プロローグ 暁の別れ
東の空にさし始めた薄い光が、夜明けの近い事を告げている。そして夜明けの光は、街炉灯の白い光と
相まって小さな星明りを消し、夜空を無味乾燥の漆黒に変えていた。黒塗りの空の下、涼しさを通り越して
寒さをはらんだ夜風が、レンガ造りの建物や手入れされた生垣の間をすり抜けていく。
辺りにはいくつかの家が立ち並んでいた。この辺りの家は例外なく、1階建てでありながらその幅の広さで
面積を稼いでいるものか、センス良くデザインされた3階建てくらいの小さな屋敷かのいずれかである。
もちろん、この一帯には中流階級の人々が住むような家、例えば隣の家との1メートルも無いような隙間を
無愛想なコンクリート塀で仕切り、お互いに土地の境界線を主張するような浅ましい家は存在しない。どの家も
例外なく、垣根やレンガ造りの塀で周囲を軽く仕切るのみであり、しかもそれらに囲まれた敷地は、家だけを
置くには広すぎるため、それぞれに詫び寂を感じさせる日本庭園やら美しい花の咲き乱れる西洋庭園やらがある。
そんなハイソな住まいが集まる、高級住宅地の一角。だが今夜はそこにおよそこの辺りの雰囲気とは似ても
似つかない、異様な光景があった。
問題の場所は、町の東側に面した一角にある白塗りの壁も眩しい3階建てのお屋敷。イギリス式の生垣で
囲われた敷地には、庭や噴水が並ぶ。いや、「並んでいた」と言うべきだろう。なぜなら・・・・・・
その屋敷が、今や瓦礫と成り果てていたからだ。
もはや廃墟と言うべきその白壁の屋敷は、2階の床から上がすべて吹き飛んでいる。コンクリートの壁は
中の太い鉄筋ごと吹き飛び、その中に家具の欠片である木っ端や、洋服の切れ端が混じって、いくつかの山を
なしている。それらは庭にも散乱し、花壇の花は吹き飛んできたテーブルの天板で潰され、彫刻の施された
噴水の噴き出しは屋根の巨大な欠片でグニャリと折れて、途中から水をあらぬ方向に噴き出していた。
土ぼこりと白い煙が、辺りを白く霞ませている。
そんな虚しい廃墟と化した瓦礫の中には、2人の人影があった。
1人は、まだ原形を留めている屋敷の1階部分の上に立っている。夜風にはためきながらその全身に
まとわりついているマントのようなスミレ色の布。襟にかかりかけたオールバッグの髪と氷のように酷薄な顔。
男の周りには不可視の恐怖がまとわり付き、それが周囲に撒き散らされている。
そんな男は、薄ら寒い笑顔でなにかを見ている。しかもその笑顔は嘲笑や失笑などではない。人が心の底から
何かを楽しむ時の、喜びとうれしさに満ちた、本当の笑顔である。
その笑顔の先は、もともと庭の花壇だった場所である。瓦礫と砂埃に覆われたそこには、服を乱し、息を切らし、
汗を噴出しながらも鋭い眼光を見せる、1人の少年がいた。
苦しそうな呼吸と共に肩を上下させ、埃っぽい周りの空気を吸い込んでは、また吐き出す。真っ赤に火照り、
汗に濡れたその顔に、砂埃がまとわりついていく。そんな不快な状況にあってなお、少年はその眼差しを上げ、
数十メートルを挟んで対峙した男の方を睨みつけていた。
「それで?」
満足そうな笑顔をそのままに、男は少年に言葉を向ける。少年の眼光は、普通の人間ならば声はおろか、
呼吸さえ止めてしまいそうなほどに鋭く、冷たい。そんな視線に対し、笑顔を見せ、平然と言葉を返す男の殺気も
また、想像を絶する恐ろしさをはらんでいる。
「私を殺すのは、もう諦めたか?」
少年が最初に見せたのは、男の言葉への返答ではなかった。その唇が震えるように動かされ、ボソボソと何かを
呟いている。そこから発せられる声は、男に到底届かないほど小さなもの。けれどその声に呼応するように、
何かが起きていた。
そして、少年の声が終わりに近づくと共にその変化が明らかとなる。唇を止めた後、ゆっくりと右手を目の前の
空間に突き出す少年。その右腕の周りに、霧のような白い気体が集まっている。やがて、その白い気体は少年の拳を
中心として棒状に集まりはじめ、同時に粘土細工のように姿を変えていく。ゆっくりと形を変え、やがて完全な
実体として少年の手に握られていた。
見た目から推理すると、紫水晶でできた槍、と言ったものである。先端の巨大な刃から、2メートルを越えている柄、
その先端から最後尾に至るまで、全てが均一の素材でできていた。透明感と光沢が感じられるその物質は、うっすらと
紫色を帯びている。
だが、少年の手に生まれた凶器を見てもなお男の笑みは変わらない。それどころか、その口元をいっそう吊り上げ、
あたかも愉快な見世物を見るような表情で少年を眺めていた。
「その気は無い、か?」
心底嬉しそうな口調で、男は少年に念押しした。2度目の問いかけに、今度は少年がすぐに口を開く。
「殺す」
前触れは、それだけであった。その言葉を言い終わると同時に、いや、あるいは言葉を口にしながら、即座に少年が動く。
瓦礫の地面を踏みしめ弾き出されるように跳び、男のいる屋敷の上を目がけ、弾丸を思わせる速度に体を乗せる。
土煙と朝霧が立ち込める空気を貫き、少年と男の距離を瞬時に詰めていく。
しかし、男の反応も早い。少年が飛び出すのとほぼ同時に、スラリとスミレ色の布から腕を見せた。白みがかった男の腕が
見えた瞬間、そこに少年が飛び掛る。手には先ほどの紫水晶の槍が握られている。その槍が、男に向かって一直線に振るわれた。
その刹那、光、次いで白煙が弾け飛ぶ。
轟音が、辺りに響き渡った。爆風が、周囲の空気に煙と土を飛ばす。交錯した2人の姿が、一瞬で煙に飲み込まれる。
轟音が一しきり反響し終えた後、夜風が吹きぬけ、煙を晴らしていった。その場所は、また一歩単なる瓦礫へと
近づいていた。原形をとどめていた建物の1階部分も大小さまざまなコンクリートや木材の破片に成り果て、破片のいくつかは
庭や生垣にまで飛散し、枝を折り、花々を引きちぎっていた。
交錯した2人の男は、煙の中にまぎれている。ようやく彼らが現れたのは、夜風が爆煙を吹き払うのを待ってからであった。
少年の方は、先ほどよりも呼吸の音を荒げ、苦しそうな表情を見せる。体中にできた衣服の裂け目に血の筋が覗き、
それが少年の感じる痛みを思わせている。そして男と交錯する瞬間に手にしていた紫の槍は、刃の先から持ち手の
20センチほど上までが綺麗に無くなっていた。だが、酸素が足りず、全身に切り傷を受け、武器を失ってなお、
少年はその眼差しを男に向けていた。
少年に睨まれた男は、相変わらず笑顔を浮かべる。しかもこちらは、傷はおろか、マントに切れ目一つ見えない。
だが・・・・・・
「なるほど。さすがに鍛えた甲斐があったようだ、な・・・・・・」
先ほどより更に満足げな表情で、男は少年の方を向く。しかし、その体に大きな違いが生まれていた事を少年は
見逃さない。違いは、少年に向けてかざされた男の右腕にあった。ひじを曲げ、マントから少年の方に突き出された
その腕は、爆発の前と大きく違う点が1つ。
手のひらがザックリと切り裂かれ、そこから鮮血が垂れていた。空気に触れて若干の粘性を帯びたそれは、手首の
辺りで地面に滴っている。
しかし、男はそんな事など意に介さず、それどころか自分が傷ついたという事実を喜ぶかのように、不気味な笑顔を
向けている。10メートルほど前で疲労困憊し、それでもなお自分への殺気を消さない少年に、男は言葉を向ける。
「お前も、私と同じ才能がある」
「・・・・・・!」
男の切り出した話題に、少年は一瞬眼を見開き、表情を曇らせた。わずかな変化ではあったが、それを見逃す男ではない。
畳み掛けるように言葉を放つ。
「一撃で私を傷つけ、あまつさえ、私の攻撃を全てかわしている。あの距離で回避する事など、上位の魔法家でも簡単ではない。
それを、お前はやってのけた。荒削りで不完全とはいえ、とにかく致命傷を避けえたのだ。その能力は驚嘆に値する。」
そう言いながら、男は血まみれになった右手をそのままに、マントからゆっくりと左手を持ち上げた。白みを帯びた
皮膚の色は夜の闇に浮き上がり、体の中心から2本の白い棒が突き出したようにも見える。
「もう一度言おう」
男の顔から、笑顔が消えた。無表情になった男の顔は、少年の恐怖を掻き立て平常心を奪いとろうとしている。
「私と共に来い。お前を待っている人間がいるのだ」
凍てつくようなその言葉にさえ、少年は動じなかった。それどころか、男に向けて一瞥を加えると、槍の柄を握った
手を、ゆっくりと持ち上げる。
「お前は私と同じ人種だ。お前自身は気に喰わないらしいが、これは事実だ。そしてこれは、悲しむ事ではない。
なぜなら、お前が私と同じ優れた人間である事を示しているのだから」
淡々と言葉を続ける男に、少年の殺意は最高潮に達する。槍の柄を持ち上げていた少年の腕が、頭の後ろでピタリと
動かなくなり、そして・・・・・・
「黙れぇえっ!!」
男に向けて腕が振り下ろされた瞬間、柄はその手を離れ、男の方に向かっていく。
それは人の手から放たれた事が信じられぬほど、速く、鋭く、正確な一撃。引き絞られた弓から放たれる一本の矢の
ように、紫のガラス質が男に向かう。だが、それが男を貫くかと思われた、その時、男が唇を動かした。
直後、光と爆風と轟音とが、男の目の前に爆発を作り上げる。
先ほどのものより幾分規模が小さかったためか、男の周りからはすぐに煙が消え、その姿が現れる。驚いた事に、
あの柄を飛ばす一撃と至近距離の爆風など無視するかのように、男は無傷だった。それどころか、その両手を
少年の方に突き出したその体勢さえ、爆発前と何一つ変わらない。
「まあ、仕方がない」
口調を和らげた男は、少年を見据えて嘆息まじりにつぶやいた。
「今すぐにとは言わん。『彼』も、お前がすぐに来るとは考えていなかった。しばらくお前に猶予を与えよう。
お前が我々を理解し、受け入れるための、な」
言葉を続けるうち、男の両腕に変化が現れる。少年の方を向けた手の平が、白熱電球のように煌々とした光を
放ち始めたのだ。しかも、それが見る間に強くなる。
このとき初めて、少年の顔にそれまで見られなかった恐怖が現れた。男は、それを待っていたかのように口を開く。
「3年だ」
瞬間、男は意識を少年から自分の両手に集中させなおし、最後の言葉を口にした。少年は、恐怖をにじませた表情の中、
必死になにかを叫び、両腕を目の前に突き出す。
「3年後の今日、お前を必ず連れて行く。それまでは、ゆっくりと待つことだ。息子よ」
爆発は3度目。しかし今度のものは、これまでとは全く規模が違った。最初に見える光が、家全体を飲み込むように
膨れる。そして・・・・・・
あたり一面に、轟音よりも速く、灼熱の風が吹き荒れたのだった。
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