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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第三章 再来の王都

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第三章13 『同郷』



 床にへたり込んだスバルは、自分の超悪運の強さを実感していた。

 見つからないのがベストの展開だったとはいえ、見つかった相手が顔見知りであったというのはひとつの僥倖だ。おまけにその相手が昨日に知り合ったばかりの二人組だというのだから、人生というものはわからない。
 昨日の彼女らとの邂逅はつまり、この場をスバルが切り抜けるために存在したイベントだったといっても過言ではない。

「と、そのあたりの運命のご意思を尊重してここはひとつ穏便に――」

 正座の姿勢から深々と腰を折り、両手を八の字に地面に置いて頭頂部を床にそっと叩きつける。無防備・無様・無力と無の三連星を標榜し、相手に絶対の哀れみを覚えさせる大日本帝国古来から伝わるDOGEZA戦法だ。

 我に返り、事態を切り抜けたわけではないことに頭が追いついたスバルが選んだ選択が、このわかりやすいまでの平謝りであった。
 他の選択としては強硬突破や狂ったふりをして踊りまくってお茶を濁すなどもあったのだが、前者も後者もバッサリいかれる未来が幻視できたので即却下。もっとも生存率が高そうな選択に至り、こうして相手の温情に縋っているところである。

「――――」

 無言の時間が続き、土下座の姿勢のスバルの両肩に圧迫感がのしかかる。その重圧に耐えかねて、ちらと上を仰ぎ見るスバル。
 その様子をうかがう視界いっぱいに、小さな靴裏が広がり――、

「つまらん奴じゃな」

「かふかっ」

 退屈そうな一言と連れ立って、前蹴りがスバルの顔面に浴びせられていた。
 手加減やらなんやらがあったと思えない勢いに、座っていたスバルの首が後ろへ。そのまま後頭部をクローゼットの戸に打ちつけ、痛みに涙目になる視界を離れない靴裏が踏みにじり続ける。
 その靴裏の持ち主である少女は、驚きに動けないスバルを足蹴にしたまま、

「王城に忍び込むような真似をするからどれほどの覚悟かと思えば……実にくだらん。謝罪など聞く耳持たぬわ。そも、謝るぐらいなら最初からするな」

 侮蔑と嘲弄の入り混じる言葉を投げ、少女は尖った踵でスバルの頬を抉り続ける。鋭い痛みに呻き、スバルはとっさにその足を払いのけようとするが、

「動くなよ、アホ。姫さんが直接やってんのは優しさだ。お前、オレの方の尋問がお好みか? 手先不器用だから天然で痛ぇぞ」

 動こうとした喉に、音もなく抜かれた大剣の剣先が突きつけられていた。
 息を呑むスバルの眼前で、それを為した隻腕の男は聞きづらい声で物憂げに呟く。

 身幅の厚い刃はスバルの知識で言うならば、『青竜刀』と呼ばれる刀が近い。その分厚く大きな刀を片手で事もなげに扱うのだ。
 その技量はもちろん、無手で素人のスバルが太刀打ちできるはずもあるまい。

 機先を制した動きを悟らせない玄人っぷりにスバルが声も出ない中、いまだスバルに足をかけたままの少女が隣の従者を見上げ、

「こら、アル。貴様、妾の足のすぐ近くにそんな危険物を出すでない。妾の玉の肌に傷でもついたらこの世の損失じゃぞ」

「安心しろや、姫さん。オレぁできねぇことはやらねぇ主義だ。ましてや姫さんは恩人だ。超強化泥船にでも乗った気でいてくれ」

 目の前の主従のやり取りに神経を尖らせたまま、スバルは少なくとも現状で動くのは賢くないと判断する。とはいえ、このまま状況を見送っても碌なことにはならないのも事実。どこかで、切っ掛けを掴まなくてはならないが――、

「泥船じゃ沈むだろうが……大船に、乗せろ……」

 絞り出すように、スバルは聞こえた違和感に命懸けで言及する。
 その言葉にゆっくりと首を動かしたのは橙色の少女だ。彼女は足蹴にされたスバルが自分の許しなく発言したことに片目をつぶり、

「妾の沙汰を待つ身で、妾の許可なく喋るとはいい度胸じゃな。いいじゃろう、そこまで命が惜しくないというなら――」

「ちょいタンマだ、姫さん。今、なんてったよ、ガキ」

 残酷な宣言を告げようとした主を止めて、身を傾けるアルがスバルに問いかける。従者の無礼はそれこそ少女の癇に障った様子だったが、スバルを注視する彼はそれに気付かない。
 アルは漆黒の兜の中、外からは見えない双眸でスバルをジッと見て、

「昨日、ちらっと見たときからそんな気はしてたんだが……おい、ガキ」

 少女の足に頬を抉られたまま、スバルは自由になる半眼でアルを見上げる。その態度に、スバルは自分の考えが的外れでもなかったのだと判断。
 互いに視線を交錯したまま、スバルは息を呑んでアルの言葉を待つ。そして、

「風が吹けば――」

「……? お、桶屋が儲かる?」

「来年の話をすると」

「鬼が笑う……!」

「笑う門には」

「――福来たる!」

 力強く言い切り、スバルはアルの顔を見上げ続ける。
 漆黒の兜の中で、その表情の変化はこちらには伝わらない。が、彼は首を横に振ると、隻腕の肩をすくめて、

「なるほど。やっぱそうか。こいつは参ったぜ」

「なんじゃ、貴様だけで納得しおって。妾にも説明せい。今のわけのわからんやり取りになんの意味がある?」

 納得した様子のアルに不満げなのは、この場に置いてけぼりの少女だ。
 彼女はアルの態度と、少なからずその彼と同じような感触を得た表情のスバルの方を交互に見やり、

「不敬に不敬を重ねられて、それを笑って許してやるほど妾は寛大ではない。故に心して答えよ。今のやり取りは、なんじゃ?」

「――しいて言うなら、互いの故郷の確認みたいな」

「それがなんだと……」

 低い声での問いかけに、スバルもまた同じような声色で応じる。少女はその答えの意味の通らなさに眉を寄せたが、すぐになにかに思い至ったように目を細め、

「――同郷か? アル」

「たぶん、な」

 もう一度、アルは肩をすくめる仕草で主の問いかけを肯定。
 それから彼は抜いた青竜刀を鞘に収めて、それから改めてスバルを見下ろし、

「聞きたいことがちっとばかし増えたな。そこんとこ、どうよ」

「……尋問ならカツ丼とかつけてくれっと嬉しいかなぁ、俺」

「オレはうな丼の方が好きだね。もっとも、どっちもこっちじゃ見ねぇけどな」

 そう、アルは声の調子だけで笑っていると判断できる音を立て、こちらに空いた手を差し出してきた。
 スバルはその手をしっかりと握り返し、

「人生、わかんねぇもんだな、実際」

 と、命拾いしたらしき心境に思わぬサプライズも合わせ、そうこぼしたのだった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「記憶喪失?」

 更衣室の床から立ち上がり、とりあえずの生存権を得たスバルが素っ頓狂な声でそう呟いていた。

 聞き返すその呟きに頷くのは漆黒の兜――アルだ。
 彼は隻腕で兜と軽装の繋ぎ目、首のうなじあたりを乱暴に掻きながら、

「いわゆるエピソードの記憶の欠落ってやつだな。物事の常識だとか、あれやこれやの固有名称やら、そういうもんの記憶ってのはなくなってねぇ。なのに、自分にまつわる部分だけすぽんと抜け落ちてるってわけだ。オーソドックスだろ?」

「ここぞとばかりに他人にカタカナ連発されると違和感あんな……俺もだいぶ異世界ファンタジーに染まってたってことか」

 同意を求めてくるアルに苦笑で応じながら、スバルは今しがた確かめたばかりの事実を改めて実感する。そう、つまり――、

「あんたは間違いなく、俺と同じで異世界召喚された存在ってわけだ」

「オレの持ち合わせてる常識と照らし合わせると、だけどな」

 そう言って肩を揺らす仕草――おそらく、笑っているのだろうと思う。
 そんなアルの態度は、先ほどまでのやり取りに比べると大きく軟化している。昨日の出会いと同等、いやそれ以上の親密さがそこからは感じ取れた。
 ある意味それは当然だ。なぜならスバルもまた、他人事ではない共感を彼に対して抱いてしまっているのだから。

「あんまり考えてなかったけど、俺って存在がある以上、俺みたいに召喚されてる人間がいてもおかしくないってわけだ。アルさんは他に誰か知ってんのか?」

「さん付けとか煩わしいからやめろよ、兄弟。こっちじゃアルで通ってっから、そのまま頼む。んで、他の同郷に関してだが」

 言い難そうに兜の位置を直し、アルはわずかに首を俯かせ、

「悪いが、他の奴は知らない。オレも同郷と会えたのはお前が初めてだ。正直、ひょっとしたらオレは自分が狂人かもしれないと疑ってもいた」

 驚きに目を見開くスバル。そんな反応に彼は「だってそうだろ?」と自嘲げに言い、

「ここでない世界の記憶がオレにはあるが、その記憶を持ってるオレ自身の記憶がオレにはない。ふいに発生したオレって自我が、妄想の果てに生み出した謎の設定集って可能性を疑わずにいられると思うか? 別世界の記憶なんて、はっきり言ってオレにとっちゃ孤独な狂気だとしか思えなかったよ。でも――」

 語る口調は陰鬱だったが、後半に至りそれが払拭される。彼はその勢いのままにスバルの肩を勢いよく叩き、

「兄弟がいてくれた。おかげでオレは救われたぜ。オレの記憶は本物だった。オレは頭のおかしい狂人じゃなかった。それだけで――ああ、救われた」

 安堵の響きに泣きそうな調子がまじっていたのがわかり、スバルはその目の前の男の孤独過ぎた日々の重さを思う。

 彼と記憶を共有できる存在はどこにもいなかった。それはスバルも同じ境遇ではあったが、スバルにはその記憶の拠り所となる自身の思い出が存在した。その二つがあって初めて、ナツキ・スバルという強固な自我は異世界に存在し得るのだ。
 だが、アルにはそのあるべき拠り所が存在しなかった。誰も存在を知らない異世界、自分すら実感として知らない異世界の記憶が自分の中にある。そのあまりに膨大な他人の無理解しか得られない記憶の海に、彼は延々と溺れ続けてきたのだ。

 その重みにゾッとして、スバルは思わず震える唇で問いかける。
 今まであまり考えずにいたことだったが、意識してしまうとそれを問い質さずにはいられない。それは、

「アルは、いったいどれぐらいこの世界で過ごしているんだ?」

 スバルがこの世界で過ごした時間は、現実時間なら二十日間程度でしかない。まだまだ元の世界の記憶は鮮明であるし、この異世界にあるあらゆるものの存在が新鮮に感じられる異世界アマチュアの状態だ。
 そのスバルの問いに、アルはしばし無言になると、

「オレがこの世界にきて、確実じゃないが――十八年ぐらいになるはずだ」

「じゅ……っ!?」

 思わぬ年数を聞かされて、スバルの聞き返す言葉すら詰まる。
 アルはそのスバルの驚きを頷きで肯定して、

「実年齢は記憶がねぇからわからないんだが……たぶん、オレはそろそろ四十前後になるとこだと思う。召喚されたのは、お前と同じぐらいの年代だったか?」

 顎に触れて、スバルの全身をしげしげと見ながらアルはそう言葉にする。
 彼の先ほどの言葉の重みを改めて実感し、スバルはますます軽々しくその苦痛の日々を労う言葉をかけることができない。
 色々と言いたいことや聞きたいことはまだまだある。だが、それを掘り起こすことがアルの苦痛に繋がるかもしれないと思うと、そう簡単には――、

「それで?」

 そんなスバルの感傷を遮ったのは、ここまで黙り続けていた三人目の声だ。
 首をめぐらせる。更衣室の壁に背を預け、腕を組んで瞑目する少女が立っている。彼女は組んだ腕を苛立たしげに指で叩きながら、

「妾の沙汰を遮ってまでのことじゃ。実りはあったのじゃろうな、アル」

「オレとしてはこれ以上ないほどの。姫さんにとってどうなるかはわからねぇが……少なくとも、オレはオレの妄言が単なる妄言で終わらなかったことがわかった」

「さっぱりした顔で言いおって、腹も立たん。――その上で貴様の処遇じゃな」

 アルを手で押しのけて、少女がスバルの前に立つ。
 小柄な少女から発される威圧感――その大きさにスバルは思わず圧倒される。昨日の出会いでは感じられなかった圧迫感。それは図らずも彼女とスバルの間に横たわる大きく深い隔たりを実感させるもので、

「貴様とアルと同じで、大瀑布の向こう側からきたとほざきおるのか」

「大瀑布?」

「世界の果ての果て。忌まわしき終焉の場所。この世の全てを押し流す水の奔流――それが大瀑布。その向こうを見たものはいないとされておるが」

 動けないスバルの顎に指を添えて、その顔を持ち上げながら少女は続ける。

「極々たまに、その大瀑布の向こう側からきたなどと吹聴する輩が現れる。大概は大言で衆目を集めようという野卑の輩じゃが……アルは少し違う」

「その判断の、根拠を知りたいね……」

「勘じゃ」

 せめてものスバルの反撃を、少女はその一言であっさりと切り捨てる。
 声も出ないスバルにそう断じて、それから少女は背後のアルに振り返ると、

「妾の退屈を紛らわせる道化はひとりいればいい。それが妾の決定である。なにか、異存があるか、アル?」

「あるぜー、超あるぜー。というのも姫さん。たぶん、オレの同郷ってもう正直全然いないと思うわけよ。なんで、ちょこーっと慈悲的なもんとか見せてもらえるとオレも嬉しかったり恥ずかしかったりときめいちゃったり」

「妾に指図するというのか?」

「まさかまさか、慈悲を乞うわけですよ。オレの超美人で超将来有望で超賢くて超素敵で超優しいお姫様は、きっとオレを悲しませるような選択はなさらないって」

 調子のいいアルの言葉に、少女は無言と無表情でそれを受け止める。そのまま彼女は視線の温度を下げたまま、いまだ沙汰を待つスバルを退屈そうに見る。
 指先はスバルの顎を持ち上げたまま、彼女の次なる言葉が恐ろしくてしょうがない。

 アルは心情的にスバルの味方をしてくれているが、肝心の少女の気分屋ぶりは昨日の短時間でスバルも知るところにある。彼女自身にこちらを害する力があるかは不明だが、少なくとも短剣と魔法が使えるのは確か。

 ――いざとなれば『シャマク』のひとつでもぶちかまして一矢報いよう。

 そんなスバルのヤケクソ気味な考えは、

「ま、いいじゃろ」

 と、先ほどまでと変わらぬ少女の退屈そうな一言で杞憂となった。

 少女はスバルの顎に触れていた指を引っ込めると、懐から扇子を抜いて己を煽ぎながら更衣室を横切り、

「もともとさして興味を引かれることでもない。わざわざいらぬ首をはねて、従者の不興を買うのもまた馬鹿馬鹿しい。いらぬ手間、不要な労苦じゃな」

「それはつまりええっと……お咎めなしってこと?」

「それはいくらなんでも都合が良すぎんだろ、兄弟」

 解放されそうな風向きにスバルはドッと肩の力を抜くが、その脱力ぶりにはアルが苦笑して釘を刺す。それから彼は部屋を出ていきそうな主の背に声をかけ、

「おーい、姫さん。お願い聞いてくれたのは嬉しいんだけどよ、実際のとこ、どーすんのよ。このまま見逃すってのは無理だろ、さすがに」

「ですよねー」

 目前の脅威は文字通り九死に一生を得たとはいえ、スバルがやらかした事態が見過ごせるラインを超過しているのもまた事実。
 それに関してさすがに線引きを甘くしてくれるつもりはないらしいアル。その彼の言葉に少女は足を止め、心底面倒そうに首だけで振り返り、

「妾の意を酌まんか、愚図じゃのう。――よいから一緒に連れてまいれ。逃げようとしたら首を落としてかまわん」

「そらいいけど……いや、いいのかよ? だって姫さんがこれから行くのって」

「うるさい」

 酷薄な命令をあっさりと受諾した上で、疑問点を口にするアル。その彼の言葉に被せるように少女は、

「妾の行いに口を挟むなど言語道断である。分を弁えるがよい、アル。この世界は妾にとって都合の良いことしか起こらん。故に、妾の判断にはひとつの間違いもない。その道化を連れることは妾の益になる。勝手にそうなるのが世の選択じゃ」

「姫さんの自己肯定は聞いてるといっそ清々しいね。オレ了解」

 傲岸不遜なまでの自意識に、アルは好意的な声音で従うことを宣言。それから彼はスバルに向き直り、置いてけぼりの肩を軽く小突き、

「そんなわけで、兄弟は今から捕虜な。あ、逃げようとはすんなよ。なるたけやりたくはねぇが、そうなったらぶった切るから」

「同郷のよしみは?」

「義理と人情秤にかけりゃ、義理のが重いこの渡世ってな」

 浮世の儚さをしみじみ感じさせる言葉を告げて、アルがスバルの背を押してついてくるように促してくる。
 完全に状況に流されているまま、スバルは歩き出す小柄な背中と、背後からかけられる武装同郷人の威圧に挟まれて進むしかない。

「いや、自分が悪いって自覚はあるからそれは仕方ないんだけど……この状況って実際好転しだか悪化してんだか……」

「見つけたのが妾でなければ首をはねられて終わりじゃろう。これが好転でなくてなんとする。ほれ、妾に無上の感謝をするがいい」

「助かったは助かっただけど……俺がいうのもおかしな話だけど、俺がなんでこんなとこにいたのかとか聞き出さなくていいのか? 俺、我ながら超怪しくて最悪なんだが」

 弁明したいところではあるが、とても他人にうまく説明できる理由で動いたとは言い難い。それこそ、漠然とした不安にいてもたってもいられなくなった結果だ。
 故にスバルのそれは聞かれるべきことを聞かれないことの不安、それへの予防線というべき弱さの殻だったのだが、少女はスバルのその浅はかな内心を読み切っているかのように鼻を鳴らし、

「その理由にはおおよそ見当がついておる。故に、妾は聞かん。妾の機嫌がそれなりであったこと……それと、ああそうさな」

 立ち止まり、少女が振り返る。
 橙色の髪が目の前を横切り、急に止まられたスバルも慌て急停止。その眼前に指を突きつけて、少女は嫣然と唇の端をつり上げ、

「リンガ」

「は?」

「昨日のリンガ、悪くなかった。妾が貴様の首を即刻はねんのは、そのおかげとでも思っておくがよい」

 心変わりの理由をそう定義づけて、それきり少女は後ろも見ないで歩き出す。
 その背中を呆然と見送り、スバルはかけられた言葉を頭の中で噛み砕いて、ようよう足を前に踏み出しながら小さく呟く。それは、

「つまり俺の命は、果物屋のおっちゃんに助けられたってことか……」

 城に忍び込めた実績もカドモンのおかげなので、王都での彼のイベント関与率は異常値に達している気がする。
 そんなつまらない感想で、スバルは己の命拾いにひとつの納得を得たのだった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「なあ、これいいの? 大丈夫? 俺、かなり場違いなとこきてない?」

「場違いっていうか、そもそも不法侵入だしな。姫さんが納得してっから別にオレも口外しねぇけど……妙な真似すんなよ。積極的には庇わねぇ」

 不安でしきりにあたりを見回すスバルに、隣に並ぶアルがそっけなく言い捨てる。が、そうして平然としている様子のアルもよく見れば居心地悪そうに姿勢を正し、目の前の主の前進に視線を送っていた。

 前を行く少女――王城の上階、中央塔の通路を歩く彼女は無数の視線を浴びながら、しかしその豪奢な衣装と優雅な美貌に見合った態度で闊歩している。
 その歩く彼女を見る視線は、通路を挟むように並んで立っている完全武装の衛兵たちから向けられているものだ。剣を掲げた衛兵が並ぶ通路を少女に続き、せかせかと歩き進むスバルの内心は尋常ではない。

 なにせもともと、こっそりと城内の様子をうかがうつもりでいたスバルだ。それがどうしてこんなばっちり大勢のいる場所で、しかも横にいるアルがうっかり口を滑らせただけで首が飛ぶような状況下にあらねばならないのか。

 早く通路が終わってほしい。兵士たちから向けられる視線の渦、その無言のプレッシャーに押されるままに早足で進み、スバルは少女の背中に追いついてしまう。
 否、通路の終端に到達し、そこでのやり取りの場に辿り着いたということだ。

「兵士が並ぶ通路の奥にある、でっかい扉……」

 両開きの扉は見上げるほどの大きさであり、自然と扉の中の場所の荘厳さを外からでもスバルに想像させてくれる。
 場所が王都王城の中央塔の上階――左右を囲む兵士が並ぶ通路を抜けた先、嫌な予感が先ほどからスバルの頭を掴んで振り回して離さない。

 そんな暗澹とした気持でいるスバルの前で、少女は扉の前に立ちはだかる巨漢と言葉を交わしている。

 完全武装の巨漢は兜を外し、その理知的な眼差しで少女とこちらを推し量る。
 年齢は三十前後で、精悍というよりは厳つい顔立ちの男性だ。巌のような彫りの深い顔には険しさと、歴戦を感じさせる兵の雰囲気をまとっている。

「お待ちしておりました、プリシラ様」

 彼はその厳つい顔に見合った重々しい声で恭しく頭を下げる。
 その礼儀を弁えた態度に少女が不遜に頷き、それから彼女は後ろの二人を手で示すと、

「妾の連れじゃ。片方は妾の騎士で、片方は……リンガ係じゃな」

「ちょ……っ」

 もっとマシな役職を、と突っ込みを入れかけ、スバルは状況の悪さを思い出して己の口を塞ぐ。その百面相のスバルにちらと視線を向け、騎士は巌の表情をぴくりとも動かさないまま少女を見やり、

「――リンガ係ですか」

「そうじゃ、リンガ係じゃ。妾に赤く、甘酸っぱいリンガを届けるのを使命とした哀れな道化よ。無害じゃ、構わんな」

「マイクロトフ様のご意見をうかがってからでなければお通しは……」

「妾のするところ、それはつまり世界の選択である。不敬も甚だしい。通すがよいぞ、マーコス」

 決まり切った文句であるらしく、少女の不遜な物言いに騎士は抗弁をしない。
 彼は静かな青の瞳でスバルを、そしてアルの様子を値踏み――直後、澄んだ青の瞳が眩く輝いたのは比喩ではなく事実だろう。
 彼は自身の双眸に軽く指を当てて、

「危険な魔力反応、および武装は確認できません。騎士殿が持ち込まれるのはそちらの大剣だけですね?」

「…………。あ、騎士ってオレのことか。そうそう、イエスイエス。もしも怪しい素振りを見せる黒髪とかいたら、オレがこの手で真っ二つ」

「もしも万が一があれば、そのときは主であるプリシラ様をお守りください。その他のことは我ら近衛にお任せくだされば」

 軽口に仰々しく返されて、アルは「ういうい」と曖昧な返答でお茶を濁した。それから大扉がマーコスと呼ばれた騎士の声かけにより開かれる。

「中で皆さま、すでにお待ちです。お急ぎを」

「凡俗を待たせるのも妾の優越よ。逆は絶対に許さんが」

 偉そうに器の小さな発言をして、見送られるままに扉の中に足を踏み入れる少女。なんのてらいもなくアルがそれに続くのを見て、スバルは意を決して中へ。

 ――視界に広がったのは、赤い絨毯の敷き詰められた広大な空間であった。

 煌びやかな装飾が施された壁に、豪奢な照明が真昼間から光を放つ天井。体育館のような部屋の大きさに比して、室内にあるものの少なさは無駄さのバーゲンだ。もっとも、その部屋の目的と用途を思えばそれも当然の話。
 部屋の中央の一番奥、そこにはささやかな段差と、わずかばかり高さのある位置に備えつけの椅子が設置されている。
 背後に竜を模した意匠の施された壁を背負い、椅子に座るものはその竜を背負っているようにも守られているようにも見えるだろう。

 それはまさしく、王城王座の間。ならばあの椅子はルグニカの玉座に相違ない。

 真っ先に目を引く玉座に目を奪われたあとで、スバルは恐る恐る周りを見る。
 室内には外と違い、剣を構える衛兵の姿はひとりも見当たらない。近衛全員が外で待機している中、部屋にある人影は手足の指全てで数えられる少数だ。

 そしてその中に――、

「――スバル?」

 扉を通り抜けて王座の間に入るスバルを、銀髪の少女が驚き顔で見ていた。
 彼女はそこにスバルの姿があることが信じられないように瞬き、その紫紺の瞳に戸惑いとその他の感情を一緒くたにして揺らしている。

 その彼女の驚愕を一身に浴びながら、スバルの心臓は痛むほど高く鳴る。
 それはこの王城に忍び込んで以来、幾度も浴びたいずれのプレッシャーをも上回る謎の圧迫感。
 それをどうにかしてねじ伏せて、スバルは彼女の次なるアクションが起きるより先に行動を起こした。

 頭に手を当てて、片目をつむり、舌を出して。

「ゴメン、きちゃった」

 盛大な無言の重圧が、しばし玉座の間に重々しく横たわることとなった。

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