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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第二章 激動の一週間

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第二章46 『鬼がかった一閃』

 向かい合った時間はほんの数秒だったが、無言のそれは何時間にも及んだようにスバルには感じられた。

 理性を失ったようなレムの瞳、それがふいの瞬きのあとに感情を取り戻し、

「――姉様と、スバルくん?」

 驚いたような声にスバルは安堵の吐息を漏らし、腕の中で身じろぎしたラムがぱちりと瞳を開けると、

「ああ、レム、心配したわよ。勝手に先走って、ダメじゃない」

「ごめんなさい、姉様。レムはどうにかしようと必死で……」

「そんなにレムが無理をしなくても、どうにかなる方法が見つかったの。ここにいるバルスを囮にすれば、万々歳よ」

「ああ! なるほど! その手があったんですね! レム感涙です!」

 駆け寄り、手を取り合う双子。かつてないシンクロ率で意思を疎通し合い、期待に満ちた目で見つめられてスバルも胸を叩く。

「まぁ、俺に任せておけ。今世紀最高の囮っぷりで魅せてやるぜ!」

「「きゃー、素敵! エミリア様に相応しい男っぷり!!」

 やんややんやと二人に喝采され、スバルも鼻高々でそれに応じる。
 長かった苦難のループもこれにて終了、見えた光明を見事に掴み取り、ナツキ・スバルは栄光の道を歩み出す――。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「って、なるのが理想だったんだけどなぁ」

 情けない声でそうこぼして、スバルはじりじりと後ずさりながらそんな妄想展開を切り捨てる。
 正面、こちらに視線を向けているレムの瞳には、妄想の中で舞い戻ったような感情の色は見当たらず、あるのはひたすらに漆黒の殺意それのみだ。
 とてもではないが、会話が成立する精神状態にあるようには見えない。

 汗の一粒一粒が鉛にでもなったかのように重い。瞼にかかる汗の重みで視界が塞がれそうになり、スバルは片目ずつの瞬きでどうにかそれを堪えようとする。
 両目を同時に瞬きして、隙を作って痛い目を見るのは魔獣との一戦でこりごりだ。

 ――そんな発想が出る時点で、眼前のレムを敵扱いしている自分に気付いてスバルは苦笑する。いったい、自分はなにをしにこんなところまで飛び込んできたのか。

「レームーりん。お前のお友達の、スッバルくんですよー」

 知らず、警戒心を高めつつある自分を切り替えるために、ついでに静寂の状況を一新するために、スバルはあえて陽気に振舞ってそう声をかける。
 そんなスバルの友好的な呼びかけに対し、レムの反応は、

「そんな熱視線向けてくるなよ、火傷しちゃうから俺」

 音がしそうなほど鋭く、首をめぐらせてこちらをロックオン。
 それまでは一応、周囲にも睥睨するかのような視線をめぐらせていたのが、完全に対象をこちらに固定したのがわかった。失敗したかもしれない。

 そう思わせるほどに、今のレムの姿から放たれる鬼気はすさまじい。
 見慣れた給仕服の全身を返り血で、それも一度渇いた血の上からさらに渇き切っていない血を浴びたせいで、どす黒い赤と鮮烈な赤のツートンカラーが凄惨さをさらに際立てている。鬼化による変質があったのか、破れた袖から覗く白い肌には青緑の血管がのたくり、両手の爪は魔獣と遜色がないほど鋭く伸びている。
 右腕に下げた『護身用』の鉄球は肌身離さず健在で、彼女の活躍と等しく振るわれる機会に恵まれたのだろう。こびりついた血糊と様々な物体で、その凶悪さを一段と増しているようでさえあった。

 断言してもいい。
 ある程度、レムの様子に覚悟があったからこそ平常心のようなものを保てているが、夜道などで不意打ちで今のレムに遭遇したら、百パーセント失禁する。

 それだけの狂気に身をさらしてながら、彼女の額から伸びる白い角――それだけが惨状を知らぬ存ぜぬとでもいうように、純白の美しさを保っている。
 レムを凶悪な『鬼』たらしめているもっとも象徴的なパーツでありながら、その角だけはどこかひどくちぐはぐな印象をスバルにもたらすのだった。

 ただ、状況はそんなスバルの心情を慮ってくれていたりはしない。
 見れば、谷底へ落ちて散り散りとなった魔獣たちも、岩陰や森の木々の奥からこちらを観察できる距離を保っている。
 スバルたちの、そしてレムの動向を見定めているのだろう。与し易しと奴らが判断すれば、再び戦端に加わることは容易に想像できる。

 パワーバランス的にも底辺にいるスバルにとって、それらの参戦は文字通りの絶体絶命に等しい。それだけに、レムの次なる行動こそが生命線といっても過言ではない。

 息を呑み、一度だけ瞑目して、改めてレムの視線を真っ向から見つめ返す。
 彼女の瞳が、こちらを睨みつけるその双眸が、どんな感情の揺らぎを得るか。その一片でも見過ごさないよう、視線に全霊を込めて。
 そして、

「姉様……」

 かすれて、疲れ切った声ではあった。
 だが、それは確かな音となってスバルの鼓膜を震わせていた。

 唇を震わせ、戸惑うように、レムの瞳は一心不乱にラムの横顔を見つめている。そこには正しく、正の方向の感情があり、そのことにスバルは感嘆する。
 正気を失うほどの、闘争本能に身を委ねるほどの最中にありながらも、彼女の意識はしっかりと半身を、敬愛してやまない姉の姿を知覚した。

「まさにお前こそシスコンの鑑。合流できてなによりだ。これから……」
「ハナセ」

 言葉尻を遮られるのと、鉄球が豪風をまとって飛来するのは同時だった。

 とっさに体を右に傾けられたのは奇跡に近い。
 右のふくらはぎの裂傷が、踏み出そうとしたスバルの体勢をわずかに崩していたのが幸いした。
 通り過ぎる鉄球の棘が左肩を掠め、肉が削がれる激痛に脳が沸騰する。
 痛みに喉を震わせながら、しかしそれに意識を持っていかれる暇がない。
 斜め前に踏み込み、

「痛ぇっつのに!!」

 抉られて血を流す肩の側から身を回し、スバルは行き過ぎた鉄球の鎖の下をくぐるようにサイドステップ。直後、打ち払いの鎖がスバルのいた地点を激しく叩き、大地に鉄の蛇の模様をくっきりと刻みつけていく。
 もしも回避が遅れていれば、スバルの背中の肉が同じ形に爆ぜていただろうことは想像に難くない。

 肌を裂かれる痛みの想像にゾッとし、スバルは縋るようにレムを見る。
 が、こちらに視線を向ける彼女の姿勢に変化はない。敵意に濡れた瞳は相変わらず茫洋としていて、見たまま正気をなくしていると判断していいだろう。

「鬼化したはいいけど、制御できない設定か……」

 彼女の現状の振舞いから、スバルはそう当たりをつける。
 となれば、問題は昨晩との違いの検証だ。昨晩も同じく鬼化を行ったはずのレムだが、あの時点では即正気を取り戻していたように思える。
 問題は経過時間か、あるいは目も覚めるようなショッキングな光景が原因か。
 スバルが自分を庇い、目の前で重傷を負ったことがそれほど彼女の心に影響を与えたというのなら――、

「一発、鉄球食らってみるか? 即ミンチだが……」

 昨晩と同じ条件でいいなら、きっと我に返ってくれることだろうと思う。
 代わりにスバルは挽肉になっているが。

「次善策は……犬共に超ガブられる」

 五体倒置して身を投げ出せば、岩肌に隠れている奴らも『据え膳食わずして野生のなんたることか!』と大歓迎で貪りついてくれることだろう。いけそうな気もするが、身を投げ出したスバルをレムが見逃してくれる保障がない上、呪いの上書きセールとなって本末大転倒となることが予想される。
 最悪、レムが最後まで見捨て切って捕食エンド――『犬死』の二文字が見えるほどだ。

 悲観的な思考に従うと、いよいよもって打つ手がない。
 事情がわかりそうなラムの意識はいまだ遠く、さっきから揺すってどうにか戻ってきてくれないか試しているのだが、効果が出るまでは時間がいりそうだ。
 そして、目の前のレムも、周囲のジャガーノートも、それを待ってくれそうにない。

 スバルは頬を伝ってくる汗を舐め取り、唇を湿らせて口を滑らせる。
 打てる手が思い浮かばないのなら、正気を失った人物との接触においてありがちなパターンを網羅してみる。そもそも、選択肢総当たりしか突破口がないのだ。
 ならば、それをやるのがスバル流――。

「ヘイ、レム。俺が誰だかイマイチわかんない、そんな薄情なお前にリッスンミー。俺が誰だか嬉し恥ずかしトレジャータイム。そう、あれは思い起こせば三日前。変なテンションで洗濯に臨んだ俺は指示された洗濯籠の前で思わず昂ぶり……おおわぁ!!」

 情と記憶に訴えかける絆トークからの巻き返しを図ったが、それは気の短いレムの横やりで即中断。
 旋回して吹っ飛んでくる鉄球が途上の木々をへし折り、打ち砕き、木片をぶちまけながら迫るのを飛び前転でからくも避ける。その後の鎖の追撃は、ラムを落とさぬよう苦心しながらホップ・ステップ・ジャンプで華麗に回避。振り向き、

「人の話の途中で撲殺ターンとかマナーなってねぇぞ!? ご家族の顔が見てみたい……あ、ここにあった!」

「姉様ヲ、返……!」

 腕の中のラムを見下ろして叫ぶスバルに、レムが体を前屈みに呟く。と思いきや、彼女はふいに腕の振りだけで投じた鉄球を引き戻し、その腕振りの反動で鋭く身を回すと、

「――!」

 背後から飛びかかろうとしていた魔獣の胴体に、レムの後ろ回し蹴りが直撃――爆発音じみた轟音が炸裂し、ぶっ飛ぶジャガーノートの内側がぐしゃぐしゃになっているのが遠目からでもよくわかった。

 漁夫の利を得ようとすればあの様。
 先鋒の接近に合わせて波状攻撃を仕掛けようとしていた魔獣たちが、その凄惨な死に様を目にして思わず足を止めてしまう。

 それはつまり、狩人の前で仰向けになって腹をさらしたに等しい愚行だ。

 横殴りに放たれた一撃が、並ぶ二頭の腹と頭部を一緒くたに打ち砕く。飛び散る肉片も顧みず、レムはその一撃の勢いのままに一歩前へ。踏み込みで身をすくめた魔獣の前足を踏み砕き、動きの止まったその鼻面を反対の足が蹴り上げる――軽やかな音が鳴り、魔獣の頸骨があり得ない方向へねじ曲がって粉砕された。
 そのままレムは波状攻撃最後の一匹の眼前にまで飛び込むと、怖気ついたそいつの首根っこを引っ掴み、なにをするでもなくただただ上空へと思い切り放る。

 放物線を描き、剛速球と化した魔獣のか細い遠吠えが尾を引いて響く。それは遠くなり遠くなり、それから近くなり近くなり、最後には固い地面に果物でも叩きつけるような音を最後に唐突に途切れた。

 虐殺に次ぐ虐殺。惨殺のための惨殺。殺戮の中の殺戮。
 目の前で行われた行為に対し、それ以外の感想が思い浮かばない。

 まるで子どもの児戯に等しい、圧倒的なまでの力量の差。
 生物としての格が違うのだ。『鬼』と『魔獣』では、禍々しさで競えども絶対性では決して争えない。

 それでもなお、勝てない『鬼』に挑む魔獣たちの姿がスバルには到底理解できない。彼らは恐怖に四肢を震わせ、死を前に悲痛な遠吠えを上げ、打ち捨てられる仲間の死骸に悲憤すら感じるくせに――争いから逃げようとは、絶対にしないのだ。

 あるいはそれが、彼らを『魔獣』――魔女の手で生み出され、人類に害を為す外敵とまで呼ばれるに至らしめる根幹なのかもしれない。

 その無謀な吶喊――ある意味では積極的な自殺の光景を目の当たりにしながら、スバルはふと浮かぶ疑念に眉を寄せた。

 圧倒的なまでの暴虐で、魔獣の群れを平らに粉砕するレムの姿。
 傍から見る彼女のそのすさまじい戦闘力が、すでに二度ほどのこちらへの攻撃において十全に発揮されていないのではないか、という疑念だ。

 自慢ではないが、スバルは己の運動能力にそれなりの自信がある。
 器械体操などにおいてはバク転に宙返りなど、できない技はほとんどないし、俊敏さにおいても全国平均を大きく上回っていた記録の持ち主だ。
 が、そんなスバルの身体能力が野生を生きる魔獣たちと比較して優れているかというと、俊敏さも瞬発力も体力も勝っているとは到底思えない。せいぜいが力比べで勝てるかどうかといったところだが、これも一時的に膂力で引き倒された経験を思い出せば一概には頷けない。

 そんなある意味でがっかりな自己評価を下すスバルにとって、眼前で繰り広げられたレムの蹂躙は、とてもではないが回避できる領域にないのだ。
 魔獣がかわせず挽肉にされるような一撃、スバルも当然のように食らうはず。にも関わらず、すでに二度の生還に成功している矛盾――突き詰めて考え、スバルはそこにまたしても縋るには細すぎる糸を見出す。

「正気をなくしても、ラムの存在に気付いてるってことは」

 両腕の中で苦しげな寝息を漏らす少女を見下ろし、額にかかる前髪をそっと指で払う。
 飛来する鉄球はいずれも、スバルの首から上を狙う一発即死コース。が、それは見方を変えれば、スバル以外を仕留めまいとする意思の表れだ。

 スバルがラムを抱いているから、レムの一撃には手心が加えられている。
 故に、魔獣に対する容赦のなさと、スバルに向けられる攻撃はその苛烈さにおいて釣り合っていないのだ。

 そう推論を立てて、スバルは思わず息を呑む。
 もしもそれが正しい推測であるとするならば、乗り切れるかもしれない。
 ――この、一見してかなり絶望的なシチュエーションを、落ちる寸前のボロい橋を渡るような危うげな方法ではあるが、渡り切ることができるかもしれない。

「そのためにも――」

 周囲を見回す。
 現在の谷底の位置関係は、中央にスバル。北側にレムが崖を背にして立ち、東と西に大きく点在する形でジャガーノートたちが包囲網を作っている。
 魔獣たちからすればスバルとレムのどちらも等しく獲物のはずだが、現状は危険度の問題でレムを優先しているように見える。レムもまたスバルに一定の注意は払っているものの、襲いくる魔獣側への対処に追われて攻勢には出てこない。
 しかし、その行動を邪魔する魔獣の数が減れば、レムが姉を奪還するためにスバルの方へ獲物を向けてくることは想像に難くない。

 それらを踏まえてしまえば、スバルが起こす行動はただひとつ。
 覚悟を決めて、足を広げ、息を吸いながらレムを見据える。

 ――踏み切れ、俺。男は度胸、女は愛嬌だ。

「だから恐い顔してねぇで、笑えレム。――俺は『死に……」

 本日二度目の世界の停止、そこから巻き起こる黒い靄による絶叫の宴。
 起こり得る激痛を覚悟していても、我慢できるものではない。ましてやそれが片方だけの手でなく、左手の出現を伴っているとなればなおさらだ。

 右腕の完成に味を占めたのか、動かない瞼を見開くスバルの前、こちらの胸骨をすり抜けて内腑を撫でる感触は、掌二つ分へと変質していた。
 片方が心臓を、そしてもう片方の掌がまるで愛おしいとでもいうようにスバルの頬にそっと触れる。――怖気がわき立ち、直後に痛みが神経を犯し尽した。

 激痛、激痛、激痛――!
 世界がひっくり返り、同時に腹の中身も全てがこねくり回されるような壮絶な不快感。自分が自分でなくなる。頭からつま先まで、全てのパーツが総とっかえされるような違和感。神経が神経を神経だと思えない無神経さが脳を沸騰させ、次第に混濁していく意識。なのに頬に触れる柔らかな掌の感触だけが温かで、そこを中心に心も体も溶かされてしまいそうな安堵感があって、でもスバルはそれに頼らずともそれを越える感覚を知っていたから――。

「戻って……きたぁ」

 視界がぶれる。魂がすり減る。痛みも苦しみも、現実にはなにも持ち帰っていない。
 時間の経過もない。眼前では魔獣とレムが相変わらず一進一退の睨み合いを続けている修羅場のまま――だが、スバルがこちらへ戻ってきた途端に、その対峙に大きな変化が生じた。

 まるでこの場に見過ごすことのできない巨大なものでも出現したかのように、レムとジャガーノートの群れの注意がこちらを向いたのだ。
 狙い通り、一段と、スバルを押し包む魔女の気配が高まったことが原因だろう。

 ――レムが咆哮する。
 すさまじい魔女の残り香を放つ敵性存在から、敬愛する姉を奪い返そうと。

 ――ジャガーノートが一斉に遠吠えを始める。
 森の中にいる群れを全てかき集めんと、懐かしい香りに本能が誘われるままに。

 ――スバルもまた吠える。
 飛びかかってくる魔獣の爪を、ぶち込まれる鉄球を紙一重のタイミングで回避し、己の命に、魂に火をつけることを求めるがごとく。


    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 乱戦が始まる。
 鬼と魔獣と、一般人と、落ち着いて考えなくても場違いな一角を担いながら、スバルは乱戦の中央で細心の注意を払いながら踊り続ける。

 スバルの行動は一貫してシンプル。
 戦いの激化する位置からつかず離れずの距離を保ち、身に降りかかる火の粉に関してのみ全力で回避――以上である。

 また眼前で、一匹の魔獣が鉄球で殴られて岩壁のシミに早変わり。が、同胞の死をものともせず、魔獣は三匹で一組の連携を作り、レムへ深手を負わせんと攻め立てる。その浅知恵もむなしく、振り払うような手の動きで跳躍が迎撃され、動きの止まったものから順に振り下ろされる凶器の餌食にされていく。

 それを横目にしながら、スバルはずり落ちそうなラムを抱え直して後ろへ跳躍。飛び込んでくる魔獣からからくも逃れ、レムの攻撃範囲へ身を躍らせる。
 と、こちらの接近に目敏く気付いたレムの迎撃。鉄の柄が突き出されるのを急停止でかわし、遅れて飛んでくる鎖をしゃがみ込んでくぐり、頭上を通過した鉄球が後ろから迫ってきていた魔獣の頭部に真っ赤な花を咲かせた。
 それだけ確かめればあとは恥も外聞も投げ捨てて、地面を這うようなゴキブリスタイルで一気に離脱。追い縋ろうとするレムを魔獣が阻み、離脱に成功。
 一定の距離を保ち、命を拾った己の判断力を安堵の吐息で賞賛しつつ、

「――はぁ! 案外、やれんじゃねぇか、俺」

 犬に噛まれないよう必死で跳ねて、追っかけてきた犬をメイドの少女に押し付けて、怒る少女の癇癪をゴキブリみたいに這って逃げた。

 単純に文章化するとそれだけの内容なので軽く死にたくなるが、死なないためにやってるんだと割り切って醜態は頭の中でむしろ美化。
 現状、スバルの思い描いた作戦はうまくいっている。時間稼ぎの意味合いでも、ジャガーノートの総数を減らすという意味でも、悪くない展開になっている。

 ちらと見上げた先、谷底へ通じる複数の方角から、こちら目掛けて集まってきている魔獣の群れの気配を感じる。
 森の相当範囲にまで広がったスバルの体臭が、ジャガーノートたちの本能に働きかけてやまないのだ。罪深い話である。

 だから、生きる目が出てきたと。
 そんな風に、状況が改まったわけでもないのに、先走った喜びを得てしまった。

「――う?」

 ふいにそれは訪れた。
 新たなジャガーノートの群れが谷底に参入し、レムとの死闘にその身を投げ出す。その光景を目にしながら、軽く身を振って回避行動に備えようとした瞬間、目眩に似た感覚がスバルの体勢を大きく崩した。
 膝が落ち、前のめりに倒れそうになる。とっさに、抱えていたラムの身を庇うように反転して、傷付いた左肩から地面へ転倒。激痛に喉が塞がったようなうめき声、だがそれ以上にスバルの意識を支配したのは、

「この、寒気は――」

 覚えがある、体の芯から凍えてくるような尋常でない寒気。
 これだけ命を盾に体を動かし、魂を燃やして鉄火場に挑んでおきながら、その熱情に冷や水を浴びせかけるような横やり。

 それを受けて、スバルは己の失策をまたしても後悔する。
 こうして数を集めれば集めるほどに、危険性は増す。目の前の存在があまりに強大で、少しでも力を得たいと判断すれば、保留していた呪いを再開するなんてことは取るべき手段としていの一番に上がってきそうなものだったのに。

 視界をめぐらせる。
 この場に参画したジャガーノートのいずれかが、スバルに施した呪いを発動してマナを接収している。だが、見回してもそれらしい魔獣の姿はない。それ以前に、呪い発動中の魔獣がどんな状態になるのか、その想像さえつかない身の上だ。

 そして、すでに指一本動かすことさえ億劫となった身では、仮に呪いの大元が特定できたところで、刺し違えてでも呪術を止めることなどできそうもない。

「……万事休すか」

 ここまできて、全てが徒労と消えるのか。
 ますます強くなる寒気にスバルの意識が遠のき始める。どうにかそれを繋ぎ止めよと手を伸ばすが、伸ばしても伸ばしても、それは空しく宙を掻き――、

 唐突に、寒気が消失して掌に血が通った。

 ――轟音、スバルの状態が戻るのと、それは同時に鳴り響いていた。

 霞みかけていた視界を押し開き、スバルは音の原因を探ろうと視線をさまよわせる。そして森の奥、地面を大きく踏み鳴らし、鉄球を岩盤に叩きつけたレムの姿を見た。その鉄球の下敷きに、一匹の魔獣が破裂したような死骸をさらしているのも。

 体調が著しく回復したことと、その状況の因果関係を察して、スバルは立ち上がる。
 レムが叩き潰した今の魔獣が、スバルに呪いを実行していた一匹だったのだ。その息の根が止められたため、呪いの実行が中断されたのだろう。
 なんと恐るべき偶然か、自分の悪運の高さに惚れ惚れする思いだ――。

「な、わけねぇだろ」

 レムが先ほどまで立っていた位置から、今の位置は大きく距離を置いている。
 そこに到達するまでに点在する魔獣を無視して、その一匹だけを狙い撃つ理由などひとつしかない。

 なにもかもを振り切り、駆け抜ける最中に爪による裂傷を負いながらも、レムは呪いを発動した一匹を見定めてそれを討った。
 それがどういうことなのか、わからないスバルではない。

 正気をなくしていたとしても、スバルが誰だかわからない精神状態でも。
 レムは敬愛する姉を見間違えないし、自分がなんのために森に飛び込んできたのか、その最初の目的を忘れたりもしていないのだ。

 ならば、と思う。
 スバルは己のしなくてはならないことを、それを意識して瞼をこする。
 こんな騙し打ちのような形で彼女を利用するのではなく、当初の目的に従うべきだと思ったのだ。つまるところ、

「最初の理想像。ラムとレムのメイド姉妹と、ドキドキ共同呪い駆除作業」

 それができてこそ、スバルはこの呪い塗れの状況から生還できる目があると踏んでいる。
 故に、レムの正気を取り戻さなくてはならない。スバルが用があるのは『鬼』ではなく、慇懃無礼で、早とちりで、即断傾向で迷惑ばかりかける、彼女なのだから。

「――角よ」

 ふいに、その声はすぐ傍からスバルの鼓膜を震わせた。
 見下ろせば、腕の中に抱かれるがままのラムが薄目を開け、その朦朧とした意識の合間にありながら唇を動かしていた。

「目、覚めたのか」

「今が一番おいしいタイミングだと思ったの、よ……」

「ああ、いい勘してるぜ、お姉様。――角、ってったか?」

 小さく笑ってみせるラムに、スバルも半ば虚勢半ば開き直りの笑みを浮かべて問い返す。彼女はそれに億劫そうに顎を引き、

「レムを鬼たらしめているのは、あの角だから……一発、強烈なのを叩き込めば……それで、戻ってくる……」

「確かか?」

「はず。きっと。だといいと思うわ」

「そこらへん曖昧なのな!? でも、信じたかんな」

 言い切り、スバルはレムの姿を見る。
 彼女の額から伸びる白い角は、おおよそ長さは十センチ程度。額にパックが突っ立っていると思えば、その大きさで大体近しい。

 ――あそこに、一発。

「無理くさくねぇ?」

「知恵と勇気を振り絞って、どうにかしなさい」

「知恵と勇気を振り絞れば届きそうな方法は、実は思い浮かんでんだけど」

 スバルの返答に意外そうにラムが眉を上げる。
 そんな彼女にスバルは苦笑いし、言い難そうに唇を歪めて、

「でも、きっとお前は怒るし」

「それで妹が正気に戻るならラムは怒ったりしないわ」

「本当に?」

「本当の本当に」

「ロズっちに誓って?」

「……そこを選ぶとは命知らずね。ええ、ロズワール様に誓って」

 ラムが心底男らしく言い切るものだから、スバルもその意見を尊重しようと思う。

 正面、レムがゆったりとした動きでこちらに向き直る。
 意識の中核は依然こちらに向き、広げる警戒網は周囲のジャガーノートへ。
 その全方位警戒態勢のレムに対し、スバルは角を打つための行動に出る。
 それは、

「おおぉぉ、えすっ!」

「――は?」

 体をひねり、腰だめに構えて、反動で全身を回しながら腕を振り――両腕に抱え込んでいたラムの体を、レムの方へと向かって大きく投じた。

 まさか投げられるとは思っていなかったのだろう。
 宙を舞うラムの呆気にとられた顔が遠ざかり、レムの方へと吸い込まれる。さすがの鬼状態のレムもこれには唖然としていたようだが、飛んでくるのが無防備な姉だと気付くや否や、即座に鉄球を手放してその体の確保に腕を伸ばす。

 爪の伸びた指を小器用に動かし、レムはその血まみれの腕に姉を抱きとめる。刹那、その殺意だけに濡れていた表情にさっと穏やかな色が浮かぶ。

 ――その瞬間に立ち会うのに遅れないよう、スバルの体は射出されていた。

 ラムの体を投じるのと同時に、スバルの体は同じ方へ一気に前進。レムの視線が上を行くラムを見ている中、身を屈めながら死角を駆け抜け接近。
 踏み込み、右手は腰から剣を引き抜き、その勢いのままに彼女の頭上の角を目指す。風を切り、完全に虚を突いたタイミング。

 さしものレムも、この奇策に対しては反応すら叶わない――が、

「――あふ」

 振り切られた刃が欠けた先端分、力強い踏み込みがビビった一歩分、ギリッギリの状況下で角を捉えるのにわずかに失敗した。

 千載一遇のチャンスが、手の中からすっぽ抜ける事態にスバルは愕然し、

「ビビっちまったぁ! あと一歩、勇気が足りんかったぁ!!」

 空振りして勢いで身が回る。
 背中を向ける寸前、視界の端を貫手に構えられるレムの左手が見えた。それが真っ直ぐ突き出されるだけで、スバルの胴体に綺麗な風穴が開通する。
 またしてもレムの手で――それだけは嫌だ、と唇を噛み切った直後、

 足下の地面が爆発し、発生した土砂流がスバルの体を大きく吹っ飛ばしていた。

「おおおおお――!?」

 石の散弾に体を打たれ、皮膚が裂ける痛みと流血を果たしながら、吹っ飛ぶスバルは眼下に今の惨状の理由を見た。

 地面の炸裂はスバルの位置から南側、そこに体を伏せる子犬の魔獣が原因だ。谷底に落ちて以来見えないと思っていた奴は、スバルとレムが射線上で重なる瞬間を見計らっていたのだろう。
 両者をいっぺんに始末できると踏んだ瞬間、奇襲のように魔力を展開、土砂流によってド派手な横やりを入れてきた。

 しかしその目論見は、

「――――ッ!!」

 レムが咆哮し、爆裂する地面に対して踏み込みを一発。
 発生しかけた土砂流がその威力に相殺され、彼女の青い前髪を少し激しく揺らすだけの効果にとどまる。
 魔力に対して暴力をぶつけて相殺――そんな簡単な状況ではなかろうが、それに近い魔法潰しの方法だ。

 レムは受け止めた姉を大事そうに抱え、魔力の余波から逃れるように横へステップ。――頭上から舞い落ちてくる、スバルの存在を失念している。

 くるくると、縦回転する世界はとてもではないが平常には捉えられない。
 しかし、右手はしっかりと今も片手剣を握りしめているし、落下地点は幸いなことに岩壁を外して、ただ固いだけの土の上だ。
 そして、こちらに気付かず、頭部をさらしているレムが真下にきている。

 これ以上はない、これ以降はない、これより先は望めない。
 振りかぶり、片手剣を両手で構えて、渾身のタメを用意する。

 たまたまの、たまたまに、たまたまを重ねて、それでようやく届くかどうか。
 ご都合主義万歳。奇跡最高。神様の気まぐれも、たまには仕事をする。

 ――どうせなら、さっきの一閃のときに働いてくれれば格好もついたものを。

 苦笑。時間がない。すぐ間近、ゆっくりと緩慢になる世界、レムがいる。
 角が見える。振りかぶった剣で峰を返し、溜めた力を解放する。

「笑え、レム。――今日の俺は、鬼より鬼がかってるぜ」

 放たれる刃、真っ直ぐに、剣閃は白い角を目掛けてほとばしり――。


 甲高い鋼を打つ音が、魔獣の森に鋭く響き渡った。
 直後、着地失敗による、無様なスバルの悲鳴も伴って。

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