鬼さんコチラ、手の鳴る方へ…。
―鬼さんコチラ、手の鳴る方へ…。
人の往来の激しい街中。
街特有の騒がしい喧噪の中、歩美はふとその足を止めた。
霞がかかったような、薄ぼんやりとした建物の間を、影のような人間が多数行来している。
今誰か呼んだ?
一本の大きな道の真ん中で、歩美はくるりと振り返る。
ぽつりと呟いたようなその声は、滴が水面を叩くかのように、歩美の心にじんと響いた。
…気のせい?
首を小さく傾げて、歩美はまた前に向き直る。
歩美の成長に追い付けなかった赤い小袖を目いっぱい引っ張って、歩美は小さな足をもう一歩
前へと進めた。
―鬼さんコチラ、手の鳴る方へ…。
りんっと鈴が鳴るように、明朗に響き渡る小さな声。
それは子供のような甲高い澄んだ声で、歌うように誘うように、ぽつりと声を置いていく。
歩美はちらと後ろを振り返り、あ、と小さく声を上げた。
色のない影の中にひとつ、赤い色彩が飛び込んでくる。
思わず追うように駆けだした歩美に、それは、きゃっと小さく鳴くと背を向けて走り出した。
ふわふわと頭の上で漂うそれは、兎のよう。
歩美はぎゅっと眉根を寄せてそれを見ると、その異形の姿に興奮した。
どうやら兎の耳はあるが、兎ではないようだ。
人間の姿をし、兎の耳を持つ者など、歩美は知らない。
何だろう、この生き物。
いつの間にか当初の目的など忘れ、歩美は必至になってそれを追っていた。
その異形の者は巫女服を着ていた。
赤い色をしているから女なのだろうが、なぜかその巫女服に袖はない。
まるで走るためにあるような服だ、と思った。
「ま…まって!」
思わず声をあげると、くすくすと子供のような笑い声が響く。
それは一度も振り返らないまま、さっと建物の角を曲がった。
「ちょ…っ!」
どんっ!
突然の衝撃に歩美は眼を丸くし、今しがたぶつかったそれをそっと見上げた。
「ひっ!」
ぎょろりと動いた黒い瞳に、歩美は小さく悲鳴を上げた。
金色に光るアーモンド形の目を埋め込んだ黒い毛玉が、そこにはいた。
◇
きらりと光るそれを見るうちに、どうやらこれは猫らしい、ということがわかった。
何故猫らしい、なのかというと、大きさが尋常じゃなかったからだ。
成人男性並みの大きさで、さらに恰幅がいいと来ている。
今しがたぶつかったのは猫の腹であったらしい。
ぎょろりと動くその瞳を眺め、歩美は汚れてしまった着物を叩いた。
猫のせいで兎を見失ってしまった。
もふもふとした黒い毛皮で覆われた猫をゆっくりと観察し、歩美ははぁっと溜息をついた。
今日は変なものによく会う。
人型の兎やら、でっかい猫やら。
次は何が出るんだろう?
―くすくすくす…鬼さんコチラ、手の鳴る方へ…。
ぱんっぱんっ
例の声と手を打ち鳴らすような、短く甲高い音。
妙に響くその音に、歩美ははっと辺りを見渡した。
何もない空間。
いつのまにこんな場所にまぎれ込んだのか。
先ほどまがったはずの建物も、沢山いたはずの人々も、いつの間にか全てなくなっていた。
妙に静かなその場所に、またあの声が響き渡る。
―鬼さんコチラ、手の鳴る方へ…。
あちらからもこちらからも、同じような声が聞こえてくる。
それはまるで小さな空間で声が反射しているかのようだ。
真白の空間。
自分が確かにいるにも関わらず、無人のように感じてしまう程の無の空間。
どちらが上なのか下なのか。
自分が誰なのか、ここはどこなのか。
何もかもが全てどうでもよく、微かに聞こえる声も遠い。
まるで自分自身が発光しているかのような錯覚。
さっきまでいたはずの猫もおらず、ただ映るのは無の世界のみ。
…あれ、ここはどこだろう…?
ふわりと浮くような感覚に、歩美はそっと瞳を閉じた。
◇
ピッピッピッピッ
小刻みに聞こえる電子音。
それはよくドラマとかで聴く、心音の装置に似ていて、私はその一定に刻まれるリズムにしば
らく耳を澄ませた。
「…ゆみ?歩美っ!?」
耳元で呼ばれているのは私の名前?
じゃあ呼んでいるのは…誰?
うっすらと目をあけると、一瞬さっきと同じような白くて眩しいものが目を刺した。
「…っ」
思わず首を背けて目を閉じると、その視界の先に赤い何かが見えた。
…兎…?
「歩美!」
突然肩から下にかけて重い衝撃があり、私はかっと目を見開いた。
「…お母さん…?」
カラカラに乾いた唇を割って、小さな小さな声が漏れる。
赤いカーディガンをはおった母親が、目の下にクマを作って、安堵した顔でそこにはいた。
…兎じゃない…。
夢から醒めきらない頭に手をやり、私はあれ、と小さく呟いた。
頭には何重にも包帯が巻かれ、腕にも隙間なく白い包帯が巻かれていた。
…なんで?
重く頭痛のする頭に疑問符をいっぱい並べ、私は困惑した表情をそこにいる母親へと向けた。
「よかった…トラックにはねられてから、もう三日も目を覚まさないから、ダメかと思っ
た…」
泣き笑いのような顔をして、母親はそっと目がしらを抑えた。
はっとして自分の姿をよく見てみると、腕だけでなく脚にも包帯が巻かれており、さらに左足
はギブスで固定されていた。
…そっか、学校行く途中でひかれたんだ…。
徐々にはっきりしてきた頭に、そのときの映像がはっきりと再生される。
青になったばかりの横断歩道。
そこに大型のトラックが侵入してきて、私は丁度その餌食になった…。
もしかして、兎は私を助けてくれたのかな…。
ふと赤い色を思い出して、私はそっと病室の窓を盗み見た。
そこには誰が持ってきたのか、細くしなやかな花が数本活けられている。
趣味悪いな…。
くすりと口元に笑みを乗せ、夢の中で自分を導いたあの言葉を小さく呟く。
「鬼さんコチラ、手の鳴る方へ…」
窓辺に活けられた彼岸花に、私はふっと微笑んだ。