが、いつもヴェールで顔を隠しており、夫は冷たい印象の青い瞳をしていた。突然現れ、危険な場所に平然と住む不可解な夫婦だが、近くの村の人々には快く受け入れられていた。

 理由なんて単純なもので、妻を見つめる夫の目が、これ以上なく温かかったからである。
 睦まじい夫婦に疑念を向けるなど、野暮というもの。




 これは、正しい勇者であることよりも、自身の幸福を選んだ男の、世界で一番愚かな英雄譚の裏側。
 愚かな英雄は、きっと後悔はしないことでしょう。




 読んでいただき、ありがとうございました。
 倫理や世界や種族より、大事な人を選んでしまう人が書きたくてこのような形になりました。いつもは逆が多いので。
 楽しんでいただけましたら幸いです。

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