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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第三章 再来の王都

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第三章19 『銀色の魔女の願い』

 名前を呼ばれ、緊張の色が濃い表情でエミリアが返事をした。

 そして、中央へ向かって歩き出す彼女の右手と右足が同じタイミングで前に出たのを見た瞬間――スバルは『これは俺がどげんかせんといかん』と思った。

 緊張でカチコチになっているのが後ろから、それも数歩の段階で見てとれるほどの強張りっぷりであり、日常であれば『エミリアたんマジ子犬!』とその愛らしさを賞賛せしめる場面なのだが、現状ではそれが+に働く要素が見えない。
 どうにか中央へ辿り着く寸前で歩き方の齟齬に気付き、エミリアの手足が常人同様の形態に収まりつつ前へ――賢人会の視線を受ける、広間中央へ進み出た。

 ――エミリアたん、大丈夫かよ。

「心配はいらないよ、スバル」

「人の心を読むな、掌の上か俺は」

 内心の不安を持ち上げた手をさまよわせて隠し切れずにいたスバルに、ちらとこちらを横目にしながらラインハルトが声をかける。
 ひそやかな声でスバルの不安に言及する彼は、前に出るエミリアの背を顎で示し、

「スバルは王城でエミリア様がどんな評価を受けているか知らないようだからね。――少なくとも、君が心配しているような侮られ方はしていない」

「そうは言っても……」

 右手と右足が同時に出ていたのだ。ド緊張した人間のお約束パターンもいいところである。これで口上を噛む、ついでに舌も噛む、赤面してしゃがみ込む、その連鎖まで続いてしまえばとても見てはいられない。
 もしもそうなったら、スバルは国の重鎮の集まるこの場面で、全員からの軽蔑と蔑視を一身に浴びるだけの醜態をさらして見せる覚悟がある。

 ――うまくフォローしてエミリアの名誉を挽回する、という方向に思考がいかないのがナツキ・スバル式であった。

 が、そんなスバルの明後日方向の覚悟は斜め方向解釈によって杞憂となる。

「見たか、今の手足が同時に出る歩法を……」
「エルフ族に伝わる特別な呪法かなにかの先触れじゃないのか」
「魔貌だな。なぜか目を離すことができない……」

 並ぶ近衛騎士たちから恐れ入るような声が届き、スバルはその内容にげんなりとする。被害妄想というか、誇大妄想も甚だしい内容だ。
 実際のエミリアを知っていれば、彼女の仕草が単なる緊張によるものであることなど考えるほどでもない。
 三番目の奴に至ってはスバルの感想と大局的にはなにも変わらない。
 ともあれ、カチコチに固くなった動作ひとつとっても、そんな解釈をされているような立場――アレが馬鹿にしているのでなく大真面目に吹聴されているのだとすれば、決して友好的に迎え入れられていない状況であるのは察することができた。

 エミリアが中央に到達すると、自然とそんなざわめきの数々も静まり返る。
 残ったのは進み出たエミリアの他、靴音を高く鳴らしながら隣へと向かうひとりの長身――ロズワールの足音だけだ。その藍色の髪の長身がエミリアの隣に立つと、場の準備は整えられた。
 立ち並ぶ二人を見やり、議事進行役のマーコスが重い顔つきのまま顎を引く。それから彼は視線でスバルたちの方――特に先ほど頭の悪い風説を口にしていた輩の方を睨みつけ、背筋を正させてから、

「では、エミリア様。そしてロズワール・L・メイザース卿。お願いいたします」

「はーぁいはい。いんやぁ、こーぅして騎士勢が介添え人として続いたあとだと、私の場違い感がすごくて困りものだーぁよね?」

 あくまで軽々しい調子でロズワールが応じ、傍らのエミリアに「ねぇ?」と振り返る。それに対してエミリアは一切の反応を返さない。
 さっきまでの彼女の強張りを思えば、普段通りのリアクションなど期待するべくもない。ロズワールの空気の読めなさはスバルすら苛立つレベルだったが、そのことに関しての負感情は即座に置き去りにされた。
 なぜなら――、

「お初にお目にかかります、賢人会の皆様。私の名前はエミリア。家名はありません。ただのエミリアとお呼びください」

 凛とした銀鈴のごとき声音が広間中の鼓膜を揺らし、その名を全員の胸に刻み込む。声に震えはなく、前を見る眼差しにも揺らぎがない。
 先ほどまでの緊張した様子はどこへ行ったものか、賢人会を目前に己の名を紡いだエミリアの姿は、これまでの候補者と比較しても劣るところがない。

 否、口上を述べるエミリアの姿には、他の候補者には決して持つことが叶わない、現実離れした魔貌ともいうべき魅力が備わっていた。それが彼女のみが純粋な人間族でないことに起因するのかはわからない。
 だが、少なくともスバルは、彼女の持つその魔貌にしかと魅入られた。先までの内心の覚悟や、周囲から彼女に向けられた非礼の数々――その全てが脳裏からまっさらに消失するほどに、佇む彼女の後姿に魅せられてしまっていた。

「そして、エミリア様の推薦人は不肖の身ながらロズワール・L・メイザース辺境伯が務めさせていただいております。賢人会の皆様方にはお時間を頂き、ありがたく」

「ふぅむ。近衛騎士でなく、推薦者は宮廷魔術師のあなたになりますか。そのあたりの経緯をお聞かせ願えますかな」

 ヒゲに触れながらおっとりと話の流れを提示し、それからマイクロトフの瞳が剣の鋭さを帯びて細まる。彼はその眼差しで静かにエミリアを射抜き、

「候補者であるエミリア様。彼女の素姓も含めて、お願いします」

「承りました」

 腰を折るロズワールは伸ばした手でエミリアを示し、彼女の首肯を受けると朗々とした声で彼女との出会いを語り始める。
 それはスバルも聞いたことのない内容であり、思わず身を固くするスバルはその一言一句を聞き逃すまいと耳をそばだてて、

「まずは皆様もご周知のことと思いますが、エミリア様の出自の方からご説明させていただくとしましょーぉか。見目麗しい銀色の髪、透き通るような白い肌、見るものの心を捉える紫紺の瞳に、一度聞けば夢にまで忘れることのできない銀鈴の声音。魔貌の数々はご存知の通り、エミリア様がエルフの血を引くことの証明です」

 ロズワールの言葉を受けて、広間の幾人もが息を呑んだのが伝わってくる。
 エルフ――エミリアの扱いからして周知されていただろう事実であり、こと王選においては隠し通すことなど不可能なレベルの他者との差異だ。
 先のアナスタシアの例で、スバルはアメリカ大統領に日本人がなることはできない、などという喩えを頭の中で用いたが、エルフ族と人間族の間に横たわる溝は果たしてそれと比較してどれほど深いものであるのか。

「エルフ族の血を引く娘……」
「人知を越えた魔貌、そして常世離れした雰囲気、間違いないでしょうな」
「エルフ族を王座になど言語道断だ。それこそ、アナスタシア様の例とは比較にもならん。おまけにただエルフであるというだけならともかく」

 賢人会の老人たちが顔を見合わせ、声をひそめながらも批判的な内容を口にする。特に禿頭に大きな傷を持つ老人――彼の人物の態度は強固なもので、

「半分は人間の血――つまり、ハーフエルフということであろう?」

 額に青筋すら浮かべてそう吐き捨て、老人は乱暴に手を振ってみせる。それはぞんざいにエミリアを遠ざける仕草であり、事実彼は、

「見ているだけでも胸が悪い。銀色の髪の半魔など、玉座の間に迎え入れることすら恐れ多いと何故気付かない」

「ボルドー殿、口が過ぎますな」

「マイクロトフ殿こそおわかりか? 銀色の半魔はかの『嫉妬の魔女』の語り継がれる容姿そのものではないか!」

 たしなめるマイクロトフにすら声を荒げ、ボルドーと呼ばれた老人は立ち上がる。それから彼は階段を下ると中央、エミリアの前へつかつかと歩み寄り、

「かつて世界の半分を飲み干し、全ての生き物を絶望の混沌へ追いやった破滅。それを知らぬとは言わせぬぞ」

「――――」

「そなたの見た目と素姓だけで、震え上がるものがどれほどいると思う。そんな存在をあろうことか王座にだと? 考えられん。他国にも国民にも、乱心したと言われるのが関の山だ。ましてやここは親竜王国ルグニカ――魔女の眠る国であるぞ!」

 両手を広げて足を踏み鳴らし、荒々しい口調と態度でがなるボルドー。その態度にエミリアはいまだ無反応。だが、代わりにスバルの方が限界を迎えそうだ。
 しかしそれも、

「スバル、相手は賢人会の方だ。短慮はいけない」

「ざけんな、ラインハルト。あれが難癖以外のなんだっつーんだ。昔に本人が直接なんかやらかしたってんならまだしも、見た目が似てるだけであの扱いだぞ? ならハゲ頭のジジイは全員あんなんか? 俺の知ってるハゲジジイはもうちょいマシだ」

「本筋から話がそれ始めているよ、スバル」

 思わず激情のままに怒鳴り込んでしまいそうなスバルを、とっさの判断でラインハルトが押し止める。だが、スバルの方の怒りはそれで収まるはずもない。
 鼻息も荒く、視線で射殺せればとばかりにボルドーの横顔を睨みつける。と、その敵意満々の視線に件の老人が気付き、もめる二人を見やると、

「介添え人の列が騒がしいと思えば、騎士ラインハルトはもうひとりの候補者の介添え人。となれば、あの黒髪の少年は……」

「ボルドー様、もうよーぉろしいですか?」

 ボルドーの目が剣呑な光を帯び、こちらに対してなにかを働きかけようとする寸前、その判断に水を差したのはロズワールだ。
 彼は普段通りのとぼけた態度のままで進み出て、ボルドーの視線を正面に受ける。高齢のわりには頑健な体つきの老人は、背丈が長身のロズワールとほとんど変わらない。互いに至近で視線を交換し合いながら、老人はロズワールのオッドアイを見据え、

「言葉を尽くしたか、という意味ならばまだまだ言い足りんほどだ。卿の行いはそれほどのものだぞ。わかっているのか、筆頭宮廷魔術師よ」

「わーぁかっていますとも。私のしている暴挙の意味も、賢人会の皆様の意見を代表してくださったボルドー様の計らいも、そしてエミリア様を見ることとなるであろう国民たちの感情の問題も」

 威圧するようなボルドーの物言いをさらりと受け止め、その上でロズワールは指を立てると、

「しーぃかーぁしーぃ、お忘れではないですか。ボルドー様が問題にしている部分はこと王選に関してはなんの意味も持たないことを」

「……どういう意味だ?」

「奇しくも、最初にプリシラ様が仰っていたじゃーぁないですか。形だけでも五人の候補者が揃えば王選が始まる、と。王選が始まりさえすれば、あとは竜歴石の条文に従って粛々と進めるのみ。そーぅじゃあーぁりませんか」

 ロズワールは身を乗り出してボルドーの視線から逃れると、その話の水を壇上の賢人会へ向ける。それを受け、マイクロトフは細めた片目をつむり、

「ふぅむ、つまり御身はこう言うわけですかな。エミリア様は竜殊に選ばれた存在であるという一点が重要であり、実際に王位に就く資格があるかは問題ではない、と」

「そーぉのとおりです。私は一刻も早く、王選を始めて終わらせて、国を元の正常な状態に戻したい。そうでなきゃ、私が道楽を楽しむ余裕も持てませんからね」

 あっさりと、エミリアの王位に就く可能性を切り捨ててみせるロズワール。その発言には先ほどの暴言を越えた衝撃があり、スバルは怒りを覚えるよりもまず先に呆然とするしかない。
 あれほどまでにエミリアが王を目指して努力しているのを知っていながら、その後援者たる男がなにを口にするのかと。

 唖然と言葉を作ることもできないスバルを置き去りに、ロズワールは立てた指を楽しげに振りながらさらに続ける。

「当て馬、というのも言い方が悪いですが、ひとつそーぉんな感じで考えてみてはいかがでしょう。エミリア様の容姿は、えーぇそれはそれは特徴的ですとも。彼女を見て『嫉妬の魔女』を連想しない人間はそうそういないでしょう。そーぉれはつまり、我々からすればわかりやすいことこの上ない盤上の駒となり得る」

「五人の候補者からなる王選を、実質的に四人の争いにしようというのか」

「選択肢が少なくなる方が分裂する可能性は減ると思いませんか? ましてや王不在によって揺れる国政、他国からの内政干渉の可能性すら危ぶまれる。それなーぁらば、危険を減らす方策をこちらで練るべきでは?」

 ロズワールの提案に思案顔のボルドー。他の賢人会の老人たちも、「それならば」と口にする姿はその提案に少なからず乗り気な様子だ。
 エミリアを他の候補者の当て馬として抜擢し、王選を実質的な出来レースにしてまとめてしまおうという魂胆。

 メリットとデメリットを比較して、どちらに天秤が傾くと判断したのか。
 もっとも強固に反対の姿勢を貫いていたボルドーが、その強面に理解の色を浮かべながら頷くと、

「わかった、いいだろう。先の反対は取り下げる。卿の推薦通りにことを――」
「ふざけてんじゃねぇ――!!」

 怒声が広間に響き渡り、反響するそれを皮切りにしんと室内が静まり返る。
 静寂が落ちた室内にゆいいつ残った音は、怒声を放った少年の荒い息遣いのみ。

 全員からの注視を受けながら、少年――スバルは怒りに顔を赤くして、悪巧みの同意に達しようとしたロズワールとボルドーの二人を睨みつける。
 その視線を受けてロズワールは片目をつむり、黄色の瞳だけでスバルを見ると、

「おーぉやおや、場が見えていないのかな? 今は君のような立場の人間が口を挟んでいい場面じゃーぁない。謝罪して、退室したまえ」

「俺の意見は伝えたぞ、ふざけんな。そんで続く言葉はこうだ。謝るのはお前らの方だってな」

「ますます驚きだ。――命がいらないだなんて」

 黄色の瞳を閉じて、代わりに青だけの瞳でロズワールがスバルを射抜く。
 普段の飄々とした雰囲気がその佇まいから抜け、代わりに彼を取り巻くのは見るものに戦慄を抱かせる圧倒的なまでの鬼気。ロズワールの周囲の大気が歪んでいるように錯覚するそれは、おそらくは彼の持つマナの膨大さが原因だ。

 その圧倒的な存在を眼前にしながら、歯噛みするスバルの脳裏を大火が過る。
 魔獣の森でロズワールが腕を振るい、あれほどスバルが苦戦したジャガーノートを一瞬にして黒焦げにしてみせた光景が思い出された。群れすらも、彼の前では赤子の手をひねるが如き容易さで殲滅されたと聞く。

 以前の彼の魔力行使の精密さを思えば、この場からスバルのみを選んで蒸発させることなどそれ以上の気安さで行われることだろう。
 スバルと彼の間にはそれなりの信頼関係があったはずだが――ことこの場面においては、その情に期待することはできないし、していない。
 これまでの信頼を先に裏切ってきたのは、他ならぬロズワールなのだから。

「まとまりかけたところにこの無礼だ。もう一度だけ、這いつくばって許しを乞うならば機会を与えよう。どーぅかな、ナツキ・スバル」

 膨れ上がる剣呑な敵意の奔流を受け、スバルの膝が盛大に笑う。指先に震えが伝染し、噛みしめて堪えていなければ歯の根がカチカチと音を立ててしまいそうだ。
 心胆から震え上がるような感覚を覚え、今すぐにでもこの場から逃げ出したい。
 ――だが、

「い、言ったぜ、俺は。謝るのは俺じゃなくて、お前らの方だってな!」

 声が震えていたし、上擦ってもいた。
 だがしかし、それでもスバルは下を向くことだけはしなかった。

 エミリアがこの場にいるのだ。
 そして今、彼女の願いは虐げられようとしている。それを目前にしていて、折れることなどできようはずがない。
 この土壇場で裏切られてしまった彼女に、スバル以外の誰が味方してやれるというのか。彼女の種族、風貌、それらだけを見て悪しざまに語る連中を前に、誰がその防波堤になってやれるというのか。

 力がない。意思も弱い。だが、意地だけがあった。
 出どころの知れないわけのわからない力だけがスバルを突き動かし、踏みしめる二本の足の膝を屈するような真似だけはさせない。

 そんなスバルの力のない、ただひたすらに我を通すだけの意地を前にロズワールはそのオッドアイをかすかに細めて、

「いーぃだろう。力なくばなにも通すことができない。その意味を、身を持って知ってみるといい。来世ではそれを活かせることを願うとも」

 最後通牒が告げられた瞬間、溢れ出ていた力の奔流が形となって具現化する。
 生まれたのは広間全体を煌々と照らす極光をまとう火球だ。掲げたロズワールの掌の上に生まれた炎の塊は人の頭ほどの大きさだが、小規模の太陽を生じさせたようなその高熱は離れた位置に立つスバルの肌すらも軽く炙る。

 明白なまでの害意の具現、臨戦態勢に入ったロズワールを前にボルドーを始め、比較的近くに立っていた候補者たちが身構える。ボルドーは厳つい顔を怒りに歪め、候補者たちはそれぞれの騎士の背中側へ。
 そして、ただひとり騎士を侍らせていないエミリアは、

「待って、ロズワール。それじゃ話が……」

 困惑と焦燥の二つで紫紺の瞳を揺らめかせ、対峙するロズワールとスバルの二人を交互に見やる。ロズワールを見る目には困惑が、そしてスバルを見つめる彼女の瞳には――、

「えみ……」

「火のマナ最上級の火力を見せてあげよう。――アルゴーア」

 酷薄に言い捨てて、ロズワールの掌がスバルの方へと向けられる。
 即ち、それは掌中にあった火球を投じる動きだ。火球はゆっくりと、しかし確実にスバルの身を焼き尽くさんと迫りくる。
 それを眼前に、スバルはとっさに体を横に飛ばして回避行動をとろうと思考。だが、肝心の体はスバルのその思考にちっともついてこない。足が震えているからか、恐怖で体が竦んでいるからか。

 否、どちらも否。
 意思が下半身に伝わっていないのではない。意思が加速しすぎて、その伝達速度に体がついてきていないのだ。

 視界が異常なまでにゆっくりになり、スバルは目前に『死』が口を開けて迫ってきているのを肌で感じ取る。
 久々の感覚、それをロズワールに向けられる可能性など、二度目のループの折でも最後まで勘弁願いたかった記憶だ。

 意識が現実を置き去りにし、眼球を動かすことすら叶わない。
 故にスバルの視界に残っているのは、眼前に迫る火球を除けば、目の端でこちらに向かって手を伸ばしているエミリアの姿それのみ。
 その表情に確かな焦燥があるのを見て、スバルは場違いな安堵感を得る。

 自らの命が脅かされている状況で、それを好意を寄せる少女が危ぶんで見ていてくれている。――その事実に安堵を得てしまうことがどれほど異常なのか、今のスバルには意識する時間すら与えられない。
 そして結果的に、

『力がなければなにも通すことができない。なるほど、いい言葉だね。ああ、まったくもってその通りだと、ボクも肯定するところだよ』

 響いたその声は聞き慣れたものでありながら、しかし聞き慣れた気安さを失ってスバルの鼓膜をゆるやかに叩いた。

 火球が衝突する瞬間、目前に迫る赤熱の死を前にスバルは瞬きすら忘れた。
 それ故にスバルの目は目の前で起きた出来事を余すところなく見届けていた。

 火球は衝突の瞬間、スバルを焼き尽くさんとそのその四肢をこちらの体を包み込むように伸ばした。刹那、先んじてスバルの全身を覆うように青白い輝きが展開、それは人体を一瞬で蒸発させるような熱量に対し、真っ向から火力を競い――結果、白い蒸気だけを残して相殺せしめてみせたのだ。

 そのあり得ない人外の技量、その行いをあっさりとやってのけた存在はスバルの正面、目線の高さの宙を漂い、

『ニンゲン風情がボクの娘を目の前に、言いたい放題してくれたものだ』

 腕を組み、桃色の鼻を小さく鳴らして――灰色の体毛の小猫が、その黒目がちの瞳をかつてないほど冷たい感情で凍らせて言い放った。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 突然のその存在の出現に、広間中の全ての人間が言葉を失っていた。

 宙に浮き、周囲を睥睨するのは掌に乗るサイズの手乗り小猫型精霊パックだ。
 普段のとぼけた態度、のほほんとした喋り方、どこまでもマイペースな性格、そんな彼の顔を知っていればいるほど、今の彼の姿には驚きを隠せない。

 そうして驚くスバルとは別に、初めて彼の姿を目にする人々の間にも動揺が広がっているのがわかった。
 彼らが問題としているのは、スバルの驚きとはまったく違う部分にある。
 それは――、

「ロズワール辺境伯の魔法を真っ向から相殺しただと……?」
「それもあの短時間で、無詠唱に近い状況で?」
「それ以前に、あの凝縮されたマナはいったい……可視できるものは真っ直ぐに見てはならん! 呑まれるぞ!」

 近衛騎士のひとりが警戒を呼び掛け、ふらつく同僚の肩を支える。
 見れば同様の反応は文官たちの中にも数名が見られ、そのいずれもが宙を浮遊するパックを恐怖するような目で見つめている。

「――は? え? なに?」

 そんな彼らの反応がスバルには理解できない。
 眼前にいるのはパックだ。灰色の小猫。確かに普段と雰囲気こそ違う気はするが、騎士たちが揃って最大級の警戒心を燃やすような変化はない。
 ジッと見つめていたところで、彼らが口にしているような体調不良が起こる要素など欠片も見出すことができないだろう。

 困惑を隠せないスバル。そんなスバルの戸惑いを余所に、パックは彼を知るものからすれば信じられないほど尊大に「ふん」と吐き捨て、

『わかっていないようだね、ロズワール・L・メイザース。以前にボクが君に対して譲歩してみせたのは、あくまでボクの娘がそれを望んだからだ。それさえなければこの国ごと、ボクは永久凍土の底に沈めてしまってもかまわなかったというのに』

 言いながら、パックの周囲をふいに風が巻き始める。
 それは肌に痛みを与えるほどの冷気を伴う風であり、パックの周囲だけを取り巻いていたそれは次第に広間全体へ広がり、列席する全ての人間にその冷気を存分に浴びせかける。自然、混乱が会場を埋め尽くし始める中、

「――お気を鎮めてくださいませんか、大精霊様」

 壇上から事態の原因であるパックに向かって、しわがれた声が放たれる。
 声の主はマイクロトフだ。賢人会の面々にも少なからず動揺が広がる中、中央の席でひとりだけ姿勢を変えずに構える彼は理知的な輝きを瞳に灯し、

「これほどの力に、保有する濃密なマナ。さぞや名のある大精霊様とお見受けいたしますが」

『なんだ。少しは礼儀のわかる若造もいるじゃないか』

「ふぅむ。この歳で若造扱いされるなど、貴重な体験をさせていただいておりますな」

 片眉を持ち上げるような仕草のパックに、マイクロトフは小さく笑って応じる。そんな老人の態度がお気に召したのか、パックは尊大な態度を崩さぬまま頷き、

『ボクがどんな存在なのかについては、残念ながらボクより君たちの方が詳しいんじゃないかな。ボクはただ、長い時間を存在してきただけの精霊に過ぎない。そのボクをなんと呼んでいたのかは、そちらの勝手だ』

「なるほど、道理ですな」

 パックの答えにマイクロトフがヒゲを撫でながら頷き、それから老人は沈黙を守っていたロズワールの方へと視線を向ける。その視線を受け、自らの魔法を無効化されて以来、口を閉ざしていたロズワールが肩をすくめて、

「先のエミリア様との出会いの話にさかのぼります。私が彼女と出会ったのは、ルグニカの王都よりはるか東――エリオール大森林。通称『氷の森』でした」

「エリオール大森林……!」

 ロズワールが口にした地名に、複数名の驚きが重なる。
 その驚きがまさに想定通りだったとばかりにロズワールは頷いてみせ、

「そーぅ、エリオール大森林。約百余年前に突如として氷に覆われ、出るものも入るものも拒んだとされる氷結の結界。そして、侵食する永久凍土」

「確か凍てつく風が周囲を時間をかけて凍らせてゆき、その凍土とした範囲を年々拡大しているという曰くつきの地のはずでしたな」

「凍りついた大地、植物、大気、生き物――それはつーぅまり、白い終焉ですよ。なにもかもが永遠に誘われ、そーぉのまま永久の眠りより戻ってはこれない」

 手を叩き、ロズワールは開いた手でエミリアを、パックを示し、

「その氷の森の奥地で、ひっそりと暮らしていたのが彼の二人というわーぁけです」

「つまりエリオール大森林の永久凍土は……」

『ボクの仕業というわけだね。もっとも、ボクはただ住みよいようにしていただけなんだけど』

 驚嘆を隠せないマイクロトフに対し、パックは悪びれない様子でそう答える。
 イマイチ件の土地に縁のないスバルには想像し難い話であったが、周囲の反応を見るにかなり大きな話になっているのは間違いない。
 スバルの暴言があった事実など、すでにどこへなりと置き去りにされている勢いだ。

 そのパックの答えにマイクロトフは難しい顔で小さくうなり、

「ふぅむ。エリオール大森林をあの状態にするほどの力――その強大さは、お伽噺に残るいずれの精霊と比較しても引けをとりませんな」

『それだけ恐ろしい、でしょ?』

 賞賛に近い言葉を投げかけながらも、その内心はどうあったのか。そのあたりを先読みして言葉にしてみせたパックにマイクロトフは瞑目。
 それから彼は納得の感情をその細めた瞳に宿しながらロズワールを見下ろし、

「ふぅむ、なるほど。おおよそ理解が及びました。そのエリオール大森林の奥地で暮らしていたお二人と接触したのは、どういった理由ですかな?」

「調査の一環、ですねぇ。エリオール大森林は私の領地にもほど近い場所でしたから、数年以内に凍土化の影響を受けかねない。そうなる前に事前調査を」

 二度ほど失敗しましたが、とロズワールは指を二本立てて己の失態に苦笑。それからきりりと表情を引き締め直し、

「三度目の挑戦で森を抜けて、そこでお二人に出会いました。最初は問答無用に攻撃されまして……いーぃやぁ、焦りました焦りました」

『森を抜けてきた人間は久々だったからね。少しばかり、歓迎が激しくなりすぎたかもしれない』

 互いに気安い様子でそのときを振り返るが、広間の全員がそれを笑えない。
 つまりは先ほどの魔法戦を児戯と笑い飛ばしてしまえるような戦闘が、その際に二人の間で交わされたということに他ならないからだ。

「森の地形が変わりかける歓迎にはゾッとしましたが、私がそれ以上にゾッとしたのはそのあとのことでした。私に向かって容赦なく襲いかかってきた超越者たる精霊が、たったひとりの少女の言葉を聞き届けて矛を収めたからです」

 さらりと地形が変わりかけた、などと聞き捨てならないことを言い放ち、ロズワールは神妙な顔つきでエミリアの方を手で指し示す。
 依然、沈黙を守り続ける彼女はわずかに顔を俯かせ、ロズワールの言葉を聞いているのかいないのか、紫紺の瞳の輝きは亡としており掴みどころがない。

 その態度にかすかな違和感をスバルは覚えたが、それを追及する時間は当然用意されていない。ロズワールの言葉を引き継ぐようにパックが身を回し、

『契約者たる可愛い娘の嘆願だ。なにを置いても聞き届けるとも。逆を言えば、ボクはボクの意思以外にはリアにしか従わない』

 言い切り、それからパックは『だから』と言葉を継いで広間を見渡す。その黒い瞳の視線を受けて射竦められたように身を縮める人々の中、パックの視線は最後にボルドーの方へ固定される。にやり、とそんな擬音が似合いそうな笑みをパックが作り、

『不愉快な君たちがこの場で氷漬けにならないことをリアに感謝するといい。さっきからこの子がボクを引き止めていなければ、ここは今頃氷像の間だ』

 淡々と紡がれる言葉は底冷えするような冷気を伴い、広間の全員の心胆に冷たいものを差し込んでいく。
 彼の言葉が決して虚実でないことは、すでにロズワールとの攻防で証明されている。この場の全員が一体の精霊に命を握られている事実――誰かが息を呑む音がやけに大きく聞こえる。
 そんな中だったからこそ、

「――ほっほっほ」

 と、小さく声を漏らして笑うマイクロトフの姿はあまりに場違いであった。
 笑う彼にパックは静かな目を向け、その冷気を伴う視線を老体に集中させる。が、マイクロトフはそれを真っ向から見つめ返し、

「なるほど、心胆が縮み上がる思いですな。――あのロズワールにしては、面白い趣向を凝らしたものだと言っておきましょう」

 絶対零度の視線を受けながらも、マイクロトフの余裕の態度は崩れない。その上で意味のわからない発言、だがそれを聞いたロズワールの表情がにわかに変わる。
 先ほどまでの真剣な表情から一転、普段のとぼけた様子を取り戻した顔つきで、

「ありゃーぁ、ばーぁれちゃいました?」

「それなりによくできた台本だったと評しますな。大精霊様の演技には言葉もありませんが、少々、御身が調子に乗りすぎましたか」

 困惑する周囲を置き去りに、マイクロトフの評価にロズワールが額を叩く。そんな二人のやり取りを見ながら、浮遊するパックは持ち上げた長い尾を手でいじりながら、

『ほら見なよ、ロズワール。やっぱりやりすぎは良くないって言ったろう? ボクはともかく、君の場合は普段のキャラがみんなに知れ渡ってるんだから、演技するにしてももっとうまくやらなきゃ』

「耳が痛いいたーぁいですよ。そーぉれなりに自信あったのに傷付いちゃうなーぁ、もう」

 頬を膨らませて不満を表現するロズワール。それをパックが吐息で流し、マイクロトフも疲れたように瞑目して無言の対応。
 それら三者だけが納得する姿勢に待ったをかけたのは、最後にパックからひやりとくるような視線を浴びせられた禿頭の老人――ボルドーだ。彼はその強面にわかりやすい困惑を皺で刻みながら、

「ま、待たれよ、マイクロトフ殿。いったい、なんの話をしておられる?」

「ふぅむ、一言でまとめるなら簡単な話――今こそが、エミリア様陣営の演説の形というわけですよ。それまでの候補者の方々とは趣が大きく異なりましたが」

 マイクロトフが片目をつむってロズワールに同意を求めると、ロズワールも両手を降参するように掲げて「えーぇ」と語尾を伸ばして認める。
 その答えにとっさにボルドーは合点に至れない様子だったが、傍でそれを聞いていたスバルは答えに辿り着く。同時に、目の前に立っている藍色の長髪の底意地の悪さに本気で腸が煮え繰り返る思いだった。

 つまりロズワールは今のやり取りで、

「王国の筆頭魔術師であるロズワール殿。その彼と対等以上に渡り合える力を持つ大精霊。それを従えるエミリア様という図式を見せつけることで、彼女にそれなり以上の力量があることをこの場の全員に見せつけた。――筋書きを整理してみると、こんなところで間違いありませんかな?」

 一から十まで懇切丁寧に説明してみせるマイクロトフの言葉に、ようやくといった形で広間に納得の感情が広がる。そうして今までのやり取りがある種の演技であると全員が納得したところで、続いてわき上がるのはロズワールの姦計に対する賞賛――ではなく、その人心を弄ぶような行為に対する怒気めいた感情が多かった。
 かくいうスバルの胸中をふつふつと焼き尽くすのも、その感情に近い。

「今のが演技……演技だと!? なれば此度の一幕は全て仕組まれた茶番か! ロズワール、貴様、この場をなんだと心得ている!?」

 とりわけ激情に顔を赤くするのは、この場でもっとも恥をかかされた立場に近いボルドーだ。老人は額に青筋を浮かべつつも顔を真っ赤にし、明らかに心臓に負荷をかけながら唾を飛ばしそうな勢いでロズワールに詰め寄る。
 が、その勢いをせき止めたのは、ボルドーの顔のすぐ目の前に出現したパックだ。ボルドーは眼前に毛玉が現れ、それが先の冷気の根源だと気付くとすぐさま口を閉ざし、なにを言うべきか言いあぐねるように無音のまま口を開閉させる。

 パックはそんなボルドーの反応を見下ろしながら、小気味よく笑って、

『うんうん、怒るのは当然だ。謝るよ、謝罪するさ。許してね、ごめんね、ボクが悪かったよ。――でも、さっき言ったことは全部本当だよ』

 謝罪を口にしながらも、付け加える一言でボルドーの心臓を高鳴らせるパック。小猫は浮遊の高度を高めながらくるくると横に回り、

『あの大森林はボクの庭だし、ロズワールじゃボクの相手には荷が重いのも本当。ボクがこうしてなにもしないでただ存在するのはリアのお願いのおかげだし、リアの悪口を言う君たちになにもしないのもあの子の優しさのおかげだ』

 ゆっくりと言い含めるように言葉を作り、それから最後にパックは愛らしく微笑み、『誤解しないでほしい』と前置きして、

『――今、君たちが凍りついていないのはエミリアの温情だ。それを忘れないでね』

 言い残し、パックの姿がふいに輪郭を失い、光の粒子となって消失する。
 緑の光を帯びた粒子はきらめきながら宙を漂い、それはゆっくりとエミリアの方へ。そのまま彼女の懐へと向かい、刹那のあとには視界から消え去っていた。
 おそらく、エミリアの懐の中にあるパックの依り代――緑色の結晶石へと戻っていったのだろう。

 パックが戻った途端、かすかにエミリアの頭が揺れ、それから彼女の視界に光が戻ってくる。亡としていた原因はどうやら、今のパックの顕現の影響だったらしい。
 彼女は幾度か瞬きし、周囲を確かめるように視線だけを回遊させ、

「ロズワール、状況は?」

「概ねは良好です。本音を言えば、大精霊様で最後まで引っ張るのが理想でしたが……さーぁすがにマイクロトフ様を最後まで欺くのは難しかったようで」

 ロズワールの答えを受けて、エミリアは「そう」と小さく応じるのみ。そのまま広間を見渡す彼女の視線が、ちょうど背後に立つ形だったスバルを捉える。
 アメジストの輝きはスバルを見つめ、そこになにがしかの感情を生み出して儚げに揺れる。とっさにスバルは言葉を作りかけたが、なにを言うべきかわからないままその輝きに魅入られ、結果として会話を交わす機会を逸してしまった。

 置き去りのスバル。そのままエミリアは前に出て賢人会に向き直ると、

「まずは欺くような行為をした非礼を謝罪します、賢人会の皆様」

「いえいえ、見抜けなんだはこちらの落ち度。少しばかり、老骨が蛮勇を振るって大精霊様の温情に与っただけのことです。それに事は王選に関わる……使える手立ては全て用いて、己を訴えかけねばなりませんからな」

 腰を折るエミリアの謝罪に対し、マイクロトフが器の大きさを示して頷く。その答えにエミリアは幾許か安堵したように唇をゆるめたが、そこに水を刺すのは先ほどから面白くない目にばかり遭っている別の老人だ。

「使える手立て……? その果てが今の脅迫とあっては、さすがの半魔としか言いようがないがな」

「脅迫とは人聞きの悪い。持ち得る力量の程を見せただーぁけの話ですが?」

「それが示威行為以外のなんだと言える? 先の精霊の言葉を聞いたな? 精霊は『意に沿わないのならば氷漬けにする』とそう言ったのだ。国の重鎮が集まるこの場でその発言――国を寄越せ、とする簒奪者の脅迫とどう違う」

 たしなめるロズワールの言い返し、ボルドーは鼻息も荒く邪推を口にする。が、結果としてみればボルドーの言には一理あり、否定し切ることはできない。
 力を見せつける、という目的を果たすことはできた。だがそれは反面、武力をひとつのカードとして用いることができる、と他者に知らしめた結果に他ならない。

 それは無力である、無害である、と判断されるよりもよほど、王選のスタートラインに立とうとするエミリアにとって不利な起点になりかねない情報だ。

 そんな不利な状況に対し、エミリアは壇上に戻ったボルドーを見上げて口を開き、

「――そう、私はあなたたちを脅迫しています」

 はっきりと、向けられた邪推を真っ向から逆に肯定してみせた。
 息を呑み、二の句を継げなくなるボルドー。そんな老人を見上げたまま、エミリアはその眼差しの輝きを欠片も揺らがせることなく、

「改めて、栄誉ある賢人会の皆様に名乗ります。私の名前はエミリア。エリオール大森林の永久凍土の世界で長き時を過ごし、火のマナを司る大精霊パックを従える、銀色の髪のハーフエルフ。私を見て、森近くの集落の人々はこう呼びます」

 凛とした声音で歌うようにエミリアは言葉を紡ぐ。
 聞き入る聴衆の前で、ひとり舞台に立つ彼女は一度言葉を切り、それから数秒だけ瞑目してなにかを断ち切るように、

「凍てつく森に生きる、『氷結の魔女』と」

 魔女、その単語が出た瞬間に広間の空気がさっと変わる。
 誰もが彼女の風貌にそれを意識していながら、しかしあえて追及するまいとしていた世界最悪の災厄、その特徴そのままの姿。

 誰も彼女に答えることができない。威勢のいいことを口にするだけのボルドーはもちろん、他の賢人会のお歴々も同様だ。ただひとり、その胆力の作り方からして違うと言わざるを得ないマイクロトフを除いては。

「力を示し、要求を告げる。まさしく魔女の在り様ですな。――では、その氷結の魔女殿は我々になにを脅迫なさるおつもりですかな」

「私の要求はたったひとつだけよ。――ただ、公平であることを」

「……公平」

 質問に静かに応じるエミリアに、マイクロトフは口の中でその要求を繰り返す。エミリアは「そう」とその呟きに首肯で理解を示し、

「ハーフエルフであることも、自分の見た目が忌まわしい魔女と同じ特徴を持っていることも、全ては変えられない。それが理由で誰しもに偏見の目で見られることも同じ。でも、それで可能性の目を全て摘み取られるのは断固として拒否します」

「つまりエミリア様。御身はこの王選に対し、一候補者として対等に扱えと、そうお望みになるわけですか」

「公平であることは、私の生涯においてひどく貴重なこと。この場でそれ以上を求めることは、私が尊く思う公平さに対する侮辱に他ならない」

 彼女の過ごしてきた日々の中で、悪意にされされた記憶はどれほど多いのだろう。
 ボルドーのように謂れのない罵声を浴びせられることも、ハーフエルフであるという一点だけで迫害されたことも、きっとあったに違いない。
 故に、彼女はただひたすらに、公平な目で扱われることをこの場で望む。

 振り返る。銀色の髪がその動きに伴って流れ、広間に青ざめた月の色のきらめきが走る。誰もがその輝きに魅せられる中、エミリアは声を大きくして、

「だから私があなたたちに求めることはたったひとつ、公平に扱ってもらうこと。契約した精霊を盾に、王座を奪い取ろうだなんて公平さを欠く行いは絶対にしない」

 その選択を、選ぼうと思えばエミリアは選ぶことができるのだ。
 だが、そんな選択肢は端から消してかかり、あえて己の意図したところにとっては不利になるかもしれない状況を望んでいる。
 なぜなら、

「私は、他の候補者に比べても足りないところばかりの未熟な存在です。知らないことばかりだし、学ばなければいけないことは山のようにある。それでも、目指すべき頂がわかっているから、努力を欠かそうとは思わない」

 屋敷で勉学に励み、あらゆることに真剣に取り込む彼女をスバルは見てきた。
 だからこの場で誰よりスバルだけは、彼女の言葉の真実たることを知っている。

 震えが隠せない。スバルは喉が渇いているのに、瞳が潤み始めている不可思議な状況を自覚し、自分の情けない呻きが漏れないように必死だった。

「私の努力が王座に見合うかはわかりません。でも、そうあれるようにと努力し続ける気持ちは本物です。その思いだけは、他の候補者にだって負けたりしない」

 だから、と彼女は言葉を継ぎ、壇上のボルドーを真っ直ぐに見上げて、

「公平な目で、私を見てください。家名のない、ただのエミリアを。『氷結の魔女』でもなければ、銀の髪のハーフエルフでもない。私を、見てください」

 最後の呟きは懇願のような響きを伴っていた。
 しかし、そこに込められた意思の強さは、気持ちの強さは決して揺るがない。

 他の候補者に当たり前に与えられたそれを、エミリアは自分にも求めている。
 同じスタート地点に立つことを、そこから走り出す機会を与えられることを。

 しばし、沈黙が広間を包み込んでいた。
 言葉を生み出すことができないのではない。エミリアの問いかけに対し、答えが出るのを全員が身を固くして待っているのだ。
 やがて、全員からの注視を受けていたボルドーが長い長い吐息をこぼし、

「私の意見は決して変わらん。『嫉妬の魔女』を思わせる、そなたの外見が国民に悪影響を及ぼすのは間違いない。王選に関して、不利な立場にあることは依然同じだ」

 低い声で、これまでのエミリアの主張に真っ向から異を唱える。その答えにエミリアの紫紺の瞳がかすかに陰りを帯びる。

「だが――」

 が、

「人心にまで干渉することは何者にも許されない領域だ。故に、そなたがどう思われるかをどうにかしてやることはできない。それでも、先ほどの私の非礼は詫びよう。――否、非礼を謝罪いたします、エミリア様」

 席を立ち、その場に膝を折って、敬意を示す最敬礼をとって見せるボルドー。
 その行いに驚きが拡散する。その中で彼は顔を上げ、

「あなたは意に沿わぬ私を氷漬けにすることができた。にも関わらず、それをなさらずに公平さを求めた。――それは、尊い行いだ」

 穏やかな顔つきでそう語る彼の表情は理知的で、今さらながらにこの老人が賢人会とされる国の重鎮であるのだとスバルは納得する。
 エミリアの表情から陰りが失われ、自然と認められた喜びが表情を明るくする。唇が弧を描き、花が咲いたような微笑が生まれる。

 斜め横からしかそれを目撃できなかったスバルは、正面からその微笑みと相対することになったボルドーが息を呑んだのを見て、内心で「ガッデム頑固ジジイ!」と中指を立てる。その内心の罵声が届いたわけではないだろうが、ボルドーは自身の硬直を誤魔化すように咳払いすると、

「い、いずれにせよ、真の意味での公平さを求めることは難しい。苦難の道が続くことはわかりきっている。それでもなお、王位を望まれるのか」

「平坦な道のりじゃないことなんて、最初のときからわかってる。それでも、私は必ず王座に座る。そうしなきゃいけない理由が、あるから」

 覚悟を問うボルドーの言葉に、エミリアはもはや迷いのない声で応じた。
 その答えを聞いてボルドーは満足げに頷くと席に戻り、視線を向けてくるマイクロトフに全てを預けるとばかりに掌を差し向けた。それを受け、マイクロトフは長いヒゲを梳きながらうんうんと頷き、

「少々、波乱含みとなりましたが、もう十分といえるでしょう。エミリア様もロズワール辺境伯も、語り残したことはありませんな」

「はい」
「わーぁたしの場合は本当はまだまだ喋り足りないんだけど、この場合……」

「では、ありがとうございました」

 短く答えたエミリア。一方でまだくっちゃべっていたロズワールの言葉を、絶妙なタイミングでマーコスが遮って強制終了。
 不満げに唇を尖らせる長身の背をエミリアが軽く叩き、二人も候補者の列へと身を戻そうとする。
 だがしかし、そうは問屋が下ろさなかった。

「して、そちらの御仁はどういった立場になるのですかな?」

 列に戻ろうとエミリアたちが踏み出そうとした瞬間、その問いかけはマイクロトフの口から発せられていた。
 老人は眉を片方持ち上げ、意地悪げな輝きを瞳に宿して、視線をその御仁――つまるところ、前に出てしまった挙句に所在のないスバルに向けていた。

「うぇげっ」

 思わずそんな呻き声が漏れてしまったのも仕方がないと思ってもらいたい。
 なにせ、激情に駆られて前に飛び出したにも関わらず、その後のやり取りについていくこともできずに舞台上でおろおろしていただけの観客役がスバルだったのだ。
 所々で「ええ!」とか「おお!」とか「EMM!」とか合いの手をこっそり入れていたものの、大勢に影響を与えない意味では空気と変わらない。

 できればそのまま空気と一緒に流されて視界から消える展開が望みだったにも関わらず、まんまと老人の好奇心によって再びスポットライトを浴びてしまった。
 しかもどうやら、

「このまま、ロズワール辺境伯の思惑通りに進むのも癪ですからな」

 こっそりと呟いたつもりなのだろうが、なぜか今のスバルにははっきりマイクロトフがそうこぼすのが聞こえた。
 つまりはさっきのお芝居の仕返しが、巡り巡ってスバルにきたのだ。とばっちりもいいところであったが、自分の短慮さが招いた事態と思うとなんとも心苦しい。

「あ、えっと、その、この子はその、私の……」

 振り返り、こちらの前に回り込んだエミリアが賢人の視界からスバルを隠すように身振り手振りをしてみせる。
 あたふたと、先ほどまでの凛とした態度はどこへいったやら、そこには日常に見かけるスバルのよく知るエミリアという少女が戻ってきてくれていた。

 そのことになんとも言葉にし難い安堵感を得てしまい、スバルの頬が空気の読めないタイミングでゆるむ。そして、そんなときに限ってエミリアもスバルの顔を横目にしていたりなんかして、

「違うんです。ええっと、この人はですね……ちょっと、なんでにやにやしてるの。そんな場合じゃないでしょ、しゃんといい子にしてて」

「しゃんとしててってきょうび聞かねぇな……」

 スバルをたしなめるエミリアの言葉尻を拾うと、エミリアが不満そうな目をこちらに向けてくる。そんな責めるような視線すら魅力的で、スバルは小さく笑みをこぼすと彼女の肩に触れて、

「いいよ、エミリアたん。――俺も言い訳はしねぇ」

「言い訳とか、そんな場面じゃ……スバル、なにする気? ねえ、ちょっと」

 呼びかける声を背後に、スバルはずんずんと前へ踏み出す。
 そして、これまで候補者たちが立ってきた場所に堂々と踏み込み、壇上に立つ賢人会の視線を一身に浴びながら、歯を噛んで気合いを入れて顔を上げた。

「はじめまして、賢人会の皆々様、ご機嫌麗しゅう。この度は、大変なご迷惑をおかけいたしまして誠に申し訳なく思い候!」

 腰を落とし、右手を背中へ、左手を掌を上にして前へ出し、古式的な礼法に則る。日本古来に伝わる礼儀作法「お控えなすって」の異世界仕様だ。
 誰からの注意も入らないのをしばし沈黙を作って確認し、それからスバルはファーストコンタクトの成立を確信、そのまま流れるような動きで手足を動かす。

 足のスタンスを広げ、腰の角度を傾け、左手は傾けた腰に、右手は高く天井を指差すようにして華麗にポージング。
 そして、

「俺の名前はナツキ・スバル! ロズワール邸の下男にして、こちらにおわす王候補――エミリア様の一の騎士!」

 叫び、それから掲げていた右手を下ろして指を鳴らし、歯を光らせてウィンクを決めながら、

「どうぞ、お見知りおきをば、よしなに」

 己の立ち位置をはっきりとさせるために、場違いなスバルの参戦が始まる。
 空気は先ほどのパックの出現のときを越えて、急速に冷え込んでいくのを感じながら。


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