挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
Helau!! 作者:伊舞 紫咲

序幕

1/82

「Prolog」

 男は走っていた。ただ只管、目的地だけを求めて。
 時折、隣を駆ける女に向ける眼差しは気遣わし気だ。それでも男は女に歩幅を合わせるだけで何も言わなかった。否、言えなかったのだ。
 何故なら女を愛していたから。心の奥底から深く。傾倒とも言える愛を抱えていたから。
 今から犯す罪を思っても女が取った行動なら何でも赦せた。例え、それが自らを堕とす行為であっても。

 しかし、女は違った。罪悪感だけを抱えた女は命の重みに耐えかねていたから。物理的にも、心理的にも。
 女の腕には少女がいた。齢は10。幼気な、けれど愛らしい容姿の少女。
 10ともなれば米袋にも比例する重さになる。女性が抱えて男性と走るには少し無理があった。ましてや女の細腕が耐えられる筈も無い。

 寒さと緊張。疲労と罪の意識。あらゆる事象に苛まれた身体は限界だった。
 がくがくと震える腕。縺れる足。獣道を全速力で駆けているのだ。木の根に足を取られ転びそうになるのも屡だった。

 頬を撫でる夜風が冷たい。荒く息を吐きだせば、寒さで視界は白く染まった。自らの吐息は靄のように漂い闇夜に消える。何度も、何度もそれを繰り返しながら、女は時折、男に視線を送った。
 向ける眼差しに意味など無い。強いて言えば独りじゃないことを確認したかったのだ。

 足音は2つ。詰まるような呼吸も2つ。時折漏れる喘ぎも2つ。
 手を伸ばせば触れられる距離に居るというのに、孤独を感じずにはいられなかった。
 罪の意識からなのだろうか。それとも自責の念か。胸中に渦巻く後ろめたさに女は視線を伏せた。

「ハア……少し歩こう」

 前方を走っていた男が不意に足を止める。女は倣うように歩みを遅め、息を整えるよう努めた。
 それでもぜぇぜぇと吐き出される吐息は荒く、肩を上下させながら肩口で額の汗を拭う。

「着いたの?」
「まだだ。大人しくしてろ」

 無邪気な声。それでも、どこか不安を孕んだ声音は、少女の心許ない心境を表す。
 呟くような問いに男は乱暴に答えを放った。それに肩を揺らす少女は、怯えたように女の首に腕を巻く。折れてしまいそうなほど脆い、小枝のような腕を。
 背中を撫でる女の手は優しい。慈愛に満ちた、あたかも聖女のような仕草に一瞬見惚れる男。

「今度は俺が」
「うん……」

 男は両手を広げ少女を抱き込む。固い腕に揺られながら、少女は身を固くした。
 女と違い男はこの行為に慣れていない。いつ落とされるだろうか、と不安を抱える少女の考えは杞憂で終わった。





 闇を食む森の中。二人はとうとう目的地を視認する。小走りで駆けよれば、少し開けた場所に人工灯が明滅していた。
 灯りがそういう作りなのではない。すっかり古びた橙の照明が今にも壊れる、と意志表示をしていただけ。
 それでも暗闇に慣れた目には痛いほど眩く見えた。その下で行われる行為は、けして優しいものでは無かったけれど。

 大人が数人。闇から現れ、闇へと姿を消す為、正確な人数は把握できない。
 それでも五人いるかいないかの人影を、男は目で追っていた。責任者が誰かを見分ける必要があったからだ。
 けれど、女と少女は目の前の光景に、ただただ目を奪われるばかりだった。

 地べたに座り込んでいる子供。
 馬車の荷台に押し込められている子供。
 膝を抱え項垂れる子供。

 皆一様に虚ろな目で空虚を眺めていた。
 ちらほらと泣き喚く子供がいるのも確認出来るが、ぶつぶつと願掛けするように言葉を吐き出す幼子が殆どだった。

「おかあさん……」
「パパ……ママ……」
「帰りたいよぉ……」
「痛い……!」
「たすけて……」
「はなしてよ……ッ……」
「誰か……助けて……!」

 耳を塞ぎたくなるような子供達の悲痛な叫び。女は無意識に拳を握りしめ唇を噛んだ。
 鼻が痛いのは泣きそうだからじゃない、寒いからだ、と自身に言い訳をして。

「わ……ワタシ……ッ、あれに乗るの?」

 馬車に無理矢理放り込まれる子供を目で追い、少女は恐怖に慄いた。
 10の幼子の目には、さぞ凄惨に映ったことだろう。なにしろ自らこの場に足を運んだ2人さえ、目を逸らしてしまいたいほどだったのだから。

「そうだ」
「や、や……やぁ! ヤダ……!」

 男は抱きかかえていた少女を地べたに下ろし、淡々と告げた。
 刹那、少女の素足から冷気が伝う。冷たく、固い地面。素足に広がる僅かな痛み。
 ああ、これは現実なのだ。理解した少女の背筋は粟立ち、顔が蒼く染まった。

「帰りたい! おうち……お家に! お姉ちゃん助けて……!」

 事実を否定するように激しく頭を振り、女に縋り付く。僅かな力で上下左右に揺すられた女は柔い掌を力強く握り、少女をジッと見つめた。

「……ッ……すぐにいくから」

 助ける、とは言わなかった。
 ただ女は〝いくから〟と言った。それを〝助ける〟という意味で拾った少女は嗚咽を漏らしながらも、駄々を捏ねるのを止める。

「分かった?」
「時間だ」

 抑揚なく告げる男に手を引かれ、少女はおずおずと歩みを進めた。もう抵抗することは無く、ほんの少しだけ瞳に蔭を落として。

「これは上玉! ほら金だ!」

 老人はニヤリと不気味な笑みを浮かべると、少女を荷台へ放り込み、男へ露銀の入った小袋を放り投げた。

「兄ちゃんも人が悪いねぇ、人様の子供を誘拐した挙句、人買いに売るなんてなぁ?
 さぁ、そろそろ行くか。今日はどこからか情報が漏れていたみたいでねぇ……怖ぁい、怖ぁいオオカミさんに食べられちゃ堪んないからねぇ?」

 老人はクツクツと喉で笑いながら撤退の準備を始めた。それをゆるりと眺め、男も女の元へ踵を返す。
 そして女に声を掛けようと口を開き、閉じた。とても晴れ晴れとは言えない表情。蒼褪め、肩を揺らす様は痛々しく、思わず眉根を寄せた。

「帰ろう。朝になると怪しまれる」

 緩慢な動作で首を縦に振る女を確認し、男は駆け出した。

「爺さん……間違ってるよ。俺は綺麗なことなんてしたことない」

 産まれてから悪いことしかしてないんだから、男がそう続けた言葉は女の耳には届かなかった。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ