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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第二章 激動の一週間

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第二章26 『第三の選択肢』

 無我夢中で走り続けて、どれだけ時間が経ったのかわからない。

 息が切れ、膝が笑い、流れる汗が顎を伝い、心の中をぐちゃぐちゃにしながら、それでも立ち止まることができずに走り続けた。
 走らなければ、後ろから追ってくるわけのわからない感情に追いつかれてしまう。そしてそれに捕まってしまえば、今度こそもうなにもかもが終わってしまうのだと、そんな確信だけが今やスバルを追い立てていた。

 ラムの絶叫が、怨嗟の怒号が、スバルを憎悪の対象とみなした、その叫びが今も耳から離れない。

 無礼で、尊大で、人を小馬鹿にしたような態度を崩さないラム。
 その彼女があれほどの感情を露わにし、声高に憎悪を叫んでいたのだ。
 思い返すだけで心の臓が竦み上がり、言葉にできない悲しみが去来する。

 逃げたのだ。逃げてしまったのだ。

 駆け抜け、屋敷を飛び出し、背後から聞こえるあらゆる雑音をかなぐり捨てて、なにもかも置き去りに逃げ出してしまった。

 もはや、あの場所にはスバルは戻れない。
 ラムやロズワールは逃げたスバルを許さないし、エミリアやパックも頑なに口を閉ざしたスバルを信じきることはできないだろう。
 そして契約によって結ばれていたベアトリスもまた、スバルの行動の真意を読めずに積極的な味方になってはくれまい。

 全てをぶちまけられればそれもよかった。
 だが、それをするには黒い靄が立ちはだかって邪魔をする。

 時の制止した世界で、音が隔絶された世界で、心臓を握り潰されるような痛みと恐怖――その前に、スバルの逃げ腰の決意などあっさりと吹き散らされてしまう。

 結果、痛みにも哀しみにも耐え切れず、スバルは逃げるしかなかった。

「仕方、ねぇじゃねぇかよ……! 俺になにが……俺だって!」

 なにもわからない。
 どうしてこうなってしまったのか、なにをしなければならないのか。
 なにをすれば世界はスバルのことを許すのだろうか。

「あんな……楽し……ってのに」

 異世界に唐突に招き入れられ、なにも知らない世界で生きていくしかなく、その不安ばかりが根差す世界でスバルを迎え入れてくれたはずの場所。
 あの日々が、あの時間が、まだたったの一週間程度しか過ぎていないあの時間が、今のスバルの手には届かないほど遠い。

 やり直し、舞い戻り、繰り返し、その都度に世界はスバルに牙を剥く。
 あれほど優しかった世界は色を変え、鮮やかだった輝きは褪せてなにもかもがくすんで見える。

 ――もう、ダメだ。

 ふいに、そんな呟きが脳裏をかすめた。

 ――もう、これ以上、頑張る必要なんてないじゃないか。

 諦めを促す自分の声に、その甘美な誘惑に、スバルは思考を停止しそうになる。
 その言葉の通りにしてしまえば、きっと楽になれるのだと思う。
 もともと、スバルは状況の楽な方へ楽な方へと流されやすい性質なのだ。

 スバルだけではない。人間なら誰しもそうだろう。
 目の前に二つの選択肢が並べられ、どちらも捨てられないとなれば苦渋の時間を強いられることになる。
 そんな苦しみにもがく中、ふいに第三の選択肢が提示されればどうだ。

 まるでその選択肢が天啓かのように、天恵であるかのように、魅力的に思えて手を伸ばす衝動を誰に責められる。

 抗うことも、逃げ切ることも選べないのなら、いっそ投げ出してしまえばいいのではないか。

「投げ出す……つったって」

 急速に頭から血の気が引いていき、あれほど高鳴っていた心臓の鼓動すらどこか遠いものに感じる。
 手足がずっしりと重たくなり、追い立てられるままに動いていた足はその足取りをゆるめ、次第に引きずるような歩みへと変わる。

 ふと、それまで見えなくなっていた視界が広がり、スバルは自分の姿が木々に囲まれた森の中にあることに気付く。
 がむしゃらに走り続ける内、屋敷を飛び出し、街道を外れ、山道の中へと迷い込んでしまっていたらしい。

 鬱蒼と覆い茂る緑に取り囲まれ、空さえも遮られる薄闇の中で、スバルはこの場所が前回の死に場所と似通っているな、と思った。
 それを思った瞬間に、第三の選択肢の明確なビジョンが浮かび上がる。

「死ねば……」

 救われるだろうか、この状況から。

「ああ、そうだよな。死んじまえば、変わる」

 口をついて出る、弱さ故の戯言があまりに甘美なものに思えて、スバルの口元にひきつるような笑みが浮かんだ。

 すでに三度、スバルは命を落としている。
 四度目の死はスバルにとって未体験。故に、四度目の死を迎えたらなにもかもが終わるのではないか、という根拠のない不安に苛まれてきた。
 だが、

「それで終わるなら、なにが悪い……?」

 繰り返すたび、スバルの置かれる状況は悪くなっていく。
 衰弱死、衰弱した上での撲殺。信じていたはずの相手に殺害され、そして今度はその相手の死亡と、それ以外の関係者からの信頼を全て失った。

 命だけは拾った今回。命だけしか持たされていない今回。
 こうしてなにもかも失い、異世界へ招かれた当初よりも悪くなった状況下で足掻き続ける。そんなことに、なんの意味があるだろうか。
 いや、なにか意味があったとして、どうしてそれをスバルが歩かなくてはならないというのか。

「やりたきゃ、勝手にやればいいだろうが。……俺を、俺に、なんの関係があるってんだよ」

 唇を噛み、自分をこの状況へと巻き込んだ存在へ憎悪を吐露する。
 臓腑とどろりとした暗い感情が煮えたぎらせ、頭の中を思いつく限りの呪詛が埋め尽くし、すでに萎び切っていたスバルの心に黒い燃料を注ぎ込む。

 ――『死』という選択、それは今のスバルにはこれ以上ない名案に思えた。

 死んで終わるのならばそこまでだ。
 だがもし仮に、死んで再び『二日目』に戻れるとするならば。

「最初の……そうだ。エミリアたんと仲良くして、パックモフって、ベアトリスからかって、ロズワールと軽口叩いて、ラムやレムと一緒に……」

 初回をそのままなぞって、楽しくやれるかもしれない。
 思えば、初回はスバルにとって理想そのものだったといえる。四日目の夜、最後に衰弱死する未来は変えられないとしても、あの死には痛みも苦しみも伴わなかったし、なにより安寧と平穏が約束されている。

 もしもまたあの日々に戻れるのならば、彼女たちの笑顔と触れ合えるのだとすれば、死ぬのは決して恐ろしいことなどではない。
 今のこの手のつけようのない状況の方がよほど、スバルにとっては恐ろしかったし、なにより物悲しさを堪え切れないのだから。

 息を呑み、スバルは己のズボンのポケットを探る。
 中、手に握る細い感触は、この四日間で一度も手放さなかった羽ペンだ。
 尖ったペン先は幾度もスバルの手の甲を貫き、そのたびに鮮血で汚れ、今や赤黒くこびりついた血は拭っても拭い切れまい。

 羽ペンを逆手に握り、その先をスバルは己の喉に向ける。
 尖った先端は人体を抉るに足る鋭さを備え、それはすでにスバル自身が身をもって実績を証言できるほどだ。
 勢いをつけ、思い切りにそれを振りかざせば、目的は果たされるだろう。

「はぁ……はぁ……はぁ……っ」

 視界がちかちかと明滅し、早すぎる血の巡りに全身が沸騰するように熱い。
 なのに頭にだけは血が巡らず、どんどんどんどんと限度を知らないように脳の回転は凍えていく。

 ペン先を見つめる視線は固定され、震えるその先端がじりじりと迫る。
 全力疾走すら上回る荒い息は吐き気を伴い、意識を集中するのが途切れれば即座に胃液をぶちまけてしまいそうなほどだ。

 膝が揺れ、腰が砕け、腕は肘から先に神経が通わないように動かない。それでもペンを握る右手だけは、滑稽なほど冗談みたいに震えている。

「くそ……っ」

 舌打ちして、目の前の感情を誤魔化すように首を振る。
 左手で震える右の手首を掴んで固定。だが、右手に触れた瞬間に怖気が左手にも伝染する。ペンを握る両手が小刻みに震え、その意思を果たすことはない。

「止まれ……止まれってんだよ!」

 苛立ちに声を荒げるが、その声すら震えを隠し切れない。
 ついには握っていた羽ペンを取り落とし、それを拾おうと背をかがめたところで、笑っていたはずの膝が力尽きてその場に崩れ落ちてしまう。
 両手を土に着き、愕然と間近の地面を睨みつけ、スバルはふいに込み上げてくる熱いものを両目からこぼし、悔しさに唇を噛み切った。
 鋭い痛み、血の鉄臭さが口内に満ちて、それを味わいながら嗚咽する。

「俺はこんな……こんな簡単なことも……」

 ――勇気が足りなくてできないのか。

 そちらへ転がり落ちてしまえば楽になれる。
 そんな風に思い詰めておきながら、落ち切る覚悟すらスバルには決められない。

 衝動に負けて勢いに任せることも、安易で弱い決断を実行に移すこともできない。決意や覚悟すら脆く、蹲って泣き喚くのが関の山だ。
 そんな醜態をさらしたところで、何ひとつ状況は好転しない。悪化すらもしない。変化は起きない。ただただ、スバルの置かれている現状がどん底であるのだと、変わることのない状況が淡々とそう伝えてくるだけだ。

 痛みも、苦しみも、悲しみも、スバルに決断を迫る全てが、なにもかもが彼に優しさを施さない。
 あれほど渇望した選択肢も、実行しきるだけの覚悟が自分にはない。

 どうせ終わりを選択するのならば、ラムに殺されてやればよかったのかもしれないとも思った。
 直接的にレムの死因にスバルは関係がない。故に、ラムが仮にスバルを殺せたとしても、それはまったくの見当違いの復讐劇でしかないのだが。

 半身を引き裂かれる激痛に泣き喚き、あれほど憎悪を叫んだラムだ。
 その身を焦がすような衝動を少しでも和らげられるなら、こうして朽ち果てるだけを選んだスバルの命ぐらい、差し出したって構わないのではないか。

 他人を思いやるようでいて、その本質は己の定まらない覚悟の行方を紛らわしたいだけの現実逃避。
 引き合いにされるラムすら侮辱するその思考に、しかし自分の恥と向き合うことすら忌避するスバルは決して気付かない。

 精霊すら見放すその身勝手な感情――そこにそれを遣わしたのは、あるいはそんな醜態を見るに見かねた天の采配だったのかもしれない。

「――あ?」

 ふいに変わる空気の感触に、這いつくばっていたスバルは顔を上げた。
 蹲る土の上、涙でくしゃくしゃの視界に変化はない。だが、葉や枝に遮られ日差しの差し込まない薄闇の中、スバルの神経になにかが引っかかる。

 それは本能から呼び起こされる警告だった。
 鳴り響く警鐘に身を起こし、片膝をつきながらスバルは周囲を見回す。目をこすり、視界を確保して、耳を済ませて息を殺す。

 草を踏む音が鳴り、枝が揺れる乾いた響きが連続する。
 早い。そして鋭い。なにかが鋭敏に、そして迅速に肉薄している。

 知らず乾いた唇を舌で湿らせ、とっさにスバルは足下に落ちていた羽ペンを拾った。逆手に構え、理由のわからない不安のままに正面に構える。

 ――瞬間、それは草木をかき分けてスバルの前に姿を現した。

「お、前は……」

 屋敷からの追手――ではない。
 あるいはそうであれば、とどこか期待していた弱さは裏切られた。
 勝手な期待にわずかに目を伏せる眼前、しかしそれは悠然と立ち尽くす。

 スバルの知識で言うならば、それはおそらく狼にもっとも近い。
 全身を黒い体毛に覆われ、四足がしっかりと土を噛んで身を低くしている。鋭い牙を並べた大きな口からは涎が滴り、漆黒に覆われた顔面の中央で、ただそれだけが存在感を主張する赤い双眸が爛々と光り輝いていた。

 体長はおおよそ一メートルほどで、体重はおそらく三、四十キロほど。
 元の世界であれば大型犬クラスの大きさだが、全体的にシャープな体形からはそこまでの強大さは感じられない。
 しかし、

「おいおい……」

 獲物を前に瞳をぎらつかせ、荒い息をつくその存在を前に、人間社会に溶け込んだ温い犬しか知らない人間が平静を保てるだろうか。
 明らかな敵意に牙を揺らすそれを前に、スバルの額を急速に冷や汗が濡らしていく。

 身動きひとつできないスバルの前で、それは頭を垂れて鼻を鳴らす。
 おそらく、スバルの匂いを嗅ぎつけてここまできたのだろう。遮二無二走ったスバルの体は枝にかすった擦過傷が多く、いまだに血のにじんでいる個所も少なくない。おまけに無様な嗚咽まで上げていたのだ。居場所を突き止める材料には事欠かなかったことだろう。

 頭を下げてこちらを威嚇する黒い犬。
 ふと、その犬の頭頂部に黄色がかった角が生えているのが見えて、確実にその生態がスバルの知るものと異なるであろうことが立証された。

 腹を空かせた角付きの獰猛な猛りに、スバルは心胆が竦み上がる反面、どこからわいたのかわからない安堵感すら得ている自分に気付く。
 あるいは目の前にいる獣ならば、躊躇せずにスバルの決断を肯定してくれる。そんな存在であるように、追い詰められたスバルには思えたからだ。

「ラムに殺されてやろうとか……そう思っててすぐこれか。我ながら尻軽すぎる」

 確固たる覚悟を持てないから、目の前の状況に流され続ける。
 これまでがそうだったように、今もまた目前の安易な状況に身を任せてしまう。
 その選択をすることを、間違いだとは思わない。思っても無駄だし、思ったところでなにが変わるわけでもない。

 両手を広げ、スバルは角付きの存在に無抵抗を表明する。
 一瞬、獲物の行動の意味が理解できなかったのか、身を低くしていた角付きが怖気たように震えたのが少しばかり面白かった。

「これだけ打ちのめされてる奴に、なーにをビビってんだか」

 口をついて出た笑い。
 まだ、自分がそんな風に笑える気力が残っていたのかと呆れる。

 ――笑いが出るくらい、なんだか気分が楽になっていた。

 眼前に立ちはだかる黒い獣――明らかに、スバルを獲物とみなしているこいつこそ、スバルの希望を叶えてくれる天の使いだ。

 自ら命を断つことすらできないスバルを、あの牙であの爪であの角で、優しく甘美な停滞へと導いてくれることだろう。

 死んで終わりになるか、あるいは戻って怠惰な幸福に沈むか。
 どちらを突きつけられるかはわからないが、こうしてスバルに切迫している手のつけようのない袋小路からは抜け出せる。

 今はそれでいい。それだけでいい。それ以上の贅沢は望まない。
 だからいっそ、ひと思いに――。

「あれ……?」

 晴れやかな気持ちでそう考えていたはずなのに、スバルはすぐ間近で鳴る固いものがかち合う音に水を差された。
 周囲、目前の脅威に注意を払いながらも音の原因を探るが、それは目につくどこにも見当たらない。
 そうしてすぐに気付く。見当たらないわけだ。当たり前だ。

 小さく鳴る固い音は、噛み合わないスバルの歯の根の震える音だ。

「――え?」

 呟きを漏らす唇が震え、手指に痛むほど血流が集中し、スバルの心臓が爆発しかねないほどの速度で鳴り響いていた。
 自分の体に起こる変調、それに遅れて気付いてスバルは愕然とする。
 どうしてこんなにも、体はこの場から逃げ出したがっているのか。
 まるでこれでは――、

「これじゃまるで……」

 ――死にたくないみたいではないか。

 体にすら心を裏切られ、スバルはもはや己の身すら信用できない事態に困窮する。そして、そんなスバルの掻き乱される心情も取り合わず、

「おぁ……?」

 獣がふいに視界から消えて、間抜けな声が森に落ちる。
 呆然と、つい今まであった漆黒の影の行方を追う。見つからない。

 直後、右足の付け根を強大な顎に喰らいつかれていた。

「ぎ……っ」

 牙が肉を貫き、神経に届き、刃物のような鋭さに傷口が広げられる。
 血が噴き出し、世界の動きが緩やかになり、凝然と見下ろした痛みの根本、そこに牙を突き立てる赤い双眸と、スバルの瞳が交錯する。


 ――生きていることを声高に主張するように、スバルの絶叫が森中に響き渡った。

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